ゆめなら醒めないで。
望んだことがほんとうになると、ひとはどうしてこんな、弱気になるんだろう。
うれしくて、待ち構えていた事実に、こぼれ落ちそうになる涙のつぶだけが、ほんとうをものがたる。
ああ、ゆめなら覚めないで。


とろりと溶ける



 少し前に買い込んだ、チョコレート。溶かしてとろとろにして、想いを詰め込めばきっと伝わる。それをすると言いだしたのは、あくまで友チョコを配る気持ち満々の由加の晴れやかな笑顔だった。だが、葵の心だけはそんなかんたんに澄んで晴れやかなものにはならない。それを察した由加や寧々はいつものように葵をからかう。
「姐さんは、男鹿っちにやらねんすか〜? ウチと寧々姐さんは、男鹿っちも含めてみんなにやるっスけど──」
 にやにや、ニヤニヤ。由加と寧々が行動にしないまでも、肩を小突くような仕草をする。好きだと認めてだいぶ経つ。隠しててもバレバレだったと気付かされた時は、恥ずかしくてはずかしくてどうしようもなかったけれど、認めてしまえばそれは単純なことだった。葵は、ただ、理由なんてわからない。ただ惹かれていた。彼のことばかり目で追っていたし、好きだと思った。ただ、それだけのこと。理解すれば簡単なものなのだ。結局、押し込まれるように寧々と由加と葵は、三人でチョコレートを買いに行った。
 由加はアッサリと、安くて見た目の高そうな物ばかり選ぼうとしている。徹底した義理チョコ精神。それはそれで悪くない。寧々は葵と一緒にチョコレート売り場のあちらこちらをブラブラとしながら考え込んでいる様子だ。だからなにか気掛かりでもあるのか、と葵も気になって声をかける。
「どうかしたの?」
「え?……んや、あ、なんでも、」
 煮え切らない寧々の態度に、恋をしているんだ、と葵は胸に抱く。自分だけじゃない。クラスメイトでレディースの彼女だって、ある人と出会って、ある時から急激に恋が始まり、恋に落ちる。ぷかりと浮かんだ寧々への疑惑を確かめたくて、葵にも余裕が出てきた。きっと葵の知る人へその淡い想いを温めていたのだろう。自分の気持ちばっかりで、まったく気づかなかった。どれだけ疎いんだ私。
「誰に……あげるつもり?」
「そりゃ、みんなですよ姐さん」
 ソツのない答えにいつもの寧々を取り戻す。表情もやわらかだ。盗み見るように見た、先の横顔はどこか冷えた空気に揺れていたみたいだったというのに。こうして揺れて曲がりやすい気持ちこそが、きっと女の子の恋心というやつなんだろう。
「本命は、だれに渡すつもり?」
 寧々が思う誰かのことが分からなくて、それを思わず問うた。同じ秘めたる想いを共有する仲間としても、こうして同じところに立っている。レディースメンバーとしての付き合いが、こんなほんわかと胸の温まる間柄にまで発展するだなんて、過去の自分たちにはきっと予想し得なかった。それは、恋というものを知らなかったから。バレンタインデーなんて、ただの過ぎゆくくだらないものだと一笑していたから。こんな気持ちになるだなんて、信じられないことが降り注いだから。
「姐さん…、アタシが考えてたのは、そういうんじゃないですよ。ただ、……由加みたいに買うほうがいいのか、姐さんみたいに手作りのほうがいいのか、って。それで考えてただけです」
 そんなこと、去年の寧々なら一笑に付していたはずだ。だから、それはきっと恋のはじまり。気づかない、まだそんなちいさなつぼみなのかもしれないけれど、寧々はきっと恋をはじめている。葵は確信していた。言葉には出さないけれど。ムリにそのつぼみを摘んでしまうことはない。葵はすぐに本命うんぬんの話を切り上げて、チョコレートの型を取る器具を選ぶ作業に戻った。一緒につくろう、そう言って。



 盲点だったのは、その日が学校が休みだったことだ。土曜じゃん! 金曜に渡せばいいんじゃないかと言われてもいるが、14日が土曜ということならば13日は金曜日だ。さすがにイメージが悪すぎるそんな日に、人生で初めての心を込めたチョコレートを男鹿に渡すなんて、嫌だと思ってしまう。葵は悩んでいた。一緒に寧々とつくったチョコレート。学校のカバンに入ったまま、葵が歩くのに合わせてそれも揺れる。朝からそればかり考えて、授業も気持ちいいほど疎か。右から入って左から抜ける。左から入って右から抜ける。そんな芸人がいたっけ、どうでもいい。学校にはいくらかの3年生と、葵たち2年、男鹿たち1年が高校に通う。渡すなら今日なのに、葵の脳内で音もなくジェイソンのチェーンソーが振動した。嫌な気分だ。そして、どうしてか由加も寧々もチョコを配っているそぶりも見せない。不思議だった。だが、それを聞いたら浮くような気がして、なかなか聞けずにいる。どうせ見透かされているというのに。分かっていてもできないところが葵らしいところである。
「姐さん、これ…」
 寧々と由加から手渡されたチョコを手にして、葵はポカンとしていた。可愛らしくラッピングされたその小箱を見つめて、むず痒いみたいな気持ちになっていた。
「ど、どうしたの?」
「姐さんの分と……、あと、姐さんが渡す時、一緒に男鹿っちにも渡してもらえません? あ、義理チョコですからねっモチロン! ウチらドロボウネコってワケとかじゃないっスから!! みんなにやるんで、男鹿っちだけムシってワケにもいかないじゃねっスか、だからっスよ」
 そんなことは言われずとも分かるけれど、やはりこれは葵の背中を押してくれている、そういうことなのだろうか。葵の胸に広がった温かさは、いつでも背中を押してくれる。やはり、渡さないわけにはいかない。葵はちいさく肯いた。渡そう。想いは、うまくは伝えられないかもしれないけれど。それは、実は隠し持っている今日のこの日に。語呂が悪いとか縁起が悪いとか、そんなことはどうでもいい。
「分かった。渡せばいいんでしょ」
(私の分と、いっしょに。)
 包みを受け取り、それをカバンにしまう。千秋は友チョコのみで男子には配らないらしい。千秋からもらったチロルチョコもなんだか可愛らしい。
 今度は、渡すことだけで胸がいっぱいになってしまって、葵の気持ちは授業には一切身が入らなかった。元々入っていないけれど、まったく上の空。男鹿の姿が見たくてたまらない。だが、学年の違う二人は違う教室で、休み時間やらしか、その姿をうかがい知ることはできない。



「アレ? 電話?」
 葵のケータイがブルブルとバイブレーションを波打たせている。気づくのが少し遅れたが、間違いなく葵のケータイだ。慌てて出ると、それは寧々からだった。急いで歩きながらの電話のようで、彼女の声は息も荒く途切れ途切れの様子。小走りくらいの歩きながらの電話のようだ。
「あ、姐さん? あのっ、ちょっと今日……用事、できたんでアタシ先上がりましたからっ」
 それだけ寧々が告げると、電話は切れてしまった。一方的だ。違和感はあったが、切られた以上、すぐに確かめる術はない。ただ、ぽつねんとした廊下でため息まじりに言うのだ。
「帰るかぁ……」と。
 寧々と帰るつもりだったが、その寧々がいない以上、葵は一人で帰ることにした。通い慣れた帰路であるし、何の問題もない。校門を出る辺りで低い声を掛けられる。それが自分のことだと分かったのは、呼ぶ声がしたからだ。低く、とても心を掻き乱される、やわらかさのない、攻撃的ですらある、そんな声。しかし、それでも聞きたくて聞きたくて、堪らない彼の声はすぅっと葵の心に響いてくる。そう、声というのは心に響くものなのだ。
「邦枝っ」
 振り向くと、そこには男鹿がいて。
 降ればいいなと思っていた雪はふわりとも舞っていない。けれど、そんな中でさえも彼は、男鹿は、葵の会いたくてあいたくてたまらないその人に他ならなくて。呼ばれただけで胸はバカみたいに強くつよく脈打った。ただの寒いだけの冬空の下で、校門を挟んで向き合う。どうして男鹿が葵のことを呼ぶのか、そんなことなんてお構いなしに。今の偶然に葵はひたすら胸を躍らせた。ただそれだけ。
「一緒に帰ろうぜ、って………古市が」
「は、え?」
 最後のほうはちいさく、男鹿はへんなことをいう。どうしてここで古市という名称が出てくるのか。訝しげに葵は男鹿の顔を見る。男鹿はどこか挙動不審だ。いつもと様子が違う。
「なに」
 ドキドキしていたのがバカみたいに思えて、葵だけのひとりよがりだと言い切られた気がして、いたたまれなくなって、そして不機嫌だけが表立つ。葵の不機嫌そうにささくれ立った声色に、男鹿はようやく葵を見る。
「古市が、へんなこというから……悪いんだよ…。は、気にすんな」
「なによそれ、イミわかんない」
 葵側から視線を外して先立って歩き出す。こうして一緒に帰るのは初めてではない。だが、こんなおかしな雰囲気になったことは初めてだ。歩きながらふと思う。古市はバレンタインとかそういうものに聡いだろう。気を利かせてくれたのではないだろうか。どうせ葵の気持ちが筒抜けなのは分かっている。たまにこうして男鹿とのことで気を回してくれることも過去にいくらかあったはずだ。だったら、恥ずかしいとか玉砕が怖いとか、そういう想いだけじゃなくて、背中を押されるべきなんじゃないだろうか。後ろからジャリジャリと音を立てて着いてくる男鹿の足音が葵の胸の内を掻き乱す。いつもの道がどこか知らない道のように感じられる。人通りのすくない陽当たりのいい、スクールゾーンから一本だけ外れた小道。陽が当たる場所には落ちた木の枝と、二人の影だけが色濃く落ちてそこにある。二人の影だけが長く道の上に伸びて歩を進めている。
「古市くん、なんていったの?」
 男子たるものバレンタインだなんだと浮かれているのはおかしい。とは言いつつも、浮かれるのが少年からずっと変わらない男心というやつなのだけれど。葵の問いにバカ正直に答えると、それはそれでチョコなんていうものを期待してる感じがありありと出てしまって男としてやるせない。男鹿は言葉に詰まった。だが、喜んだりソワソワしたりするのは、ごくフツウのことなんだから気にすることもないだろう。そう思ったのもまた事実。浮わついてるわけじゃないんなら、話しても問題などないではないかと。
「たまに邦枝と帰れば、ってよ。なんかもらえるかもしんねーしってな」
「…そ。やっぱそういうこと」
 葵は特段変わった様子もなく頷いたので、男鹿は内心からかわれなくてホッとした。そう、古市から聞いた話がそれだけならば、いつものことだから男鹿はこうしてバレンタイデーなどという日について何かを思うことなどなかったのだろう。けれど───
「はい、男鹿。これ」
 不意打ちみたいに渡された数個の包みが葵から手渡されて、男鹿の歩みばそこでぱたりと止まった。それは古市から言われたはずの未来の姿だったのだけれど。
「──バレンタイン。明日でしょ、みんなから渡してって頼まれてたし」
 個数からいくとレッドテイルの仲間たちからだろうというのは想像がつく。なにより石矢魔高校は男子がかなり多い。これだけもらえるだけでも相当にラッキーなことなのだろう。男鹿の反応が薄いので葵は続ける。
「これは由加から。こっちが寧々、でこれが涼子から」
 渡されたのはその三つ、葵の名前がない。そのことに胸がザワつくような気持ちを感じた。それを口にするべきかどうか、考えたのはほんの一瞬。どう思われるか、ではなくてどう思ったか、なのだ。男鹿にとっては。
「邦枝は?」
「え?」
「お前のはねぇの?」
 出しかけた手を男鹿は引っ込めて、そう問うた。葵は、渡したいのに、どうしてか渡せなくなってしまった。ある。ここにある。渡したい。でも。男鹿は当たり前のように葵を見て、不思議そうな素振りをする。男鹿はそこでようやく気づく。葵からもらえると思っていたものが、ない。それに落胆している自分自身がいた。言われたせいか、ほしいと知らないうちに思っていたのか。男鹿自身が、今まで自分のことなのに気づかなかったこと自体に気づく。ほしいと思っていたものが手に入らないことの気持ち悪さ。そして、ほしいと思っていなかったものが手に入っても、特に嬉しくないという気持ち。それがない交ぜになって、気持ち悪さが勝つ。それならばと思いはその気持ち悪さを消したいとつよく思うようになる。消すためには、葵からバレンタインの贈り物を貰えばいい。答えは簡単だった。そう思えば分かる。認めるしかない。欲していたのだと。葵は肯定も否定もしないものだから、それは用意すらしていないし考えてもいなかったのだろう、と男鹿は推測する。だったら、この気持ち悪さを払拭はできないまま終わるのだろう。葵はそんな男鹿のことが分からなくて、ぼんやりしていただけだ。ある。ほんとうはある。チョコレートはすでに用意している。だのに、どうしてだか素直にその口は動かない。どこかへそ曲がりな口は、こんなことばを紡いだ。
「…ほ、ほしいの?」
 強気なセリフは合わなくて、どこか声が震えてしまうのが情けない。言われるとそうだと男鹿は気づく。言われなければ気づかない。認めるしかない。一歩だけ近づいて、男鹿は肯く。
「くれんのか?」
 質問を質問で返すな、というのはよく言われることだが、これはまさにそんな場面で。男鹿はそんなことも構わずに疑問符をうつ。葵はそれに戸惑う。まるで、自分が墓穴を掘ったみたいな気持ちになって、でも、それが期待なのかいらねぇや、なのか分からずに頭の中がいっぱいになる。どう返せばいいのか分からなくなってしまった。だから、考えなんてまとまらないと大したことも言えるはずもなくて。
「あるわよ。でも、今日じゃ、ないじゃない」
 勢いと、強い思い。それがない交ぜになって葵は言ったのだ。可愛くなんてない言葉をこうして。こんな強気なことを。だが、驚きはそれだけじゃない。男鹿は今度はさらに驚くことを口にした。
「じゃ明日、な」
 それは待っている、という一言と同意で。それについて何と返せばいいのか、葵には分からなかった。今まで悪魔らとの戦いのこともあり、互いのメアドやTEL番はもちろんアドレス帳に登録済みなのだから、連絡はいつだってできるのだけれど、それでも、その機会は今までほとんどなかった。用事がないのにする、だなんておかしいと思っていたから。その辺りをどう問うべきか分からないまま、男鹿はスタスタと行ってしまう。手を伸ばしたいけれど、その伸ばした手の意味を聞かれた時にどうすればいいのか分からない。そんな気持ちが先行して伸ばせない。明日の約束なんて、それこそ、約束もしないままに。



***

 幕間。
「上手くいったかしら……姐さん」
「俺は男鹿が大ポカやらかしそうで…」
「アタシたち、なにしてんのかしら…」
「ダチの心配っすよ」
「してる場合? アンタこそチョコの一つや二つ、貰ってないんじゃないの」
「あー、はー、ははぁー。おー察しのとおーりーでぇー」
「ハイハイ。そういうと思ったし、これ」
「お、おおお、おお! こ、こりわ…! あ、ありがとうございますっ! 学校のマドンナ寧々さんからもらえるなんてっ!! おありがとうございますっ! お、お礼に俺と付き合ってくださっ」
「バーカ、義理チョコでしょうが。百年早いのよバカ市」
「え、えー………」
「お互い、ダチの心配してる痛み分けってことよ」
「はぁ、まあ、そうっすね。邦枝先輩、メチャクチャ照れ屋だし上手く渡せてるといいんですけどね」
「男鹿は……どうなのよ。アタシら見てると悪い感じはしないんだけど、よく分かんないっていうか」
「なんつぅか…あいつは、涼しいカオして結構、熱いとこあるし。分かりづらいヤツだけど、でも、邦枝先輩のことは、満更でもないと思うけどなぁ」

***



 2月14日、土曜日。
「あ、雪」
 窓の外を眺める葵の口から漏れたのは一つの呟き。ため息にも似た。はらりと舞う白くて小粒なそれは、落ちては消えてゆく儚い雪。結局、昨日儚いケータイの前でぼうっとして火照る顔もそんまんまにいたずらに時を費やしてしまったけれど、時折鳴るケータイは待ち人からの連絡ではなくて。ひどく落胆する度に自分はなんてやつなんだろうと自己嫌悪に陥ることを何度も繰り返し続けた。それに諦めて眠ったのは日を跨いでから。きっと、昨日の彼とのやりとりは、白昼夢。まぼろしだったんじゃないかと心の中で否定しつつも布団にくるまると、一週間の疲れは程よく葵を覆い包んで眠りにはいる。どんなに想っても届かない想いはある。諦めに近い気持ちを抱いて葵は日課である道場に一汗かきに向かった。

 日々の鍛錬と家族一緒の朝食から戻ると、自室に置いたままのケータイが着信があったことをランプで告げていた。休みの日に着信、ちょっと珍しいな。葵が何気なくチェックすると、息を呑む。ほんとう? ディスプレイに映るその人の名前に、声を失う。夢でもまぼろしでもなかったのかと。留守電はない。一時間近く前にかかってきていたらしい。かけ直すべきなんだろうか。でも、どうして。昨日の話の続き。あ、そういえば寧々たちのチョコ、受け取ってもらってない。コレ渡さないと。じゃあ、起きてるの分かってるんだし、かけ直さないと。でも、ああ、頭の中ぐちゃぐちゃ。でもでも。でもばっかりだ。そんなことをうだうだと考えていたら、電話が急に鳴り出したものだから「きゃっ」といって手離してしまう始末。慌てて縋るような格好で電話をとる。テレビ電話じゃないし、相手からは見えていないのだから気にすることなんてないのだろうけれど。
「あ、も、もしもしっ」
「あー、おー、俺。邦枝?」
 電話というのは不思議だ。いつも低いし迫力あるなと思う声だけれど、それよりももっと低さと深みを増した声が葵の耳に届く。男鹿の、そんな低くて落ち着いた声が好きだ。鼓動が激しく弾む。ぜんぜん平気でなんていられない。
「さっき、電話したんだけど──…寝てたか?」
「あ、えっと、違うのっ。ちょっと、道場行ったり、ご飯とか食べたりしてて…」
「ふーん、まーそーか。邦枝、朝早そうだし。じーさんもいるしな」
 そこで、へんな間。もしかしたら、男鹿も緊張しているのかもしれない、だなんて葵はドキドキしていた。電話なのだし何か話をしないと。そんな思いばかりが空回りして、顔からいらない熱ばっかりがポッポと出るばかり。
「あー、でよ。そのー、昨日の〜………」
 昨日の会話が頭をめぐる。細かいことまでは覚えてなくても、バレンタインの話をした。男鹿はまっすぐに葵を見て、「明日な」といって去った。それだけは事実。だからこそ、こうして男鹿は今までよこしたことのない電話を葵にかけたはずだ。煮え切らない言葉の向こうに、男鹿の気持ちが見え隠れする。でも、それが何と言っているのか、葵には伝わらない。
「…じゃぁなくて。まあ、なんつーか、そのう…、後でベル坊の散歩がてら、そっち行くかなって思ってて」
「う、うん…」
「寒ぃから、昼過ぎ…そっち行くわ。顔出すんで」
 唐突に電話が切れて、ツーツーと冷たい電子音だけが葵の耳に残る。今耳に残っている会話が信じられない。葵はぼうっとしてどこでもない、そこへ視線を彷徨わせていた。ほんとうに起こった、あり得ない出来事に身を任せていて、しかも今日は聖バレンタインデー。そして男鹿。昨日のチョコ──寧々、由加、涼子から預かった分も含めて──をひとまとめにして用意しておく。喜んでくれるかな。一緒に告白をしたほうがいいんだろうか。でも。考えていると時間はすぐに過ぎていく。告白。何度も考えたことだった。けれどできなかった。恥ずかしい、とかどうしよう、とか嫌がられたらどうすればいいのか分からない、とか男鹿の返答はきっと突拍子もないことなんだろうし、とか頭の中がこんがらがっちゃうばかりでまとまらない。何度もなんども深呼吸をして落ち着こうとがんばる。無駄ながんばりを繰り返すことしばらく。
「葵ー」
 祖父の葵を呼ぶ声。
「小僧が来てるぞ〜」
 きた。
「葵〜」
「…っ、今いく」
 小僧というのは男鹿のことだ。きた。電話のとおり来てくれたんだ。来ないとは思ってなかったけれど、時計をチラと見ると1時を回っている。もうこんな時間か、と。そして、今さら気づく。これではチョコを持っていることがバレバレである。なるべく祖父から変に思われないように、部屋に置いてあったコーヒーショップの紙袋にチョコたちを押し込む。上着を羽織って小走りで外へ向かう。男鹿が来ている。それだけでこんなに心が躍る。吐く息が白い。出た門のところに祖父がいて、意地の悪い笑みを向けてきた。気のせいだといいのだけれど。
「おじいちゃん。ちょっと出てくるから」
「フン」鼻を鳴らす祖父はどこかつまらなさそうだ。そんな祖父を視線の外に追いやって、佇む男鹿に目を向ける。制服以外の姿を見るのは初めてじゃないけれど、やはりどこか緊張してしまう。着込んだオーバーとマフラーが冬らしさを伝える。背中にはっしと捕まるベル坊もちゃんと防寒着姿だ。こっちはなんだか新鮮。雪は足元に降り注ぐと途端に溶けるようで、もはやひとかけらも残ってはいないようだった。
「お待たせ」
「おう」
 短くそれだけいうと男鹿はスッと歩き出す。葵はそれに倣う。吐く息は白い。さくさくと歩く音だけが彼らの耳を刺激する。二人で歩いている──厳密にいえば、ベル坊もいるのだけれど徒歩はしていないし──。それを感じるだけ。不思議な気持ち。ふわふわに似た感覚。ついでにいうと男鹿としては葵の祖父の視線がどこか痛い。なので早めに移動したいというのもあったのである。スクールゾーンではない道を歩きながら、口を開いたのは男鹿が最初。
「どこ行くか、考えてねえんだけど」
 無計画っぷりを暴露した。そもそも、こんな日に来た理由がうまく説明できない。
「まぁちょっとぶらぶらして、で、戻ろうぜ。いちお、昨日いったんだし」
 そこでまた言葉に詰まる。昨日、という単語を出した途端に、男鹿はまるで自分がおねだりしているみたいな気になってくるのだった。そんなつもりでいったわけじゃないが、そう思われているような気になってくる。そう思われるのは心外だし、否定しておきたい。そんなふうに見られるのは嫌だ。
「…あ、でも、その、昨日っていっても、そういうんじゃねーから。あー、なんつぅか、そのう…、昨日ああはいったけどよ、べつに、慌てて準備しろとか、よこせとか、そういうつもりでいったわけじゃ、ねえから」
 今度きょとんとするのは葵の側だった。たどたどしく話す男鹿の口からはどこかいつもと違う気の弱そうな言葉しか出てこない。男鹿っぽくない男鹿のそんな姿。でもそれはいやじゃない、嫌いじゃない。
「なんっつーか、…ないならないで、いいからよ」
 ぎくしゃくと頭を動かすその髪を何か言いながらキャッキャと喜んで引っ張るベル坊がその場を和ませる。どうして男鹿がアセアセしているのかはよく分からないが、男鹿なりに気遣いをしてくれていたのかと思うと、葵の胸はじんわりと温かくなる。そういうところだって、すき。
「ううん、あるわよ。慌てて準備したってワケじゃないし」
「そ、…そっか」
 なぜかホッとしたように男鹿は落ち着きを取り戻す。たかがチョコひとつで。そう、たかがチョコ。友チョコだって、自分チョコだって、家族チョコだって、みんなあるのに。でも、たかがは「されど」で。葵がそれを取り出そう紙袋に手を入れると、男鹿はパッと近寄ってきて周りをキョロキョロしながらいうのだ。
「こ、ココで渡すのか?」
「え?」
 葵もその態度にたじろぐ。今日の男鹿はやはりへんだ。緊張しているし、心配しているし、挙動不審である。葵もそれに合わせて周りを見回したが、誰もいない。それに誰かの気配だってない。
「移動、したほうがいい?」
「……そっちの道のがいいんじゃねえか」
 別に誰かに覗かれてるわけじゃないのだから、どこだっていいのだけれど。そういうならと葵は黙って男鹿に続いた。渡せさえすればいい。気づくと緊張はほぐれていたみたいである。脇道に移動して、葵はチョコを取り出した。昨日と同じだ。ただ一つだけ違うのは、自分の用意したチョコもあるということ。
「えっとー、まずこれが由加、でこれが寧々、これが涼子の。で、こっちが──……」
 葵がつくった手作りチョコ。ラッピングも寧々と一緒に選んで買ってきた。へんに意識しないようにハートとかピンク色とかは選ばなかった。こういうところもまどろっこしいと言われるのだけれど、告白なんてできっこないと思っていたから。だからあえて無難なのを選んだというのに。手にそれが当たると思ってしまう。今なら言えるんじゃないかと。息を呑む。すき。あなたがすき。男鹿辰巳が好きだと。だからもらってほしい、と。
「これ、が……私の───」
 取り出した途端に、男鹿の手がパッと葵のチョコだけを掠め取って、手から重みが消えてゆく。瞬間触れた男鹿の手は冷たい。男鹿はその手に葵のチョコだけを持っていて、そのラッピングを眺めている。
「邦枝。」
 胸が痛むくらいにドックドックと高鳴っていて、息苦しいほどだ。男鹿の目がどこか真剣で、今までの時間はなんだったのだろうと感じる。慌てて返事をするだけで、せいいっぱい。
「あ、はいっ」
「…ありがとな。俺、これだけでいーわ」
 男鹿は口元を僅かに歪めて、笑う。悪意ある笑みじゃないけれど、悪意があるみたいに見える笑み。男鹿はそのチョコを自分のオーバーのポケットにしまい込んだ。そして歩み寄ってくる。葵の間近に。
「あ、え、でも…」
「お礼、してもいいか?」
「でも、それって…」
「──今。」
 男鹿の手が葵の肩を掴む。お礼とか、そんなつもりで渡したわけじゃなくて。ホワイトデーにもらったらそれは嬉しいけれど、そういうのを気にするタイプじゃないと思ってもいたし、気を遣わせるのも悪いと思ったのだ。だが、それを答える前に男鹿は身を屈ませて葵の顔に近づいてきたから、言葉は声にならずそこで固まってしまった。どうして男鹿は。そう思った途端、歯に硬いものがカチンと当たる。
「だっ」「イッタ…」
 慌てて二人で離れる。どっちも口を押さえている。これって…。男鹿はいう。
「だーっ、どうすりゃいいのかわかんねぇよ! ちくしょー!」
「ちょっ…、何してんの?! い、今のって…」
 二人で真っ赤な顔をして、何しているんだろうって話。
「何って、……お礼」
「ちょっとちょっとちょっとー!」
 キスに慣れていない二人がする、ネタみたいな事故。そんなことが二人の間に起こるだなんて、誰が信じられるというのだろう。
「…や。バレンタインのお礼は、その……キ、…ス、でって。古市が」
 またあいつか。へんな入れ知恵したのは。
「ま、まぁ、俺も、友チョコとか、そういうの、知らねぇわけじゃねぇし…、へんだなって思ったんだけど。でも、古市が」
 またか。
「けど…、『嬉しいです。付き合うのいいですよ』って思ったら、……するんだ、って古市が」
 またかよ。って……ん?
「間違い、だったら…すまん」
 ぺこりと男鹿は深く頭を下げて、ワケもわからないままに謝罪する。さっきの男鹿の言葉を、葵は脳内で反芻する。あああもう、ちゃんと覚えてるんだろうか。レコーダーに録音しておけばよかったなどと思いながら。何度も脳内再生をしてから、出した声は震えていた。仕方ない。
「…ほ、ほんと?」
 ゆめなら、さめないで。そればかり願う。
「………はあ?」
「その、っ、…ナントカって思ったら…って」
 ナントカの部分がすごく大事。ほんとうにそう思ったんだとしたら、それはとても、葵にとってもステキなことで。降って湧いた幸運みたいな出来事。男鹿の顔も赤い。きっとこれが答え。
「じゃあ………いい、か? お礼」
「えっ、…あ、うん」
 向き合って、近づく顔。さらりとかかる長い男鹿の前髪。男鹿には逆に葵の前髪と、長い髪がフサフサとまとわりついて、まるで離れたくないという気持ちを代弁しているみたいに思える。そんな都合のよいことばかり考えた。触れたそこが温かいのか冷たいのかも、分からないほどにどちらも緊張しきっていた。2度目は歯がガチンコしなかった。ちゃんと、互いが互いのやわらかいところに触れた。鼓動も共有するみたいに、胸と胸がくっついたわけじゃないのに、シンクロしているとどうしてだか分かる。後になって分かる話。どうして男鹿が渡す場所で狼狽えたのか。それは、こういうお返しをするためだったんだ。すきの反対がきすで、一緒にしてぐちゃぐちゃになって、すきだからきすしたのか。きすしたらすきなのな、もうなにがなんだか分からなくなってしまう。そんなしっちゃかめっちゃかの気持ちの中で。離れた男鹿の唇を、葵は密かに思う。

「さっきの、ほんとう?」
 男鹿はなにもいわない。元よりこういう甘い雰囲気が苦手なのだろうけれど。苦手だからといって、勝手にファーストキスを奪っておいて、それはないじゃない。と葵は思う。
「付き合うのいいですよ、っていうの」
 ベル坊の影が揺れているのは、動いているからだ。なにか言葉にならない言葉と、たまに「とーたん」と男鹿を呼ぶ声も混じる。髪をもじゃもじゃといじくっている、いつもの光景が葵のすぐ隣にある。
「…そのつもりでもらわねぇと、相手に失礼だ、って古市が」
 また古市か。でも、今回だけは悪くない、嘘も方便。まさにそんな感じ。だから男鹿はいったのだ。たしかに。
「俺、これだけでいーわ」
 あれは聞き違いでもなんでもない、少し前にあった現実のこと。今も耳に残る男鹿のたしかな声。男鹿が選んだのは葵。葵が求めるのは男鹿。男鹿の気持ちはまだ恋とは呼べないのかもしれない。けれど、いずれは認めるしかなくなる。昨日感じた、あの焦りにも似た感情を。今の満ち足りた気持ちを。言葉にするのならきっと、それは恋と呼ばれるそれに近いと。すきと言えるその日まではまだ遠いかもしれない二人に、ハッピーバレンタイン。そして祝いのキスを。寒いのに温かいこの日に。


15.02.15

バレンタインネタって、私的には嫌いなんですよw 今回書いたのは、なんだか知らないんだけど2/13に舞い降りてきたんですね、寝て起きたら。ネタっていうか、この話が。でまぁ「書こう!」っていう。
まぁそれだけなんですよねw


嫌いといいましたが、そのね、元々バレンタインって、バレンタイン司教が死んだ日なわけでね、その人を悼むような内容とかならいいかなって思うわけですよ。恋愛ものとかじゃなくてね、もう、告白とか好きとか、あとお菓子屋の戦略が凄まじくヤラシイなって思っちゃうんですよ。そういうのがあけすけな感じが嫌いっていうかね。お菓子屋〜!とか思っちゃうんです。
べつにチョコうんぬんって話じゃないですよ。そういうのに乗っかりたくないっていうのがあるだけです。

ついでに、ダウンタウンの松っちゃんじゃないけど、カカオ豆からつくらないと手作りじゃないですよね?って、こう、そういう目で見ちゃうんですね。ナナメ見してるからね。世界をね。



で、この話ですよ。
グダグダ感もありますけどね、久々の文章ですし長くなりましたね。読み応えは十分かなぁと思います。
この男鹿の奥手っぷりは、まさに深海にてを読んでいると「んなわけあっか!」なのですが、あの文書こそがぼくの創作なのですから、気にしないように。今回の話のが原作には近いかなぁと思いますよ、ハイ。
この文で伝わるかは分かりませんけど、これはもう葵ちゃんは当然、男鹿も初恋で初チューだというシチュエーションですね。even!間違いなく!高校生でこれはねぇだろって今時は思うんでしょうけど、まあそういう芽生えがないのもいるって信じてる。


とりあえず最初は男鹿が「葵だけのしかいらない」っていうのが書ければなぁと思ったんだけれど、個数で競う部分もあるからね、バレンタインっていうのは。だからそれもまぁおかしいよなって思ってはいたんですけど、男鹿ってへんなとこまっすぐっていうか、一途な感じはありますから、こういうふうにしても、男鹿ならおかしくないかなって思った部分もあるんですよね。割としっくりきたんじゃないかと思ってます、古市のせいで。

そこは友チョコ義理チョコだっていうことで、葵がいいくるめて持たせたんじゃないかと思いますけど。ちなみに裏設定では男鹿は今までは姉ちゃんと母ちゃんとほのかちゃん(古市の妹)からしかもらったことないって感じですかね〜。で、気にもしてないんだけど、家族からはいらねぇよって感じでちょっとイライラする…みたいな。

あ、ちなみに男の子はお母さんとかからもらうと、いたたまれなくなるみたいで逆にかわいそうな感じになるので、あげないほうがいいみたいですよ。バレンタインは。友達にも恥ずかしくて言えんし…ってなるっていう話でね、なんか笑えますけどね。複雑ですよ、男心もね。



余談。
まぁ私のバレンタインはといえば、今年はテレビ見て寝てましたし、そもそもチョコっていうのがあんまり好きじゃないんで微妙なところではあるんですが、まぁ結構毎年(今年はもらってないけど)もらうんですね。「佐藤さんに食べてほしい」みたいな話でね、いやいや彼氏にやれや、と言うんですけどね。どうやら、公正な評価を下してくれそうということ(美味いとか不味いとか)で、批評してほしいとかでもらったりとか、まあ大体もらう側なんですよ。あげないし、まぁそうなるともらうんでしょうね。

数年前に一回あげましたね。
本命です。相手さんは。でも、チョコはそんな好きじゃないし、相手もそうかなと思って酒を買って一緒に飲もうって。まぁイチャコラする理由が欲しいだけですよ。
そしたら「ないの?」みたいな感じになったんで、「は?」ってなって。チョコなんか欲しいのかよって。私はいらんからねべつに。くれるんならもらうけど、お返しもしないよってヤツですし。
しゃーないから寄ったコンビニでクランキー買ってあげましたよ。

ちなみに、そのとき私がもらったチョコせんべいを二人で食べたんですけどかなり美味しかったです。京都みやげだかなんだかの。かなり美味しいです。ハート型だったなぁ。

ちなみに、ふつうにいらないと思うんですが、まあ恋をしてるときはそういうのぶっ飛んで急に乙女になるからね、女は。アホですね。
そういう意味では、いつでもドキワクしてる男のほうが変わらないのでいいと思いますよ。私的にはね


タイトル拝借しました。color seasonさんのバレンタインで10のお題より。ありがとうございます。。
2015/02/15 17:41:24