「へぇへぇへぇへぇ」
 古市が唐突にずいと男鹿の目の前に近寄り、ニヤニヤと笑いながら何度も彼を見ては頷き、そして葵を見てはまた同じように頷いた。それを何度も繰り返されると、さすがにイラっときて古市の頭を殴ったのと葵が構えたのは同時だった。そのタイミングの良さに、思わず葵は自分が殴っていたのではないかと勘違いして、
「古市くん! つい……、ゴメンなさい!」などと訳のわからない謝罪を口にする始末。男鹿は握り拳のままさも当たり前のように葵にいった。
「邦枝、心配すんな。今は誰がどう見ても古市がキモいせいだ」
「いやいやいやいや! まずは邦枝先輩が殴りました的な空気をなんとかしようとしろよ、そこは!」と殴られた古市が堪らずツッコミを入れた。
 それはそれとして、と、古市はすぐに姿勢を正し、殴られた部位を自分で撫ぜながらいやに真剣な顔をした。
「なんか、さっきの話が微笑ましくって。神崎先輩からもこの間色々とあったみたいだってーの、聞いたし」
「はぁ?」
 男鹿と葵は声を揃えて何をいっているか分からないといった様子だ。古市が唐突に話し出したことは、言葉通りあまりにも唐突で誰にも理解できそうになかった。何より、さっきの話というものだが、特になんだということもない話だ。
「お、邦枝。包帯とか湿布、取れたのか。良かったじゃねーか」
「私は大したことないから…。にしても、あんたと東条の回復能力に驚くわよ」
 というこれだけの会話だ。いつもの、ケンカなり何なりがあれば交わされるであろうさもない会話に古市がニヤつく必要性を見出せない。
 古市がツカツカと男鹿に歩み寄り、肩にポンと手をやる。そしてまた物知り顔で何度も頷きかける。だから意味が分からないんだってばよ。
「他人のケガとか、そういうものに気づいたこと、それだけですばらしいと、俺は思う」
 古市の口にすることすることが、いちいちワケがわからない。誰かがケガをしていれば、普通なら気づくはずだろう。普通ならば、であるが。だがしかし、この話は男鹿だからこその話だ。確かに、男鹿からケガが治ってよかったな、などといった繊細なセリフが聞けるとは思わなかった。それにはよく考えてみれば葵はもそう思えた。ある意味では流してしまいそうなことを思い出させてくれた古市にありがとうの気持ちすら湧く。
「邦枝先輩が東条先輩に殴られて、それで気を失ったのを見てキレたんだ、って神崎先輩から聞いた」
「………ん、そーだっけ」
 それは一週間ほど前の出来事だ。くまちゃん学園じゃないヤツらとの抗争。しかも東邦神姫は真っ二つに分かれたのだ。それでみんなケガをした。それもひと時だけの話だったが。その詳しい経緯を古市は知らないが、神崎らから伝え聞いたのだった。古市は頷いていう。
「お前はそーいうヤツだよ、男鹿」
 こういう話を男鹿はあまり理解しない。だから古市だけが心に刻んで、そして葵に頷きかける。仲間のためにどんなことをしても助けるし、特に女相手にはフェミニストらしいところだって持っているのを古市は知っている。似たタイプではあるものの、東条は女だからと手を抜くタイプではないところだけが男鹿との違いだろうか。
「まぁ、……仲間だからな」
 男鹿はそんなことを口にしてそっぽを向く。特に、葵に対して。それは、言葉以上にあるなにか特別な気持ちを隠すつもりだから、顔を背けるのじゃないのか? と古市は聞きたくてたまらない。少なくとも、葵は男鹿への恋心を認めている。けれど、男鹿はどこまで経っても鈍感だ。だが、もしかしたら少しずつ、気持ちが動いているのかもしれない。それは、男鹿の些細な変化からも見て取れた。男鹿よりも男鹿のことを知る、古市だからこその着眼点である。
 それを、せめて葵には知っていてほしいと思ったのだ。あれだけ強く、そして長く男鹿を思ってくれる人はもう他にはいないのかもしれないのだ。これまで恐れられるだけの対象であった男鹿のことなどを。
 古市が葵へと視線をやる。葵もなんとも間の抜けた顔をしているではないか。もしかして知らなかったのだろうか。そんな細かい話はよくわからないで口にしたのだが。
「夢の中で、聞いたの…。男鹿が私を呼ぶ、声を」
 あれが本当のことだったの? と葵は驚きのあまり体を震わせていた。その声の震え具合に、なにか不穏なものを感じて、男鹿はようやくそこで葵の顔を見た。泣き笑いのような複雑な表情になっている彼女の心を、男鹿は理解できるはずもない。ただ不思議そうに見ていた。
「助けてくれてたのね。男鹿、…ありがとう。今さらになっちゃったけど」
「仲間がやられたの見て、黙ってられっかよ」
 男鹿はいつものようにぶっきらぼうにいうと、カバンを持って帰り支度を始めた。話はここで終わり、という合図だった。自分の分からないところで勝手にわけのわからない話を進められることは、男鹿にとっては多かったが、理解できない自分が面白くないところもあり、あまり長引かせたくないと思ったのだ。じゃあ、とだけ短い挨拶をして慌ててその男鹿の背中についていく古市。葵はそのまんましばらくボンヤリとしていた。


 その帰り道、男鹿と古市は当然、先の話になる。コロッケを買い食いしながらの道は、今日だけはいつもと違っていた。
「仲間、っていいよな」と古市。
 その言葉のすべてが、なんだかわざとらしいな、とさすがの男鹿であっても感じたので、それについては何も返さない方がいいかと思い、何も言わなかった。そこは、もしかしたら高校に入ってからいろんな人と関わり合った上で、わずかにすこぉーしずつ、少しずつ変わって男鹿が賢くなった、そんなことの表れなのかもしれなかった。昔なら、古市のくだらないことに何も言わないだなんて、そんな選択肢はきっとなかったから。
「男鹿。お前なら、信じてくれる。だから、任せられるんだよ」
 古市はそんな、関係があるのかないのか分からないことをいう。もちろん、古市の心の中では関係があるのだけれど。
「そんな仲間の邦枝先輩のこと、どういうふうに思ってんだ? ぶっちゃけ」
 それだけでいい、短く尋ねる言葉は。だから古市は面倒な言葉なんて使わなかったのだ。男鹿に合わせて。それを聞いた男鹿は、なにも答えない。眉間にしわを寄せている。まだ、答えられないのだ。考えというか、そういう、いろんなものが頭の中でまとまっていないので。
 てくてく。子供の絵本みたいな、こんな足音を聞いているわけではない。てくてく、という感じでトロくさく歩いて帰る、ということだ。つまり、時間はたっぷりある。男鹿から何か、話を聞きだすにしても、何にしても。だから、男鹿が答えないその時間、古市は「てくてく」と歩いていた。男鹿とともに。それは、どこか懐かしい記憶に近い。
「古市」
 口を開いたのはもう、家から近い公園を五周もしたあとのことだった。これだけ長い時間、考えた男鹿の姿なんて古市はこれまで見たこともない。それだけに、マジなんだな、と感じる。
「よく分からん。ケガ治って良かったし、治らねぇケガなら同じキズつけてやってもいいかな、って思った。そんだけ」
 どうして。
 古市は思う。どうして、こんなにストレートな言葉が吐き出せるのだろう。ある意味、語彙が少ない、そのことがとても羨ましくもあった。
 なぁ、それは……お前を守りたい。それ以外の何だというのか。守りたいと思う、それは特別な何かなのだと、誰が教えられるのだろうかと、古市はまた分かりやすく男鹿に、男鹿自身の気持ちについて自覚してもらえるような言葉を探すのだった。


15.10.17

お疲れ様でございます。

東邦神姫アンソロ、こっちについては天使の、まあ天使とか本編とはほぼ関係ないifです。
男鹿の気持ちと、古市と、葵ちゃん。
まぁどうにかなってほしいとばかり思う男鹿と葵ちゃんです。

こんな感じから、プライベートに入っていってもらえると、自然かなあとか。