※ ひめかわ夫妻 暗いので閲覧注意

 ヤケになったかのように、彼女はタバコを口に咥えて、しばらく吸い込むと吐き出す煙があまりに似合わない。それは呪詛のように竜也の胸の奥底に近いどこかにじわりじわりと滲んでくるようだった。だが、それを口にしたところでどうしようもない。痛いほどに分かる彼女の気持ちは、突き刺さる彼女以外の視線が物を言っているみたいだ。だが、それは気のせいなのだと分かっている。分かってはいるけれど、それでも気のせいと思い切れない自分がそこにはいるのだった。竜也は、ごうごうと音立てて回る換気扇の下で夫婦揃って吸うタバコの不味さに眉根を寄せながら立ち上がる。タバコは不味いけれど、目の前にいる嫁のことはなんとかしたいと思う。それをどう伝えればいいだろう。急に変わったことをするだなんて、おかしな話だ。そう思えばこそ、竜也はなにをしていいのか分からなくなるのだった。だから竜也はなにもしなかった。してやらなかった。どうすればいいか分からないから、である。ただ、二人で肩を並べてぷかりと浮かんだ煙を眺めた。白く濁った煙はやがて空に消えてゆく。どこにいくわけでなく、本当は壁とかあちらこちらに付着しているのだ。人の目に見えなくなるだけで。気体はだから強い。見えないからこそある強さ。人は固体だ。竜也も、潮も。固体は気体を吐き出して生まれ生きている。ああ、すべての事象が生まれたことから始まる。生まれることすら許されなかった彼女の腹のなかに宿った新しい生命を思い出させる。どうすればその想いを少しでも遠くにしてやれるのだろう。竜也はタバコを揉み消した。
 子どもができないとなってから、潮はタバコを吸い始めた。もう産むことはないのだから吸ってもよいだろうと彼女は、煙を不味そうに吐き出しながらいった。その言葉はまるで呪いの言葉に聞こえた。どうしてそんなことをいうのだろうか。あまりに悲しいではないか。諦めしか口にしない彼女は光を失った太陽のようだった。それは、太陽ではない。そして、周りの星たちはきっと死んでゆく。まるで自分がその周りの星であるかのように、そんなふうに竜也は感じるのだった。
「おれ、やだなぁ」
 タバコの煙を吐き出しながら呟くように、だが、潮にはしっかりと聞こえる声色で。潮はその言葉の意味を図りかねて、竜也の顔を覗き見るように静かに横顔を見つめる。やだなぁ、といいながらもその目には特に感情はこもっていないように見えた。ただ、横顔だから分からない部分もあるのかもしれない。そう思い、潮は竜也の顔を覗き込もうとした。だが、覗き込む前に竜也の腕が伸びてきて絡め取られるかのように、腕を潮の身体に回してガッチリと瞬間、固定してしまう。え、と言う間に潮の唇に軽く触れる。やわらかなそれとそれが触れると熱量が生まれるようだ。潮はそれだけでとろんと目を潤ませたがすぐに竜也は口から離れてゆく。
「な、にが?」
 名残惜しさに目を細めながらも元の姿勢に戻って、潮もタバコをもみ消した。どうせそんなに美味いものでもない。だが、喫煙率は高い。そういうことだ。ただの依存。大人のおしゃぶりと呼ばれるその所以も知らないはずもなく、それでも吸い始めて惰性は続いてゆく。だが隣にいる竜也はどうだ、昔から美味いといって吸っていたではないか。潮にだけ分からないはずはない。潮にだってその美味さは伝わるはずだ。そう思って咥えるのだ。しかし隣の竜也の視線は刺さるように冷たい。
「タバコ吸う女」
「自分だって、吸うクセに」
 竜也は前にこんなことをいったことはなかったはずだ。どうして今、潮を責めるのか、その理由について潮は納得できなかった。だが、それに竜也は気にするそぶりもなく、煙を吸い込んでゆくごうごうと音立てている換気扇があるところを眺めている。顔も見てくれずに、嫌だなどというのか。潮はいたたまれない気持ちに陥る。どうしてこんなことをらいいながら竜也はキスしたんだろう。分からないことだらけだった。潮もまた竜也が見ているであろう換気扇のある箇所を見やった。ゆっくりと竜也は顔を下ろし、潮へと目をやると、見ないようにしながらもチラチラと様子を伺っていた潮はすぐに気づいてしまう。
「おまえは、」
 竜也は言い聞かせるように潮の目を見て、だが、言葉を選んでしばらく考え込むものだから頭の中は考えがまだまとまっていないのだろう。潮はそんな竜也の真剣な眼差しがとても愛おしいと思った。だが、言いたいことが彼女の心にはまだ伝わらない。知りたいし感じたいとも思うけれど、言葉にならない想いはふわふわとどこか目に見えない形ないものが浮遊しているみたいだ。まるで認識されない透明人間のよう。まだ言わないのか。まだまとまらないのか。潮の気持ちだけが焦れる。竜也もきっとそうなのだろうけれど、いつもと表情はさほど変化がないから分かりにくいのだ。
「タバコ吸って、気が済むんならいいけどよ」
 一旦言葉を切る。わざとだ。こちらの気が竜也にビンビンに向かっていることを、竜也も分かっていて、なお計るだなんて、なんて策士なのか。昔から竜也にはそういうところがあった。顔色を見るわけじゃない、どう使えば一番合理的に使えるのか、その打算をしている。そのとき潮はいった。人間を数式や公式には当てはめるような考え方バブどうかと思うぞ、と。あのときまだ潮が男として生きていたしばらく過去の話だ。あのとき竜也はなんと返してきたのだったか、潮はすぐには思い出せなかった。
「タバコを吸うことで、殺してるみてえだ」
 急に飛び出す、傷のような言葉。瞬間、その意味を理解できないで、すこしだけ止まる。殺伐とした世の中には生まれたけれど、実際に殺したり殺されたりする関係というものは、世の中の秩序がある限り、この狭い日本ではなかなか起こらないのではないか。だからこそ平和ボケ云々といわれるのだろうけれど、それはそれで幸せなことだからそれを甘受して生きていくのもまた道。勿論、そうして潮も竜也も生きているのではないだろうか。殺すとか殺されるとか、そういうことは一般の人らよりはいくらか近いけれど、それでもそうは近くはない立場で。そう感じているからこそ潮は竜也の言葉が理解できずに聞いた。
「殺す…? 何をいってるんだ」
「こーんなチョットした自殺だ。おまえは、死ねばラクになるとでも思ってんだろーけどな」
 死は安息だ。死は眠りだ。死は、終わりだ。
 潮は思う。だが、死は残されたものが哀しむだけの永遠。生きている間という有限の永遠。言葉の意味に矛盾があるのは承知の上。だが、死は生きているものへの拷問にも似た気持ちを植えつける。死の相手が誰であるかには当然よるものだけれど。その死を重く思い起こす。己の身体の痛み。腹の痛み。頭の揺れ。動揺。動悸。不安。すべてがぐらぐらと沸き立つように瞬時に思い出せる。
 わたしの子ども。生まれてくるはずだった彼は、生まれ落ちることすらこの世は許してくれず、命と呼ばれることだけを許してもらったが、それは見ることすらできなかった。それが体内にはあったときの鼓動と、温かさ。そしてそれが失われたときのぽっかりと空いた、それは空洞とも呼べる大きな穴で、愛があってもそれは竜也でさえも埋めることのできない空虚。誰もその身体の奥に温めていたことがないから理解できない。もしくはそんな昔のことなど忘れてしまった母たち。だからといって傷の舐め合いがしたいわけではない。すべてから逃れられるのは、死しかないのだろう。潮の想いはそこへしか向かわない。終わりだけがこの空虚を埋めてくれる。
「子供を産むだけが幸せだ、なんて昔の人間のいうことだ」
 竜也はあのときの言葉を聞いていたのだろうか。時折、分からなくなる。今欲しい言葉をくれることがある。それは欲しくてほしくて、壊れてしまいそうなときに限って。なんていうタイミング。今も、そう。潮は泣きそうなのを堪えながら竜也を睨みつけるように見る。見つめる。
「今の時代、子供を産んで捨てるやつも、殺すやつも星の数ほどいる。望まれない子供だっている、そりゃあ山ほど。だったら、産まれられなくても、望まれた以上は良かったんじゃねえか」
 きれいごとのようにしか聞こえないけれど、それは竜也の本心。現実、竜也は望まれたわけじゃないから、金だけ与えられてほったらかされた。そんな思いをしたことのない潮は、手塩にかけて育てられたが、男としてという歪んだものになった。すべてが歪んでいる。だからこそこんな悲劇につながったのかもしれない。因果応報などというつもりはないが、嫌なつながりを感じずにはおれない。
「子がなせないと人としての価値がねえだなんて、むかしびとしかいわねえ理屈さ。馬鹿馬鹿しいったら、ねぇわ。だったら、俺たちの年商は価値がねぇのか? 買い物だって好きなだけできるっつぅのに」
 本心ばかりで語るのは恥ずかしい。竜也は茶化すようにそういって、眉を上げわざと悪どく笑う。潮の目はすでに濡れている。今にもこぼれ落ちそうな涙を、指でぬぐってやると、潮は甘えてその手に頬ずりしながら鼻を鳴らした。潮の母はいったのだ。人間として生まれたなら、子をなすべきだと。それは生きとし生けるものすべての、当然のことだと。そうしてあなたは生まれたのよ、と。だが、ぞっとした。生まれて初めて潮は、母親に触れられながら鳥肌がたった。それは、過去のことをなかったことにしてしまえている事実に、寒気を覚えたのだ。男として育てようとしたのは、あなたではなかったか。潮は震えながら声すら発することができなかった。ただ、母が離れてくれることだけを待ったのだった。その母の言葉は矛盾していて、かつ、とても痛い。すべてを否定する竜也の言葉だけが、今は癒しであり、とても愛おしい。


神様は今日も泣いていた


タイトルicy


15.02.19

姫川夫妻の話ですが、全く進んでませんねw
でも思いついた、というか姫川がこんなこというんか!というような言葉をいうシーンが書きたかったのは、大いにあります。でも、キャラ壊しまではなってないんじゃないかとしんじてる。

ここで潮は久我山の自分の親に疑問を持つように、大人になるのです。ちなみに、三十路くらいなので遅すぎるんだけど、青春時代は基本男として生きてたし、遅れはしゃーねぇーわなー。というところか。
2015/02/19 20:22:52