神崎がいなくなった。
 すっかり青褪めた城山が、夏目の所でぼんやりとした様子で言った。どうして急に、と呟く。城山は裏切られた気持ちでいっぱいだったが、それでも神崎の下から離れるつもりは毛頭ないのだ。夏目は困ったように笑った。
「だったら探すしかないんじゃん?」
 分かっている。悩んでもしかたないことだ。行動あるのみなのは分かっている。だが、どうして。人は思いもかけないことに会うと思考を停止させてぐるぐるとくだらないことに思いを巡らせるばかりなのだ。城山は頭を抱えていた。携帯はつながらない。だが契約を切ったわけではなさそうだった。ただ、城山からの電話に応える気はないらしい。それが寂しくて悲しくて、やるせない気持ちでいっぱいなのだ。夏目はすっかりへこんだ城山の隣で、飄々と煙草をふかしていた。



 その頃、神崎は東北の地に降り立っていた。ありったけの金を下ろして、新幹線を使うと高いのでそれはやめた。どうせ急ぐ旅じゃない。家を捨てて行くなどと余計なことは話していない。ただ、彼女に告げたのは「今から行く。どこにいる?」それだけだった。
 彼女は被災地の学校で働いているのだという。そもそも元々が不良だというのにどうして学校で働いているのか。頭が良いわけでもないというのに。それを電話ではあえて聞かずに、その場で聞くと言い切った。彼女の方も、神崎のそんな強引さに押されたようだった。居場所を教えてくれた。
 降り立った駅は、田舎なので無人駅。これで合っているのか聞くにも、あまりに人がいない。タクシーに乗りたいと思ったが金がすぐになくなってしまってはまずいと思い、場所の確認のために電話する。数コールのあとに彼女の疲れたため息混じりの声が耳に届く。
「大森? 俺だ、今、駅にきた」
「分かった。どーせ説明したってわかんない。迎えいく」
 電話はすぐに切れた。コスト的にはありがたいが、女に迎えにこさせるのはなんだか忍びない気持ちがして堪らない。神崎のそういうところはやたらと男前なのである。
 秋の風がやたらと冷たい。吹きさらしになっているので風が強い。東北にくるんならもっと厚着しときゃよかったな、と神崎は呟く。侘しいかな腹までグゥと鳴る始末だ。置いてきた仲間たちのことを思う。バイブにしたままのケータイには城山を中心とした、組の連中らからの着信でいっぱいになっていた。わざと留守電は切ってある。あんなもの延々聞かされては堪らない。黙って出てきたのは悪かったが、神崎にはやりたいことがあったのだ。そう、まずは大森寧々に連絡を取ったのはそのためだ。
 寒い中しばらくすると、大森がやってきた。徒歩でやってきたが時間にして20分近くかかっている。最寄り駅から家まではそのくらいかかるのだという。「ぜんぜん最寄りじゃねぇじゃん」と言うと、大森は笑いながら「関東の感覚なのよ、あんたは」と言った。田舎はいろんな意味で面倒なのだと言う。道中は大森のボヤキが大半だった。神崎はわざわざきたはずなのに、ああ、とかうん、とか頭の悪そうな相槌ばかりうつ。はあ、と息を吐くと白い息が舞っては消える。夜は冷えるのだ。それを身を持って知る大森の防寒対策はバッチリだ。一応住宅地で、大森の住むアパートに着くまでにコンビニが駅前の一軒しかなかったことが神崎には気にかかる。そういえばこんな田舎町、じーさんとかばーさんの所でしか来たことないな、思ったが口には出さなかった。そんな思いなど、とうに大森が代弁してくれていた。
 通された部屋の中が当たり前に温かくて、明るいのでホッとしてしまう。ケータイはもう鳴らない。電源を落としていた。どうせ連絡をよこすのは組の連中だ。神崎はまだ帰るつもりなどない。大森はコーヒーを淹れて出す。湯気が上がる様が実に幸福のように映った。それだけからだが冷えているということだろう。神崎を真っ正面からじぃと見て、ようやく本題に入る。
「いったい何だってえのよ、急に来て。あったまってからでいいから、ちゃんと話しなさいよ」
 その詰問口調が、まるで組の連中から早くも連絡がきているのではないかと思わせた。内心神崎はひどくどきりとしたが、顔に出さないよう腐心した。そんなこと自体何の意味もないことはわかっているが。出されたコーヒーを啜ると、やっぱり苦い。神崎は傍らに置かれたシュガーとミルクをドバッと放り込んだ。その様子を物珍しそうに大森がずっと見ている。コーヒーカップがカラになると、話すしか道がなくなった。神崎は眉間にシワを寄せて話しだす。
「大森、頼みあんだけど………泊めてくんねぇ?」
 唐突だった。大森は空いた口が塞がらないといった様子でポカンとしたまま停止している。神崎は至ってマジメな様子だ。
「あ、あんたねぇ…、女子の部屋におしかけといて泊めろ、なんて頭おかしいんじゃないの?!信じらんない!」
「女子の自覚あったの?お前」
「あるにきまってんでしょ!彼氏きたらどー言い訳してくれんのよ!大体さぁ」
「お前に男いるわけねーだろ」
「いるってば…!!失礼な!」
「いんの?!」
「います!!!」
「まじか……奇想天外、大森七不思議、摩訶不思議」
「うっさいわね!ホントあんた何しにきたのよ」
 久し振りに話しても、大森は大森だったし、神崎は神崎である。ポンポンぽんぽん売り言葉に買い言葉、出るわ出るわの言葉の応酬。高校時代のいつぞやに戻ったみたいに不快やら愉快やら。ムカつくと思いながらも互いにどこか楽しかった。そういうヤツだと腹の底を知っているからこそ、話ができるのだ。神崎は突如として押し黙った。大森はため息をつく。
「お前、まじで何も聞いてねーのか」
 組の連中からの連絡はまだないようだった。ここまで話しておいてどう隠そうか、神崎はない知恵を絞ってみたがいい案は浮かばなかった。知恵を絞る時間もないし、と念のため無意味な言い訳も付けておく。
「………宿、とってねえし」
「あ〜〜もう!分かったわよ。二部屋あるし泊まってけば」
「つか……広いよな、ここ」
 二部屋あると言われてはたと気づく。田舎の文句ばっかり言っていた大森が家賃は安いんだよね、と呟いた。それだけは田舎の良さだ。大森がため息をわざとらしく吐く。だいたいのことを予想したらしい。神崎から目を離さない。睨むみたいにしている。
「神崎、アンタさ、家出。してきたんでしょ」
 平たくいえばそうだ。だが、そんな簡単な言葉で済むものではないことを、知らないなどとはいわせない。神崎の家がヤクザの家業なのは大森も周知の事実だ。否定するのもムダだと悟って、神崎は渋々頷く。家出といういいかたはどこか子供っぽくてカッコ悪いのでやめて欲しいと思ったが、今は何もいわないでおく。泊めてもらうのだし。
「連絡、しなさいよ。心配してるんじゃないの。アンタの犬」
「犬じゃねえ、城山だ」
「シロ、ね。山みたいに大きいシロ」
「ぶはっ、まじ犬じゃんなあ」
 念のため付け加えておくが、これは悪口ではなく事実なので、誰も否定はできないのだ。ひとしきり冗談もいったし笑ったので、神崎が不思議に思っていたことを大森に問いかけた。もちろん、どうして東北の田舎に来たのか、である。しかも教師の真似事をしているなんて初耳だ。勉強なんてできなかったはずなのに、人間というものは不思議なものだった。まさか、ということが確かに起こり得る。大森のように。そして、そんな大森の家にきた神崎のようにも。
「アンタもさぁ…、はっきり言うわよねぇ。まあ確かに勉強なんてキャラじゃなかったけど。でも、これでもアタシは姐さんよりはデキてたんだからね」
「……知ってる。」
 当人、つまり邦枝がいないからこそ口にできる公然の秘密なのだが、邦枝はレディースのヘッドであったが不良というものとしてはどうなのか? というところが沢山あった。まず、勉強をがんばっていたし、制服だって普通にしてしまった。レディースという枠にとらわれない頭だった。しかし、かわいそうかな彼女は勉強というものにはまったく恵まれていなかった。勉強しないでタラタラしている連中と比べても見劣りしないほどにテストの点数は当たり前に一桁代で、よくテストが返ってきてはへこんでいた。神崎や大森にしてみればあんなものは5点だろうが3点だろうがどうでもよいのであったが、がんばっているだけに邦枝の肩を落とした姿はあまりに悲しい。しかも、当たり前に同学年の大森の方が点数が高いのである。だから、時に大森はそれを隠して邦枝から見えないように気を遣ったりもした。今となっても思いは変わらない。別に点数なんてものはどうでもいいだろう。今、大森は勉強を教えるわけじゃなくても学校に務めたりできるのだし。悪くはないが少しだけ切ない思い出だ。
「別に、教師だってわけじゃないのよ。どっちかってーと…社会科見学とか、進路指導とか? だって教えらんないじゃない。勉強なんてする気もないし」
 それでも大森に白羽の矢が立ったのは、この時期に東北に来てくれたことのお礼もあったし、不良だったという過去が子供にもウケて話を聞きたがる子供が後を立たなかったからだ。そして、そんな話を最初、親はあまりいい顔をしなかったものだが聞いているうちに一本筋の通った大森寧々というキャラクターも相成って、こんな人になら子供を任せてもいい!というまったく誰もが予想し得なかった事態に発展したのだという。もちろん学校という場所の都合上、「勉強なんて大事じゃない」などと偉そうに嘯けるわけではないのだが、ある程度は自由にやらせてもらっている。主に持ち教科は道徳と社会科見学の付き添い、生徒の悩み相談の窓口だったりして特にクラスを受け持っているわけではない。嘱託なのでいつクビになるかもわからないが、給料は悪くないし仕事は楽しくやっているという。
「そもそも、アタシも姐さんとかアンタほどじゃないけどさ。結構…子供好きみたいで。あ、知らなかったんだけど」
「楽しいんなら良かったじゃねーか。しっかし……ラッキーっつうか、なんつうか…。GTO以来のビックリヤンキーだなてめーはよ」
「マンガのことじゃないの。アタシなんて大学も行ってない」
 だから本当はこんなことしてちゃダメなの。わかってる、でも、甘えられるのは被災地だから。わかってるけど、甘えたいんだわね。と大森は寂しそうに笑った。ミルク入りコーヒーのお代わりを淹れてくれる。神崎はそれを飲んだ。苦味は子供みたいに苦手だ。辛いのは、割といけるのだが。家出のことをどう話そうかと考えていた。みんなそれぞれに理由を抱えて暮らしているんだと、当たり前だけど無意味なことを思う。神崎はケータイを見た。邪魔くさいランプが色とりどりにピカピカしている。着信だったりメールだったり、だ。
「誰かの役に立てるって思ったらさ、…なんか、元気出るもんなのよね」
 単に被災地に行かなきゃ!と思って来たのだという。住み込みで働いてるうちに今の状態に落ち着いたらしい。大森はすげーなぁと思わず神崎は呟いた。今の神崎の状態も似たようなものだが、まったく違う。こんなに有り余るパワーはない。だが、それを知っていながらも口にした。
「俺も探すかな。…仕事」
「えっ?!」
 裏返り気味の大森の声を無視して、神崎は見慣れぬ天井を見ながらソファに寄りかかった。ワット数高いな、すぐ電気の球切れるだろこれ。どうでもよくてまったく関係ないこと神崎は考えている。無視するなといわんばかりに大森が神崎を見下ろした。形相は久々にスケ番風でちょっと怖い。慣れているとはいえど久々だとたじろいでしまう。神崎は眉を寄せた。
「どういう意味」
「何も。言葉まんまの意味。仕事、しねえと…だろ」
 そんな話の途中で、神崎のケータイが震え出す。絶対この悪いタイミングは城山だ。そう思って手を伸ばしたがその前にケータイは大森の手によって奪われていた。あ、と声を出す間もなく。神崎の伸ばした手がだらしなく空を掴んだ。大森が見下ろしたままで神崎のケータイに顔を寄せていた。時は遅かった。城山なら何とでもさせる。何とでもなる。他だったら───…
「城山? アタシよ、大森、寧々。おたくの若さまはどーなっちゃってんのよ、ちゃんとアンタが面倒見ないからでしょう?!」
 ──セーフ。神崎は掴んだ空から力を緩めた。もうケータイは変えた方がよさそうだ。面倒なことになりかねない。そして、大森にはちゃんと話さなければなるまい。ため息交じりにまた天井を見た。毎日毎日、大森が見上げる天井なんだと思った。大森と城山が話している途中で前触れなくケータイを奪い取り返した。神崎さんらしいドスの効いた声で凄んでやる。
「おい、余計なこと言ったら殺す」
「!…か、んざきさ……」
「マジで殺す。舐めんな」
 ケータイを切って、そのまま電話機を地面に放り投げた。クッションがあったので壊れなかった。別にクッションめがけて投げたわけじゃなかったのだが。視線を上げたら大森とピッタリと合う。ちゃんと説明しろと目で物語っている。それはそうだ。今の顛末を見れば余計に怪しいことだろう。城山には知らせていないのに、こんなところに来ている。意味がわかるわけがない。そして、神崎の行動の意味など知るものは神崎以外にいないのだ。分かっていながらも、神崎は何とも言い難い気持ちになり目を逸らした。
「ちょっと、」
「迷惑はかけねえ」
「来た時点で迷惑」
「組のゴタゴタなんかに巻き込んだりしねえ」
 神崎は実に真面目な表情をして、頭を下げた。つまり、今のところ理由はいえないけど帰るつもりもないと無言の圧力をかけているのだった。大森は困って黙ってしまう。何かがあって神崎は組から逃げている。逃げおおせるわけなんてないのに。世界に果てがないなんて誰が決めたのか。地球は丸いから確かに果てはないのかもしれないけれど、いつか見つかる。無限なんて存在しない。
「話せるようになったら話す。今は、…あれだ、頭ん中まとまんねーっつうかよ……あと、礼はする。仕事も探す。頼むわ。大人しくしてっからよ」
 大森が文句の声を出そうとした時、急に大森のケータイが少し前の流行歌を奏で始めた。着信だ。いいタイミングというか、悪いタイミングというか。このメロディは彼氏からかかって来た時に流れるようにしてある。唇に人差し指を当ててシッ、と言ってから大森はいつものように電話に出る。男の声が聞こえたとなれば面倒だ。しかもドスが利いている声だし。神崎はそのまま再びぼうっとした様子でソファに寄りかかって天井を見上げ始めた。天井には何もないが、ジロジロ部屋を物色しない気遣いくらいはできるのだと大森は内心ホッとしてもいた。
「明日? え……と、え、帰り? でもぉ…」
 どうやらホッともしていられなくなりそうだ。大森のカレは明日家に来ると言って聞かない。時折、強引にそんなことを言う時があるが、仕事の出張前の時が多い。付き合い始めて半年ちょっと。離れている期間が多いのでまだまだ分からないことが多い。女性の家に泊まっていくことはあまりしないのだというが、この間初めて泊まって帰って行った。至福の時を過ごさせてもらったという気持ちはある。だが、今日の明日では神崎の存在がある。出て行けと言うには神崎の側の問題が思っていたよりだいぶ重そうで言いづらい。泊まりはダメという話をしたらカレはあっさり引いてくれたけれど、何となく気が重くなった。電話を切って投げ置く。ぽすんとマヌケな音を立ててケータイは転がった。神崎がゆっくり上体を起こした。
「悪りぃ」
「べつに…」
「夜でかけてりゃいいんだろ? 別に邪魔しねえよ。デバガメもな」
「こんな田舎の、どこに出かけるっていうのよ。バカじゃないの」
 東北の田舎には夜遊べるような場所はない。駅前の様子を見てわかった。朝までやっているのはホテルかカラオケ辺りだろうか。バーみたいな店も夜中までは営業しているかもしれない。歩けばなんとかなるだろ、と神崎は小さく答えた。しかし驚いた。本当に彼氏なる存在がいたということに。神崎は本気で取り合っていなかったのだ。いかにも大森は強がりを言うタイプだからだ。美人ではあるのだがいかにもヤンキーだし、厳しいこともズバズバいうし、ある意味では男受けしないだろうという見方もあったのだ。田舎はいろんな意味で寛大なのかと独りごちた。見透かされたらビンタでは済まされないだろうが。「その代わり、今日はゆっくり寝とく。頼むわ、ふとん」
 本当は大森の彼氏など目にしてみたいものだったが、さすがにそこまでいえるはずもなく、物置となっているがそれほど荷物の置かれていないがらんとした部屋に神崎は泊まったのだった。部屋に戻ってからケータイを見ると、懲りなく城山からの着信があった。留守電を聞いたらなぜか城山が謝っていた。そういうところがムカつくということを城山は分かっていない。城山はなにも悪くはない。謝る必要もない。謝る意味なんてない。だから神崎は謝られても頭に来るのだ。
 神崎は布団の中で思い出していた。さっき聞いた神崎相手に話すのとも、レディース仲間ら相手とも違う女性としての大森の声を聞いた気がした。そこまで気取っているわけではないが、驚いた。語彙があまりに少なくてがっかりするが、驚いた、というのが正しいのだろうと思う。神崎は疲れた心身を休めるために目を閉じると、すぐに泥のように眠りは訪れた。眠かったことに気づかなかった。それだけ、今回の家出というやつには神経を使っているのだろう。ここ数日、夢も見ていない。


*****



 次の日の夜。神崎はちゃんと出かけた。大森が彼氏とよろしくやっているところになど居づらいに決まっている。歩いてすぐ15分やら20分が過ぎてしまう。身体も温まる。雪はまだ降ってないのが救いだが、今月中に雪は降ると秋の心地よさをすっ飛ばした東北について大森が昨晩文句を垂れていた。とりあえずわかる場所がないのでコンビニを見つければ入ってみて、明かりがあれば店の名前と様子を眺めた。だが、ほとんどの店は夜閉まっている。昨日辿り着いた駅までは来た。近くのパチンコ屋に入ってみると、気のせいだろうか空気はそれほど悪くない。中を見たら納得した。人がほとんどいないのだ。パチ屋なのに。田舎の有様をまじまじと見せられたような気がしてとりあえず黙っていた。出そうな台などあるわけがない。見てからちょっと打ってみようかと思っていたのがバカバカしく、笑うしかない。ぶらっと台を見てから打たないですぐに出た。駅前なのに人がいない。居酒屋に入ることにした。小ぢんまりした和風の店があったからだ。だが、駅の裏手に作るなんて客などこなくてもいいといっているようなものだ。作ったやつはどこのどいつだ、バカなのかと思う。だが、憤りなど無意味。神崎は通された席に座った。狭い店だが客は数組入っているようで、カウンター席にはおやじもいる。これで駅前レベルとは泣ける…。こんな場所で仕事などどうにかなるのだろうかと一抹の不安を覚えながら居酒屋メニューに目を通した。その際、チラと見た腕時計の時間はまだ10時前。こんなことで夜をあかせるのか不安しか残らない。まあ1時くらいまで粘ればいいか。あまり飲めないビールを頼んで一人になると、タイミング良くケータイが鳴る。
「神崎だ」
 かけてきたやつの名前は確認済みだ。いぬいぬ。どうせどんな手を使ってでも城山は神崎を探し当てる。それならばこいつにだけは話しておいた方がいい、というのが彼なりの答えだった。もちろん思いのすべてを話すかどうかではなく、今の状況程度の話だ。どうせいずれは家に戻る日も来るだろう。所詮家出レベルなのは分かっている。ならばどうして──と言われそうだが、不要も必要も、神崎自身で決める。そう思ったのだ。それだけのこと。理屈なんて自分だけがわかればいい。今は特に。
「神崎さん。俺は今、自分の家にいます。だから大丈夫です」
 さすがに抜かりがない。だいたいの予想はしているのだろうと思う。どうして神崎が消えたのか。それを城山なりに理解しているのだろう。当たっているかは知らないが。いちいち面倒な指示がいらないところだけは気に入っている。神崎をこれほどまでに慕って、これほどまでに解ろうとするやつは他にいないだろう。それだけにピントがずれると本気で頭に来るのだが。
「今、北にいる。」
「知ってます。大森寧々から聞きました」
「あ、そう」
 居酒屋の兄ちゃんがお通しと飲み物を持ってきた。離れた場所で電話で話す客。どういう目で見られているのか。それとも当たり前だから気にならないのか。アルコールをひと口。クゥーっ、と喉が鳴る。城山は笑った。アルコールなど独りで飲むたちではないのを知っているからだ。神崎さん、と声をかけながら彼の身を案じる。どうして北に行ったのか。どうして大森寧々がいるのか。すべてを聞かないでいても、聞かれることを神崎は望んでいないので。
「今はひとり。大森のヤツ、オトコ連れこんでやがるからよ」
 言葉が続かない。城山が黙った。この間は何だと神崎は殴りたくなる。ギャグみたいな話なのにと。あの大森がオトコ連れこんでるんだぜ?あり得ないと思わねえか?と。こういう察しのいいというか、鋭い城山の存在は、時に腹が立つのだった。ビールを煽る。これだけアルコールが似合うのに、これだけ弱いというのもどんなものなのだろうか。覚えていない。神崎は、ビールを素早く飲みながら揺れた。ああ、それはもう話し相手がいるせいか揺れまくった。意味もなく揺れていた。弱くて仕方ないがすぐにあそこもここも、ゆらゆらするのだ。北の大地も屋根と壁があれば大丈夫なんだなと思ったりもした。覚えていないが城山相手にクダを巻いた。よくあることだ。当たるにはちょうどいい男だ、イヌだ。気づくと、神崎は揺さぶられ起こされていた。時計を見たら一時半を回っていた。どうしてこんな時間に…と思ったが、それが田舎なのだろう。ゆるゆると重い腰を上げた。上着を着て外に出たのに寒い。この寒さは酔いを確かに醒ましてくれる。早く歩けないのでダラダラ歩いた。しばらくまっすぐに行くだけの道。冷たくて暗くて寒いだけの、大森宅へと続く道。息だけが酒臭い。久々に不快な自分の息を感じて、冷たい夜空を見上げた。神崎は吐くたびに白い息をぼんやりと見ながら酔いが醒めつつあるのを感じた。いつ聞いたのだろう。城山の言葉が耳に残っている。
「大丈夫ですか、神崎さん」
 いつも聞いていたような気もするし、さっき聞いたばかりのような気もした。余計な世話焼くんじゃねぇよ。いつも神崎は思うのだ。吐き出された白い息はそこで浮かんでは消えていく。人が辿る、見えない道のように。ほう、と。田舎の夜道はとても暗くてとても寒い。醒めつつある頭で、明日からの仕事探しについて考え始めていた。


道無き道に茨在り・上



13.12.19
coffee J elly
2013/12/25 22:24:48