身動きが取れない




ある日、曹操が歩いていると、逆の方向から颯爽と人影が現れた。怪しげな笑みを浮かべた老人だった。しかし背は曲がっておらず、白髪のせいで年に見えるが、実は若いのかもしれない、と思った。
その老人は5枚の符のようなものを片手に持ち、それをヒラつかせながら曹操の目の前に現れると、微笑んでこう言い、空気に溶けて、消えた。

「曹孟徳、いずれ息子に恨まれることだろう…」


その妖術師の老人の話をいくつか、曹操の息子の曹丕は、父が息を引き取る少し前に初めて耳にした。
曹丕は聞いた時、馬鹿馬鹿しくて思わず笑ってしまった。「父は耄碌(モウロク)してしまったのだな」と。
しかし父が死に、しばらくしてからふと思い出した。自分も、幼い頃にその老人らしき人に出会っていたことを………



その老人らしき人に会ったのは、私がまだかなり幼い頃だ。物心こそついていたものの、その当時の記憶はあまりない。
当時とは、私が十の歳の頃。まだひとりの人間としても認められてはいないほどの頃の話だ。
その頃、私の兄・曹昂が戦死した。
父も一緒だったにも関わらず、兄は燃え盛る炎の中から逃げ遅れ、その中で最期まで戦いながら、父の右腕的存在である典韋と共に亡くなった、というのが周りの者から聞いた話だ。
私はまだ当時は戦というものも、父のやろうとしていることも、殆ど理解していなかっただろう。
だからこそ当時は兄も、父も、皆を同様に家族として深く慕っていた。私は当時、その者らのことがただ単純に「大好き」だったのだ。

今となってみれば、もし兄が生きていたならば愚かな父は私を世継ぎに任命せず、兄に自分の後を継がせたことだろう。
その行く先はきっと、兄の甘い政策にぬるま湯のようになった我が曹魏が滅されて逝く姿が拝めたことであろう…。そうなってからでは遅い。兄が逝去していたからこそ、この国は私や仲達の力によって強大になれたのだ。
そう考えれば、兄は父のために命を賭すことができ、私の覇道に貢献でき、良かったのだろう。
しかし、当時の私は深い悲しみの淵に立たされながら、兄を想い未熟な詩を書き連ねたものだったが。
そんな私の背中を、ある時父は力付けるように、なだめるように軽くぽんぽん、と叩いたのだ。
その時、私はまだ父に嫌悪感を抱いてはいなかった。ただ、兄がいない喪失感に苛まれていただけだった……

いつからだったろう。父を愚かだと思い始めたのは。そして嫌悪するようになったのは。
少なくとも、今の私は父を英雄のようである、と心から慕う幼子ではない。
ただ一人の、浅ましい人間だと思うだけだ。

それを考えていたら、床に臥していた父が私に、何かを思い出したように、例の老人の話を語り出したのだった。
私は父の話を、何という風でもなく、ただ聞き流していただけだ。私が父を恨んでいることに対しても、「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。ただの耄碌ジジイの戯言だと思っていたからだ。
しかし父が死に数日が経ち、私は老人の存在を思い出していたのだった。

その老人は、唐突に現れた。
兄が死に数年が経過し、その傷も癒えた頃だったように思う。
何の変哲もない、普通のある晴れた日に私は、背をぴっと延ばした老人の姿を目にした。
しらない人だ。
異様な格好をした、怪しげな雰囲気漂う人だったので、当時の私は声を掛けないで気付かない振りをして遠ざかろうと思った。しかしそんなことは、何の意味も持たない。向こうから声をかけてきたのだから。

「こんにちは。
確か……曹孟徳の倅だったね…」
わざとらしく微笑むと、辺りの木が揺れたような気がした。私は人間か?という違和感を持っていた。
言葉にならぬ恐怖のようなものが、年寄り相手に愚かにも、私の胸中に渦巻いていたようだ。

「亡くなった子脩くんに花を添えにきたんだ」
兄のことだ。
言われてみれば、と目を向けると、老人は小脇に薄汚れた布の手提げ袋に花を入れている。
老人はそこに手を入れ、花を取り出し私に向けた。
「すまんが、これを添えてやってはくれまいかな」
老人は父と険悪なまま別れ、顔を合わせづらいのだと言う。
怪しげな爺さんの持ち物などどうでもいいし、触れたくもなかったが私はその場を収めるために花を受け取った。
その時、永遠とも一瞬とも思える時が、私の脳裏を駆け巡った。あんな感覚は、あれ以前あれ以降、万に一つもない。
老人と私の手が微かに触れた時、どのくらいの時間私はそこから動けなかったのだろうか。

どうしてか分からないが、その時私は燃え盛る炎の中を走っていた。体とは別に、意識だけがそこにあった。
扉が眼前に広がっている。いくつもある扉は、居場所を惑わす幻惑のように、熱によって煙によって蜃気楼の如く揺らめきながら存在している。
向こうの扉を、何か叫びながら叩く者がある。目を凝らすと、それは死んだはずの兄だ。
どうしてそこにいる?
しかもこの炎の中。
「父上!早く、逃げてください」
しばらくすると兄が扉を蹴りだした。私も加勢すべきと察知し、扉の方だけを見つめる兄の傍らにで、共に扉に蹴りを入れた。
並んでみると、私は兄を超えられぬと悟った。…身長では。

しばらくすると扉は重い青銅の擦れる音がし、鈍く開く。部屋の中に煙は充満していなかったらしく、開いた扉の外から濁った空気が一気になだれ込む。私と兄はそれに噎せ涙目を擦りながら父のいる場所を目指した。
「父…上っ……」
何故か父を見つけた兄の言葉は、その勢いをなくしていた。私が遅らばせながらその場につくと、そのあらぬ光景に言葉を失う。
知らぬ女を抱く父の姿。
煙と炎が迫って、空気はもうその色に染められだしていた。
獣だって危機を察知すれば逃げ出すだろうに。その獣の如き儀式は続いていた。
父が貫くと、女が啼き、張りを無くした胸や腹が揺れた。美しい顔だが歳はとっているようだ。
しかし…炎を背に喘ぐ赤の女ほど色っぽい者はないと、私は思った。
隣に呆然と立ち尽くす兄が息を呑んだのを見て、同じ思いなんだと感じる。皮肉なことに私たちは親子で、兄弟なのだ…。
兄はすぐに父と女を引き剥がしにかかり、私もそれに倣う。
口では「火事になっています」とか「早く逃げろ」とか言っていたが、私も兄もあの美しい女を父から奪いたかっただけだ。
「父上、悪来が馬を引っ張ってきていました。今なら間に合うから、さあ早く!」
「子脩、お前もいくぞ」
父が兄の手を引いた時、父は私の方を見なかった。
この時初めて、私は気付いた。私は思念体のようなもので、誰からも見えていないのだという事実に。
そう気付けばすぐに煙も炎も私の体を脅かすものは失われたが、ほんとうに触れたいものにも触れられなくなってしまった。
そこで息を荒げ、父を見つめる裸の女のことも。

「もちろん、鄒も…」
父が女に手を延ばし、女の名が鄒であることを悟る。その手を兄が払う。ばちん、という音は周りの燃えていく音にかき消された。
「今は迷っている時期ではない!馬には一人しか乗れぬことを、父は知ってるだろう」
兄が必死の形相で父に訴えていたが、私には分かっていた。兄は鄒という女を自分のものにしたかっただけなのだ。
馬は父の分しかない。兄は生を絶望した。そして女も助からぬ。ならば残った生を、美しい女と共に過ごすことを選ぶ。当然のことだ。
父はしばらく定まらぬ目で考え込んでいた。しかし分かった、とばかりに頷いて父はその場を去っていった。

私は理解した。
「兄を殺したのは、父だ」

すぐに兄は一糸纏わぬ女を獣のように襲う情事、最期には燃え悶え苦しみ骨だけになっていく様を、私は一部始終を見つめていた。
目を逸らすことなど、できなかった。存在する空間の違う私には、手も足も出なかった。
けれど兄は苦しみながらもほんの一抹の快楽と幸せを掴んでいたのか。私には知る術もない。
私はただ崩れていく城の中に佇んだまま…拳を握り締めていた。
自分勝手な父に。
愚かな兄に。
それよりさらに愚かな、父のために命を落とした者たちに。
兄と父に嫉妬もしていた。
私もあの女を………


ふと気付くと、私は炎の中にはいなかった。
花を落としたらしく、足下に花が散らばっていた。
あの老人の姿はない。夢であったかのように。
しかし散らばる花が、事実を告げる。
急に訪れた平穏な時間に、いくら私であろうとも辟易してしまう。
もう一度周りを見回す。が、老人は雲隠れしてしまったように消えてしまった。
私は、兄のためにと渡された落としてしまった花を、拾うこともせずしばらく見下ろした後、足で周りに散らし、その場を後にした。
くだらない。
兄にも、父にも、花を添えるなどくだらない。
私にはそう思えたからだ。


どうして急にこのような話を思い出したのだろうか…。そして、どうして忘れていたのだろうか……。

辺りの寒々しい雰囲気に、微かに身を震わせ曹丕はこの雰囲気に覚えがある。
あの老人が現れた時の様子に似ていたことを、肌で感じて知っていたからだ。
風が吹く。
辺りの木々を、音立てて揺らす。
冷たい空気が頬を撫でる。

木陰から声がする。
「花を添えてくれ、と言ったというに……」
記憶の中の老人がそのまま目の前に現れる。
昔見た姿も年寄りだったが、今現在見た姿と寸分違わない。異様である。
「だからそなたは…長く生きられぬ」
視線がぶつかった瞬間に、幻は消えた。
きっと幻だ。
私は長く、この曹魏を担ってゆくのだから…。
曹丕は老人の姿を払うように、かぶりを振って常の不敵な笑みを口元に浮かべた。





曹家でお題シリーズその3ですた。。

*不思議な老人・左慈の話(笑)細木数子的な?
張角さんの話も書いてみたいんだけど……
宛城のエピソードが蒼天航路っぽくなってしまったのは…偶然(前にパラ読みしたヤツ/笑)
一人称ものを書くのは気が引けましたが…まぁクソ坊主を書いてみよう、と。
また、ひねくれていく仮定とか、初恋かもしれぬ想いとか、年増&人妻好きになる要因とか、変わったキャラを絡めて腐れ脳味噌全開で書いてみました。
司馬懿とのカップリングものなら…その辺のサイトさん覗くと読めるんじゃないですかね?(笑)



2006/07/19 08:54:15