意気地無し




曹魏が新たに、国民の道標となった日。
それに仕える軍人達は気持ちを入れ替え新しき若き王を見直しつつも、疑問を抱いていた。それは、新しく魏を統べる者となった曹丕の横暴振りに不安を覚える声もあったからだ。
彼の父であり、これまでの曹魏を立ち上げ、支えてきたその人の名は曹操。彼が政権を握り支配力を強めてきたのは事実だが、彼は自らを「王」としようとはしなかった。勿論、政治的な意味を含めてである。
それを解らずに自ら「王」となるために突き進んだ若き王はやはり、浅はかだと思い密かに溜息を吐いた曹操の従兄弟・曹仁の姿が、そこにあった。

「やはり……殿の目は曇っていたな。病魔に侵されたせいもあるだろうが」
隣に陣取る彼の弟が悲愴の目を向ける。
「純、やはり……自分は曹丕を、曹操の跡目として迎えるべきではなかったと切に思うのだ。むしろ彼女を…」
彼の言葉はそこで途切れてしまったため、弟は理解できず俯いたまま無言を貫いている。

愛を失った旅人は、いつも悲痛な叫びを押し殺す。

もう何十年も前になる。曹仁が従兄弟の曹操と共に自分達の信じる「道」を貫くために立ち上がったのは。
まだ互いに若僧で、血気盛んで怖れを知らなかった、懐かしき愛しき時。曹操には皆を引っ張る魅力があった。それだけは自分には到底敵いはしない部分であると、曹仁自身もよく解っていたからこそ彼の下に就いたのだ。

時は流れた。曹操には数え切れぬ子供と孫を持ち、最後には息子に跡を継ぐよう言い残し、息を引き取った。
その息子は、世間知らずで我儘に育った坊ちゃん、曹丕。全て自分のほしいままに手に入れてきた。彼の本妻も、またそうだ。
曹丕の妻は美しい。
話によれば曹操が初めて連れて行った戦で、敵軍の者の妻としていた女だというが、その魔性の如き美しさに目も心も奪われてしまったのだそうだ。
魔性と言われる所以は、曹仁にもよく理解できた。それは…、彼もまたその美しさに心奪われた大馬鹿者の一人だったからだ。
彼が他の者達と違う点は、その彼自身の「立場」にある。曹仁は当時の曹軍でも高い立場にいた。もちろん軍の旗揚げ当時からいるのだし、軍の長である曹操の従兄弟でもあるためだ。
しかしその曹操の息子ともなれば、自分とさほど変わらぬ立場。これを考慮した曹仁は自ら彼女の件は身を引くべきであると悟った。
しかし、簡単にそうならなかったのは因果か、それとも、運命か。

初めて二人だけで話したのはいつだったか。平穏な日に池の周りを歩く曹仁の元に彼女は訪れた。
「曹仁様……とおっしゃいまして?
私もこのような心和らぐ風景に癒されたいと思い、参りましたの」
下卑たところはなく、品格のある仕草の中に相手への配慮がなされており、足早に歩くその姿は美しい。
「嵐の前の静けさか…、乱世はまだ終わっておらん」
「私も、貴方様同様に平和を望んでおります」
何かに祈り、伏せられた瞳に風になびき睫毛が揺れる様も、組まれた手も、美しい。
「では……自分がそなたに平和を捧ごう」
彼女は言葉なく彼を見つめ、その艶やかな瞳が生命の光に満ちていること、そして自分を映しているという喜びに打たれ、思わず動いた曹仁との影が重なった。
その時の温もりを、墓場まで持って行くだろう…その時から、曹仁は予感していた。

本当のことを言えば、そうやって曹丕の目を盗んで密会したのは数えるほど。抱き合えば互いの体温と鼓動は感じられる。

しかし時は流れ、軍は肥大し、軍同士の戦は拡大、当然乱世は深まり、愛を深め合うだとか密会するだとかいった、自分の時間すら持てぬほど。
いつしか、彼女と曹仁は会わなくなっていた。彼はその人のことを忘れた日などなかったが。

そうこうしているうちに時間は経ち、皆歳をとった。
戦死した仲間。
病死した仲間。
乱世から逃げ出した愚かな元・仲間。
様々な出会い、別れを経て、そしてつい先日、従兄弟であり、自分自身の属している魏軍の長が、亡くなった。
彼の人を惹きつける魅力に胸打たれた者達を何とか落ち着かせるために、曹仁はしばらく奔走していた。
旗揚げ当時から付き従っていた彼には、曹操の力には直結の息子と言えども、敵わないことを知っていたから。
そんな忙しい日々を送っていると、曹仁はその功績を称えられ、軍事官最高の大将軍に次ぐ役職に任命されたため、さらに忙しさを増していった。
そんなある日のことだった。彼女が、再び目の前に現れたのは…。


いつか見た顔よりも、その顔に時の跡は刻まれて、年月が経っていることに気付かされる。
昔は薄かった笑い皺が、あの頃にはなかった慈愛感を醸し出している。それは、聖母の包容力を感じさせる。若い頃の刺々しい美しさとはまた違った、柔らかな雰囲気が備わっている。
いくら歳を重ねようと、彼女の美しさは変わらない。
「お久し振りですわ、曹仁様」
「し…いや、魏王夫人となられたのであったな、無事で何より」
「えぇ、ここに在る限り、私は危機に晒されることはありませんわ。けれど…」
夫人は曹仁の頬にその手をそっとやさしく添え、顔を見つめる。
「貴方様は戦場に何度も向かい、傷を増やしておられるのですわね…」
心底心配そうに、熟れた果物のような光沢放つ唇は、小さくではあるが言葉を紡ぎ出す。
その光沢に魅せられて、曹仁は夫人の腕に手をかける。数秒、時を止めて互いを映し柔らかな場所に触れ合う。どちらともなく。
「自分は、平気よ」
肩を寄せ合い、小さく笑いながら彼女に答える。平静を装ってはいたが、心は揺れていた。また触れてしまったことに。
「そなたは今……いや、殿はどうなのだ?」
感情の炎は、瞳の中に現れる。どんなに巧みに平静を装っていても、チラリと覗く揺らめくような感情の流れを止めることはできない。曹仁は見逃さなかった。
「お忙しいようですわね…。魏王になられたばかりですもの」
夫人は常の温度を取り戻したように瞳を向ける。先ほどの揺らめきは気のせいだったか。
曹仁は彼女に問い掛けようとした本当の言葉を飲み込んだ。そして、代わりの言葉としてこう言う。
「乱世が終わる日も、近かろう…」
「えぇ、私達が待ち望んでいた未来の姿が、やっと……ですわね…」
彼女が曹仁に目を向けているのを、彼は分かりながらも隣に肩を寄せ、その目を見ようとはしなかった。故意に。
見てしまえば、また前のように溺れていく気がする。少年のように、そして少女のように。互いを欲し合うことは、これからは許されない。
魏王の妻。
彼女は、魏王の妻だ。
流れる時の中、曹仁はそう自分に言い聞かせ続ける。
たゆたうような緩やかなる時間が、闇を濃くしていた。この闇が、二人の顔を覆い隠す。きっと、誰か通りかかっても、誰であるかなど判別はつかないだろう。
そして闇は、流れる時の流れの感覚を鈍らせる。どれほどの時間を共有したのか分からない。大して会話も少なかった辺り、そう長い時間ではないだろうが。
「夫人。自分はそろそろ…」
先に立ち上がったのは曹仁。その時にふと目をやると、夫人の瞳の輝きが映る。一瞬で脳裏に焼き付くような印象を彼に与えた。
何かを訴えている目。
「貴方様は……私をもう、名で呼びはしないのですね。…昔のように」


その言葉が、今でも耳に残っている。何度も、想い出の中で彼女は言う。
あの時、彼女は曹仁に救いを求めていたのだと知ったのは数日後のことだった。


彼女は、自殺した…


曹丕が、彼女に自殺するよう命令したそうである。
その理由は、曹仁には分からない。
彼女は、最期の賭けなのか、縋るところを無くし現れたのか、曹仁に救いを求めてきたのを理解したのはその知らせを聞いてからのこと。
ちゃんと問い掛ければよかった。
「そなたは今、幸せか?」と。
名を、呼べばよかった。ただ一息に、
「甄」と。

曹仁は弟・純にも聞こえるように呟く。
「自分が……甄を、奪えばよかったのか」
独り、暗闇に身を投じるが如く、自らの愚かさを、意気地無さを、消えぬ想いと共に、繰り返し繰り返し悔いる。
何も知らない弟は、ただ、兄の震える声を耳に入れ、驚きの表情を浮かべていた。





*カプモノ〜!話によると世間喧嘩売りカプらしい??
不倫を美しく。…がモットー、どうでしょ? グダグダだろうか、思ったより長いし…
やはり甄氏の自殺命令の理由が気になる…。それはこれから丕シリーズとして紐解いて行こうかと(笑/当然勝手な解釈上等!!)
今回はピュアな感じだけど、もっと汚れた感じも書いてみたいぞ…(最低だな、オイっ)
この間に石田さんの「眠れぬ真珠」を読んでたので、それはかなり参考になってるかも。望んではいけない、けれど運命の愛、みたいな感じは元々あったからパクリじゃないぞ。
マイナー曲Love is here聴きながら

曹家でお題シリーズ2でしたっ!!

2006/07/14 08:52:18