白の暗闇





 穴を掘る。
 男は、穴を掘る。
 埋めるための、穴を掘る。
 ただ一心に、穴を掘り続ける。
 穴を掘る。穴を掘る。穴を掘る。

 穴が開いたその箇所は、暗闇の中でぽっかりと、他の場所よりも漆黒の闇をつくり、色濃く存在している。
 男はやっと終わった、と額の汗を拭いながら面を上げ、空を拝む。
 この時期は確かに温かになり始めたが、朝晩は冷え込み、寒い。しかし激しい肉体労働はその冷えた空気をも跳ね返して、男の身体に汗を流させるほど。
 大きな穴は、ただ静かに黙って、そこに大きな口を開いている。大きな大きな穴。

 しかし、男はその穴が何故、必要であるのか。その理由をしらない。ただ、
「穴を掘っておいてくれないかな」
 と友人にいわれただけのことだ。男は友人の言葉に素直に頷き、穴を掘り始めた。
 大きな穴はすぐにぽっかりとその場に口を開けた。しかし友人は、
「もっと、もっと大きな穴がいいな。頼めるかい?」
 と人懐っこく微笑んだ。だから男はその力を活かし、承知したわけだ。
 夜の闇が辺りを照らし、濃く染まった中で、やっと穴を掘り終えた。汗ばむ身体をその場に投げて、ひとつ大きな息を吐く。その傍らには大きな穴。男の、力仕事のすべて。
 さすがの呂布も、この大仕事に流れる汗は止められなかった。





 その穴ができあがってから、数日後。
 暗い表情の呂布が、張遼に励まされるように肩を叩かれて、部屋から出て行った。
「フッくんなら、できるさ。なぁに簡単だ。だっていってたじゃないか。『あんな豚ごとき』って」
 そう。この日は、呂布が董卓を殺した日。後日、董卓の死を巡って当然世界は大荒れに荒れるのであるが、呂布はこの時、気持ちを固めながらそれでもまだ、軽い足取りにはなりきれなかった。
 きっと呂布自身も解っている。自分が董卓を殺すことは、容易いことだと。
 酒と女に溺れ、そのぶくぶくと肥え太った身体は、数年前に様々な戦闘を重ね猛将に名を連ねた時とは大きく違い、そして呂布という義理の息子を持った今では、彼の力を信じきり自分ではただ遊び歩くだけになってしまい、鉛のようになったその身体では、天下無双の男といわれる呂布のその実力などには到底、敵わないことは誰にでも分かること。しかし、誰もが感じている。底知れぬ、董卓の不気味な力を。理由無くそれは、呂布をも追い詰めるかのように、目には見えぬが確かに、そこに存在している。
 それは確か、『恐怖』という名の邪念ではなかったか。天下無双には、一番に必要のないものだ。



「今日、きっとフッくんは董卓殿に引導を渡してくるだろう。…今日できなければ、きっと一生フッくんは、董卓殿の玩具に成り下がってしまうだろう」
 張遼は、二人っきりで貂蝉と話をしていた。貂蝉には、声に出すべき言葉が見つからない。そんな困っている貂蝉を無視するように張遼は続ける。
「少し前にね、フッくんに頼んで、穴を掘ってもらったんだ。私の自室の裏庭に。今は草で隠してあるけれど、大きな穴だよ」
 ワザとらしく手を広げ、オーバーアクションで説明する。思わず貂蝉はクスリと笑ってしまう。いつものこと。
「…そうなのですか。是非、見てみたいです。けれど、何故そのような大きな穴を?」
「そうだなぁ、後でにしよう。…というか、本当は最初からそのつもりだったから。穴を掘った理由……それも後にしよう」
 そういって張遼が貂蝉を見つめながら肩に手を置く。彼が真っ直ぐに貂蝉を見つめることは、珍しいことだ。彼自身はそのつもりはないのかもしれないが、貂蝉はそう感じている。肩に手を乗せたままの、少し長い沈黙。しかしそれを打ち破って、貂蝉は訊く。
「文遠様…。どう、されたのですか……?」
 しばらく、張遼は口を開こうとしない。その、無言の時を愉しむかのように、ただひたすらに、相手の心の内を覗こうとでもしているかのように見つめ続ける。その間にも貂蝉の肩の上に置かれた手は、彼女の肩に少しの重さと熱を流し続け、その質量を思わせる。
 その時間は長いものに感じられたが、時間にして長くても数分。実際は数十秒というほんの一握りの時間だったかもしれない。貂蝉が、もう一度口を開こうとすると、その唇に指が当てられ、
「今晩は、応えよう。キミの気持ちに」
 言葉無く、貂蝉は相手の言葉を理解しようと驚きの表情で顔を上げ、微笑んだままの張遼の顔を見つめる。
「応えるよ。…ただし、今夜だけ」
 張遼の、もとから細い目がさらに細く糸のようになって、微笑みの形を象る。唇に添えられた指が離れ、ゆっくりと頬を撫でる。
「今夜はきっと、たっぷりと時間はあるだろうし。…私も」
 ゆったりと音も無くその顔近づけ、静かに相手の唇に触れる。貂蝉の体温は、この数秒の間に上昇しているかのように、熱を帯びている。逆に、貂蝉からしてみれば張遼の唇は冷えているようだ。
 触れるだけの接吻は、すぐにその唇を離し、また互いに見つめ合うように顔をつき合わせる形となる。貂蝉の頬は桃色に色づいている。急なことに驚きを隠せない様子。
「……応えなければならないと思っていた」
 よく通る、高く澄んだその声は人の胸を打つ。

 離れた部屋で、呂布は董卓ともにあるのだろうに。
 その心の打つ声色は、無視すべきではない、大切な事実を一時、忘れさせてくれる。
 呂布は今、董卓の腕の中で悦びと苦しみの狭間で、きっと非常に苦しんでいるのだろうに、貂蝉は今、それを記憶の端から切り離し、張遼の腕に身を任せ、幸福の淵に自ら身を沈ませ、現実の世界などきれいさっぱり忘れ去っていた。
 張遼がいった「今夜だけ」。それは、きっと仕方のないことなのだろう、と彼女は瞬時に思った。それ以外に自分たちが繋がる道はない。自分たちはきっと愛し合うことで幸せになれるわけではない。それは前から分かっている。それでも望んでしまうのは、人間の卑しい部分なのだと、そう頭で分かっていても、気持ちの踏ん切りはつかない。
 愛することは、愛してほしいと願うことなのだろうか。人は、ないものねだりをずっと続けている。この思いを断ち切るには、きっと自分は捨てられなくてはならないのだろう、それは何となく、分かっていたこと。
 しかしそれをするには、張遼は悪役にならねばならない。きっと、今夜はその役を買ってくれるのだと、そう思い込むことにした。今夜だけ、想い合う。
 今夜という峠を越してしまったら、自分はきっと彼から、生涯離れられないということを、感じながらもそれを望む。矛盾した想いに、実は自身も戸惑いながら、その身を彼に委ねる。時間制限つきの幸せでも、幸せに違いないと頭の中でエールを反芻しながら。




 さっきまで明るかったはずの月が、姿をその雲の中に隠したことで、辺りは闇に支配された。沈んだような灯りだけが、部屋の中を満たす。
 呼吸音は聞こえるが、相手の顔を窺いしることはできない。視覚が奪われた分、他の感覚器官が研ぎ澄まされていくのを感じる。
 見えない中で、貂蝉の身体のあちらこちらに唇を寄せ、その反応を愉しむようにゆっくりと唇の位置を変える。貂蝉の身体からは、花の香りがする。呂布は、こんな些細なことにも気付けないような、とても鈍感な男だ。きっと彼女の香水のことなんて、彼はしらないのだろう。
 薄明かりの中、形を確かめるように乳房に頬寄せながら口付け、その身を中に、深く埋めてゆく。貂蝉が張遼の背中に腕を回す力が強まる。
 繋がることで広がる世界は、瞬時にこれまでの思考を奪い取り、言葉すら世界から奪う。愛とか恋とか、野心とか理性とか、生とか死とか、そんなことはどうでもいい。今この瞬間、悦楽に身を浸せ。欲することは、この時間が永遠であれと無駄な願いを、ほんの一時でも感じてしまうこと。本能の赴くままに、身を任せよ。
 そんな悦楽の世界に、思考など無意味。


「…っお、驚いた」
 張遼が呼吸を弾ませながら、髪の毛を掻き毟るように掻く。乱れた髪の毛が額に張り付く。それを邪魔そうにかき上げて苦笑を洩らす。
「こんなに早く、いっちゃったことはないよ」
 どうやら頭を掻いていたのは照れ隠しか。彼女の身体にやさしく触れながら、相手の反応を見つめている。指は細やかに、相手の反応を確かめるように動く。暗い中でその表情を見ることはできない。相手の身体の熱と、喘ぎだけが部屋を満たす。
「こんなに驚いたことはない。…本当に。私の前で演技をする必要はない」
 張遼の声が、冷たく響く。今までと違った反応が指先に伝わり、喘ぎは瞬時に止む。女がそろそろと顔を上げている様子が、よく見えないながらも伝わってくる。
「………文遠、様…?」
「分かるさ。さっきまでは自分が気持ち良くて分からなかったけれど、やっと分かった。…でもキミ自身、いったことはないんだろう?」
 張遼は探るように動かしていた手を、貂蝉の身から離し、腕を軸にするようにして少しだらけた姿勢で座る。まだ身体が気だるい脱力感に満たされていた。自分ひとりで勝手に果ててしまった。何だか童貞男の一人よがりみたいで、少々情けない思いもある。
 それだけ貂蝉の身体とは相性がよかったのか、と思うほどだったのだが、どうにもその貂蝉に脱力感は見られない。呼吸は荒いけれど、身体に力が抜けたり入ったりということもない。急激な体温の上昇は、行為を始める前のほうがあったくらいだ。

 そんなことも踏まえて、張遼は貂蝉に思わず訊いてしまった。
「もしかして……もしかすると、不感症か?」
「いえ、そんな、ことは………」
 貂蝉は小さくそれしか答えなかった。それはそうだろう。
「因果なものだ。キミの身体は……いや、何でもない」
 今さらになって、さすがの張遼も、彼女が不憫に思えてきた。
『君の身体は…根っからの娼婦のようだ』張遼が呑み込んだ言葉。本人にそれをいって何になる。いうべきではない言葉。彼女がそれを望んでいないことは、誰にだって分かること。
 彼女の虜になる男たちは、その美しさ、品性にだけ惚れ込むのではない。きっと誰も見たことのない、そして生きている限り男としては見てみたい、名器なんて下劣な言葉で称される、体の塩梅の良さも兼ね揃えているというのだから、メロメロの腰抜け腑抜けの骨抜き野郎にされてしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。
 けれど因果なもので、彼女は身体的な悦びの少ない体質の持ち主なのだという。そこもまた、男が躍起になるひとつの理由なのかもしれない。そんな美しい人を、悦ばせることに悦びを感じない男はいない。
 しかし、男は彼女を抱き続ける。それはもう様々な男たちが、彼女に魅了されてフラフラと近づきその身体を奪う。彼女はそれを口にしないが、きっとそんなことも多く、だから愛情表現は身体以外に、きっと分からない。だから張遼が誘った時も、彼の申し出を断ることなく、その身を開いたのだろう。いつもその「別段気持ち良くはない」行為を疑問に思いながらも。
 やはり、生涯を幸せに生きることのできない女性なのだろうと、張遼は闇の中で感じていた。…こういう、生涯もある。

 その後、張遼は彼女に手を出そうとはしなかったが、こういった。
「今日のこと、フッくんにしれたら、フッくんはどうするかな」
 本当のことをいえば、張遼もまたもう一度、彼女の身に溺れたかった。彼女にかかれば、きっとすべての男たちが自慰人形。さぞかし滑稽な様を見続けてきたのだろう。男とはそういうものだと、勘違いをしているかもしれない。
 でもやめておいた。頭で分かっていても、きっと溺れてしまうのは自分だ。流されてしまうのは自分だ。
 思った以上に手強い女。興味のない女性だったけれど、溺れてしまう予感はある。肉体とはこんなにも大事な要素だ。今の今まで、気付かなかったけれど。
 張遼はゆっくりと起き上がり、その場に腰を落ち着け、部屋に小さな明かりを点す。
「そろそろいこうか」
「……どこへ?」
「大きな穴を、見せてあげるよ」
 そういえば。貂蝉はすっかり見たいといっていた穴の話を忘れていたことに気付き、少々バツの悪そうな顔をしながらも、小首を傾げて頷いた。そのひとつひとつの動作が可憐で美しいのは、誰の目にも留まること。
 それなのに、彼女の身体はその至高の悦びを感じることはない。



 貂蝉は張遼に渡された、彼女には大きい上衣を羽織り、彼のいうままに足を運ぶ。
 渡り廊下の空気すら冷えた心地がしたというのに、夜の外気はそれ以上に冷え込んでいる。その急に訪れた冷えに瞬間、身を小さく震わせながら、細い背中を追いかける。何故か、この時が永遠に続けばいいのにと、貂蝉は心のどこか奥底で、願わずにはいられなかった。
 向かった先は、呂布の部屋の窓が覗く、狭くあまったスペース。そこより少し先に目を向ければ、蔵があり、きっとそこには董卓が集めた様々な高価なものたちが眠っているのだろう。
「そこ、気をつけて。その草のところ」
「えっ」
 小さいが驚いたような声をあげて、貂蝉が大慌てで足を止めた。張遼のほうを見ると、どうやら貂蝉の足元を指している。
「そこ、草で隠しているけれど、大きな穴があるのはそこなんだ。落ちちゃうよ」
 ゆったりとした動きで貂蝉はその場でしゃがみ込み、その穴を確かめるように手を下ろす。…確かに、ここにあるように見える、地面はないようだ。彼女の手は空を掴んでいる。
 あるはずのものがない感覚。それは、いいようのない不安と恐怖が一度に訪れた、足音も羽音もない、魔物のようだ。
 穴の奥からか、冷えた空気がゆらゆら蠢くように、彼女の手を冷やす。
「文遠様…あの、これは、どの程度深いのですか…?」
 さらに冷えてしまった手をもう一方の手で、まるで繋ぎ止めるかのように握って、しゃがんだまま張遼を見上げて問う。張遼は宙にその視線を漂わせ、少し眉をひそめながらも、茶目っ気たっぷりに答える。
「そうだなぁ。私なんかも埋まってしまうくらいに、深い穴だよ。フッくんはなんでも大袈裟だから、ここまで深く掘っちゃったみたいだね」
 何か背筋がゾッとするような気持ちになりながらも、もう一度貂蝉はその穴をじっと眺めてみる。当然そこには草がかぶさっているから、他の一切のものが見えないのだが。
「どうして、このような大きな穴を掘ったのです?」
 誰もが不思議に思う疑問を、貂蝉は聞いてよいものかと迷いながらも張遼に訊く。その問いを聞いて、張遼はふっとその表情を緩ませ、口許を微笑みの形に歪ませながら、やわらかい声を出す。
「……解るよ。今日、解る。この穴は、私ではなく本当は、フッくんに必要な穴なんだ。でも、フッくん自身はそれに気付けないから、私が指示した。それだけのことさ」
 訳の分からない回答を残し、その場所を後にする二人。当然貂蝉はその回答に納得するはずもなかったが、今日解ると彼がいうことを、無理に聞き出そうなどと露ほども思わなかった。

「フッくん、…終わったかな」
 貂蝉とともに部屋に戻った張遼が、伸びをしながら独り言のようにいう。
 その言葉で、今日は呂布の勝負の日だということを再認識する。それなのに、一体自分たちは何をしていたのか。けれども後悔はない。最初で最後だと、悲しいながらも、その事実が胸に突き刺さっている。
「さぁ、フッくんの部屋に行ってみようか」
 張遼が立ち上がる。それに続いて、貂蝉も立ち上がる。
 廊下を歩く音が、いつもより高いように思えたのは、呂布がどういった様子でいるのか、それが想像がつかなくて、そして、今日の出来事がバレているのではないだろうかと危惧している自分がそこにいるから、実は心の中でビクついている自分がいるから、ほんの小さな足音ですらも、大きく聞こえてしまうのだ。
 彼女の前を歩く細身の男は、それを感じたことはないのだろうか。いつものとおり、颯爽と風を切るように、貂蝉の前を歩いていく。
 彼の本当の意味での、『感情』のようなものを垣間見た人間など、この世にいるのだろうかと思うほどに、彼はどんな時も冷静に対処する。だからこそ、感情的で子どものような呂布の右腕となり、支えてこられたのだろうが。




 部屋はまだ主人の帰らぬ灯りのない部屋のままだった。
 張遼は小さく「戻っていなかったか」と呟いて、部屋の中に明かりを点す。
「フッくん、足取りが重かったもんなぁ。ほんとうに、うまくやれるのか心配だ」
 そんなことをアッサリいいのけてしまう張遼にも驚くが、貂蝉としては、あの董卓が生を失うということがあるのだろうかと、そればかりを思っていた。
 董卓が「死ぬ」?
 それが想像できないほどに、董卓という人物は「生」に溢れている人物のように思われて、ならない。
 生きる者はいつか死ぬというのに、彼だけはそれを覆してくれそうなほどに、生に愛されているかのように思われるのだ。彼の母がそうであるように。そう、董卓の母は九十年以上という大往生を果たした、生に愛された女性なのである。


 しばらく待っても、もう夜中だというのに、呂布は部屋に戻ってこない。あのいつもの、傍若無人とも思えるほどにドスドスと歩く、耳騒がしい足音も、今日は聞こえない。
 さすがに焦れたのか、張遼が無言のまま立ち上がり、部屋を出ようとするので、貂蝉はその後を追おうと立ち上がりかけると、それは張遼のよく通る声に制された。
「待っていてくれ。すぐ戻る」
 いつもの張遼には感じられない、棘のある響きを感じた。もしかしたら、この一瞬だけ見せたこの声色が、彼自身の感情の一部なのかもしれない。貂蝉はそう思いながらも面食らってしまい、小さい声で返事をして、その場に腰を下ろし直すしかなかった。
 張遼はすぐに、灯りも持たずに部屋から出て行ってしまった。彼が扉を閉めた時、廊下からの冷たい風が、彼女の顔を軽く撫でた。





 張遼が董卓の部屋に入った時に見た光景は、凄まじいものだった。呂布が董卓を敷いて、鮮血に塗れてただ、遠くを見るような目でそこに佇んでいる。
 それだけならばいい。しかしその董卓の様子が、もはや肉片と化していたのだ。裂かれている。紅に塗れて、そこで横たわる董卓の姿は、上半身と下半身は別々の生物だったかのように、真っ二つになっている。臓器はもう動いてはいない。ただ、ばらばらとその場に転がって赤く染まっているだけで、何の意味をも成さない。
 その中に一人、呂布だけがそこで息苦しそうに呼吸をしている。
 開けた途端にその血生臭い臭いが張遼の鼻を突き、思わずそこで顔を歪めてしまうが、すぐに中に入っていき、少しでも生臭さを消そうと、窓を開く。
「…終わっていたのか」
 無言のままの呂布の身体を拭い、赤黒く彩られたその身をも拭ってやる。
 触れて初めて解る。小刻みに震えている。
 顔を拭ってやれば、熱いものがこみ上げてきている様が、手に取るように解る。
「フッくん、悲しいのかい?」
「俺は悲しんでなぞ、いない」
「なら、どうして泣くんだ? どうしてそこから離れようとしない? いつまで、董卓殿を抱いているつもりだい?」
 そういわれて、ハッとしたように自分の組み敷いていたものの骸を見て、身を剥がす。
「…俺は、殺したいから、殺したんだ…」
 呂布は、呪文のように数回そういって、心ここにあらずといった、どこか遠くを見るような表情で瞳を宙に浮かせ、放心したような表情のまま、動かずそこに留まっている。
 そんな呂布を様子を一瞥しただけで、張遼は特に何もいわずにテキパキとその場を片付けていく。呂布が何もしなくとも、その場は収まる。とはいっても、血に塗れた部屋の汚れなど張遼一人が片付けたところで高が知れている。
「いこう」
 張遼は手早く呂布の体の汚れを拭い、董卓の汚れも軽く拭ってから、呂布の手を引き自室に戻るよう促す。
 董卓の部屋の中には、二つに裂かれた猛獣の骸が転がっているだけとなった。もはや灯りも消された。


 二人が戻った時に、部屋で待っていた貂蝉が思わず立ち上がってしまうほどに、呂布の顔色は悪く、抜け殻のような淀んだ目をしていた。そして、血の臭いが染み付いている。何が行われてきたか、彼女にも察しがつくというものだ。
「今日は、ゆっくり眠るといい。でも、できれば湯浴びをしたほうがいい。私がやったほうがいいかな。待たせて悪かったね、明日ならゆっくり話せると思うから、ごめん」
 張遼はそういって、その夜は呂布を介抱したようだ。貂蝉は何も分からないままに部屋から追い出されてしまったが、今日行われた惨い出来事を想像してしまう部屋にはいないほうがいいのかもしれない。そう思い、すぐに自室に戻ったのだった。
 その時に通りかかった董卓の部屋の扉の前には、不穏な空気などまったく感じられなかったが、流れる空気の冷たさが彼女の身を打ったように思われた。それは、張遼が開け放した窓から流れる冷たい空気の動きだったのだが。


「フッくん。大丈夫……じゃ、なさそうだね」
 二人だけになった部屋の中で、張遼が呂布の尋常でない様子にやさしく声をかける。
「もう大丈夫。ちゃんと、終わらせたんだから」
 自分より身体の大きな相手の頭をなでるのは、見るものからすればどうにもヘンな感じだが、彼らにとっては日常で、何ということもない。
 頭をなでられている相手のほうは、虚ろな目をしてどこか遠くを見ている。そんな相手の様子などお構いなしに、子どもをあやすようにその大きな身体を、腕いっぱいに抱いて頬を寄せる。
「フッくんは、その縛りを解かなくてはならないと思ったのに。…解けなかったんだ」
 呂布は、張遼の言葉の意味がまったく分からない。あどけない表情でその顔を見る。
「董卓殿のこと、私が思っていた以上に………フッくんにはかわいそうなことをしてしまったのかなぁ」
 張遼は、言葉を詰まらせながらももう一度頭をなで、さらに強くその身を抱き締める。
 その夜は、そのままの格好で横になり、二人で眠った。戦場では最強を誇る呂布も、常に細身である張遼に支えられてずっと、ここまで生きてきていたのだと分かるようなその日が、更けていく。



 次の日。呂布が起きたときには張遼は隣にはいなかった。
 呂布は起きる気もなく、横になったまま死んだ魚の目をして、ぼーっと天井を見上げ、動かないことを決め込んでいる。
 そのとき張遼は、貂蝉と向かい合っていた。
「奉先様は…どうなられましたか?」
「うん、あのまま元気がない。どうしてだろう? 不思議だよ。だって、あれだけ殺したいといっていたのを聞いてたから。私たちには目に映らなかっただけで、何かあったんだろうか。絆みたいなモノが」
 董卓と呂布の間に、何があったかなど、どんな気持ちがあったかなど、確かめる術はない。けれど、呂布の雰囲気で感じ取ることはできる。
「身体の相性って、大事だと思う。頭の中では嫌い嫌いいいながらも、やっぱり身体では好き合ってたんだろうね。そうじゃなきゃ、溺れる意味が分からない」
 張遼は、快楽には人は弱いものだと、溺れてしまうものだと、そう語る。だが、
「……私には、よく、分かりません」
 身体で快楽を深く味わうことのできない彼女は、それを理解することができずに、戸惑いながらも従来の微笑みを浮かべている。
「私も、溺れてしまいそうだ」
 張遼がもとから細い目をさらにふっと細め、貂蝉を見る。昨夜のことが頭を過ぎっている。互いに。それは目を見れば分かる。
「だから、私が溺れないように、キミに恨みはないけれど、実は、キミに穴に入ってほしいと思って、私はフッくんに穴を掘ってもらったんだ。…もちろん、初めてキミを抱いたのは昨日だけれど、何となく、そういう危険な香りは漂っていたから」
 そういって張遼は懐から小刀を出し、彼女の手に置く。
 その小刀の温もりが、逆に冷たい意味の言葉と入り混じって、刺さるように痛い。貂蝉はその小刀を握り締め、身体全体に力を入れることで、涙が零れ落ちないように我慢した。
「董卓殿は、フッくんを死してなお苦しめる。溺れるということは、そういうことだ。私も、そうなるかもしれない。それは……恐怖だ。ヘタな愛情よりも、ひとつの相性のほうが、強いつながりなのかもしれないなんて、ヘンな話だけど」
 貂蝉は小刀を握り締めながら、小さく頷く。
「私は、文遠様を、苦しめたくありませんから……逝きます」
「私は、ここから消えたほうがいいかな? それとも、最期のときを見取ったほうがいいだろうか」
「お任せします」
「じゃあ、キミの最期のときを見るのは私だ…いいね?」


 そのしばらく後、少しだけがっかりしたような表情で、部屋から張遼が出ていく。
 向かう先は呂布の部屋。いうべきは貂蝉の逝った場所。





†後書†
昼ドラ呂布軍シリーズその3です。
少し長めになってしまいましたが、貂蝉の話はここでお終いです。
テーマ曲は森山の「ソフィー」。インディーズの頃の曲です。
一応、この「お題シリーズ」は順番に読んでほしいけど、実をいうと話の順番自体はぐちゃぐちゃである、みたいな感じですよ。だって、もう少し董卓のこと書きたいもんなぁ。
題の「白」は当然『貂蝉』。「暗闇」は『穴』。といえば、何となく分かってもらえるでしょうか。


2006/03/23 08:45:14