深海にて。4



溺れる。
それは、
どんなこと?

知る。そのため、溺れる。
それでも、良いのだ。
溺れる、…溺れることに、ついて。
水には、人間なら勝てないけれど。


***



「お前は遅いとか言うんだろうが、」
「マジで?! 健全で健康な高校生男子とはとてもとても思えないレベルだろそれ」
「そんなの人それぞれ、」
「奥手とかそういうレベルじゃないって。お前だいじょうぶなのかよ?!」
「相手見りゃ分かんだろ。まず話を、」
「マジでじーさんにでもなっちまったんじゃないのか」

 とにかく口を挟むヒマすら与えてくれない腐れ縁で常に共にあった古市と、それから比べれば雲泥の差ほども口数の少ない男鹿がそこにいた。男鹿は一度、自分の言葉に興奮しまくっている古市に無意味にパンチをカマして黙らせた。古市は女のことや色恋沙汰のことになると、とにかく興奮し自分からグイグイ出てくるところが特にウザい。元よりそういう男であることなど知っているにも関わらず、特に今日はウザくて敵わないと慣れた男鹿も思っていたところだ。殴られた頬を抑えた古市がキャンキャン文句を言っているが、あまり気にしないこととする。何をされてもこいつは文句を言うのだ。
 男鹿と古市の話の内容など大したものではない。古市が邦枝の名前を出した。そして晴れて周りの祝福も含め、恋人同士となった暁にキスの一つでもしたのかという浮いた話から始まった。だが、男鹿も邦枝も誰かと、異性と付き合ったという経験がない者同士。モテるモテないという話ではなく、互いに住む世界が違うというか、血なまぐさい世界に生きてきた二人だったからこそ、恋とか好きとかそんなことからはずっとかけ離れていた。そんなことを意識することもなかったし、考えたことすらなかった。それを覆したのは邦枝からすれば男鹿であって、男鹿からすればそれは邦枝だったというだけのこと。彼らをつなぐのは恋とかそういう気持ちだけではなく、物理的な強さであったり、子供を思う家族の気持ちであったりした。その延長線上に男鹿がいて、邦枝がいたというだけのこと。その上で晴れて恋人となった二人はどこまでいったのかというと、手をつないで帰りました。とまぁまさに子供ですか、みたいな話のみだったわけで古市はヤキモキしているというわけである。
「ふつーはさぁ、ヤリたい、とか思うわけだろ。男として」
「……ヤリ…」
 何とも言えぬ表情をして男鹿は黙り込む。まだそんな欲が出る段階ですらない。その様子を見て古市は宇宙人を見るような顔をして引いている。こんなことで引かれるなどとおかしな話だと男鹿は思う。だがそれをあえて口にするほど愚かではない。また古市が興奮してしまう。まかり間違って思っていることを口にしてしまったら。何を思っているのか、と言えばあまりに子供染みたことだ。キスをしたいと思うのはなぜか。エッチをしたいと思うのもなぜか。そもそも恋人だからといって何かをしなければならないものなのか。それはどうしたって口にできないことであった。
「とりあえずは、だ。デートに誘ってキスぐらいしろよ。そうしないと邦枝さんだって、好かれてないんじゃないか、って心配で心配で仕方ないと思うだろうからさ。安心させてやれって」
 古市のお門違いな話は、結局一方的に幕を閉じた。それもまったく読めないわけではなかったし、男鹿は諦めてごく小さく溜息を吐いた。そもそも邦枝がそんなことを、考えているのだろうか? 邦枝がどう思ってどう考えて男鹿と付き合いたいとか好きだとか考えたものか、それすら男鹿自身にとってはまったく想像にも及ばない出来事なのである。キスしろと言われたものの、それを邦枝が望んでいるかどうかは皆目分からない。否、本当に好かれているのならば、キスを望んでいるだろうことは明白だ。そんなことは分かり切っている。嫌ならば付き合いたいなどと女の身であっても思わないだろうから。それくらいのことは、いくら疎い男鹿であろうとも容易に想像がつく。
 あれだけ言われてすぐ動くのもバカらしいと思えた。だが、あれだけ言われて何もしようとしないのも癪に障る。別に誘ったわけではないが、邦枝はいつものように放課後になると一年の教室に、男鹿を迎えに来る。男鹿がいなくなると、次の日に怒ってサボったことについて言及される。自分だって他人のことを言えるほど成績がいいわけじゃないのに、と男鹿が鼻で嗤ってやると拗ねる。そんな邦枝のことをぼんやりと思う。よく考えたら、男鹿もそんな邦枝を待っていたのだということに、今さらながら気づく。それはとても気恥ずかしい感情だった。顔に熱が集まってることに気づいた。きっと夕暮れの空色に染まって、バレないだろう。男鹿は知らん振りを決め込むことにした。今日は古市のせいで、邦枝の顔をまともに見れない。へんに意識させんなよ、と内心で独りごちた。

「…ねぇ、」
「何だよ」
 今日の男鹿はどこか変だ。
 邦枝はにぶいながらも、乙女なので目ざとく男鹿の変化に気づいてしまう。別にいつも顔を見られてるわけじゃない。でも、あからさまに見ないようにしている。やりづらそうに、男鹿は邦枝の隣にいる。地味な変化はきっと他の誰も気付かないだろう。男鹿をずっと見つめ続けてきた、邦枝だから気づける些細な変化。背中の赤ん坊は男鹿の背中ですやすやと眠っている。最近は、成長が早くよく眠るのだという。
「どうか、した?」
「は。何が」
 男鹿は夕陽の橙を見ていて、邦枝を見ようとしない。不思議な違和感があった。仕方なしにノロノロと邦枝を振り返る。同時に赤ん坊のベル坊が夕陽に染まる。この無垢な赤子が魔王だなんて、一体誰が信じるというのだろう。そして、吊り目の男鹿は変わらぬ風を装って眉を寄せた。だが、そんなことをしても無駄である。邦枝は冷たい素振りを作りながら男鹿を見返す。
「何か言いたいことでもあるわけ?」
「…いや別に」
「嘘」
 邦枝が男鹿の顔を指差して言う。何だか所作が姉に似てきたのでは、と男鹿は内心思っている。レッドテイル繋がりだし、近頃は邦枝と男鹿姉の美咲はメールのやりとりをしているらしいと、何故か古市から耳にした。というか、どうしてお前が知ってるんだ(キモい!)。ツッコんでも特に無反応だったので問い詰めないことにしたのだった。まっすぐと見つめる邦枝の瞳の色が深いことに気づく。ドキリとした。
「今日の男鹿、変よ」
 赤面している。邦枝はいつも、男鹿を見ようとしては赤面ばかりしている。いつまで経っても治らない。慣れてしまえばそんなものだと思っていたのに、やはり、意識してしまえば尋常なことではないのだと思う。変だと言われながら男鹿は、彼女の淡く彩られた唇を見た。そして思った。一人で、勝手に。少しだけ遅れて口走る。
「たしかに」
「は?」
 会話があまりにもちぐはぐだ。いつも、どこかおかしいだろうとは思ってはいたものの、ここまでちぐはぐな会話になるとは邦枝だって予想していない。おかしな男鹿はさらに続ける。
「へんかも」
 四文字かつ意味不明しか口にできなくなったのか。そう言いたくなるような短文な会話。そもそも会話が成立していないのだが。邦枝が怪訝そうに眉をしかめた。男鹿の手が、邦枝の手首を掴んで引き寄せる。どうして、急にこんな。邦枝は咄嗟のことで動けずにいる。目は驚きに見開かれたまま。そのまま数秒。沈黙を破ったのは、男鹿。
 どうして今まで気づかなかったのだろう。彼女として、隣にいた時間もあったというのに。確かに、邦枝葵は魅力的な女性だ。気づかないふりをしていたのだろうと男鹿は感じる。柔らかな指に指を絡ませるように、上から握りこむ。邦枝は拒否しない。まるで、こうされることを望んでいたみたいに。手繰り寄せるようにして、男鹿は邦枝に顔を寄せた。どうしてこんなキレイな唇にキスしたいと、今まで思ってもみなかったのだろう。それはきっと、
「う、ワリィ」
 唇に触れたつもりだったが、よく考えたらキスを自分からするなんて初めてのことだったので、鼻の頭に唇を付けただけだった。ガキか。思ったが、仕方ない。
「はずした」
 邦枝の顔が、これ以上ない位に火照っている。これではゆでダコである。まぁいいか、男鹿は思った。ゆでダコでも、いいか。なんだか頭が痺れるみたいに甘い。こんな感覚は初めてだ。ただ、邦枝の鼻頭に触れただけというのに。二度目はさっきより少しだけ余裕がある。顔を少しだけ離して、また近づける。邦枝の気持ちが分かる。彼女はずっとこれを望んでいたのだと。
 触れた唇は、思っていたよりも感触がよくなかった。緊張で乾いてカサついていた。でも、甘い感覚が、唇から脳へ。脳から身体へ。瞬時に行き渡るようでひどく、ひどく幸せだった。こんな感覚を味わえるのなら、いつまでも味わっていたい。何度もこうして、ずっとしたい。ずっと先でも、何年先でも。
 男鹿の唇が離れても、邦枝はしばらくそのままでいた。目をそろそろと開いた時、目の前に男鹿はいた。どんな顔をして見ればいいのかと思ったけれど、先に男鹿がぶっきらぼうに口を開いた。
「邦枝。……へんで悪りぃ」
 その言葉自体もヘンテコだと思った。それでも構わない。目を細めて、大事なものを見るような目をして邦枝が男鹿を見上げている。ケンカも土下座も、今の男鹿の脳内からはなくなっていた。こんなことは初めてのことだ。
「もっとしてぇ」
 そっと、もう一度だけ。子どもみたいな触れるだけのキスをふたたび。

 後になって考えてみれば、とても恥ずかしいことを、しかも外でしてしまったものだと思う。だが、初めてのそこにあったあらゆる感覚が、男鹿を、邦枝をその時求めていた。そんな時は誰だってきっと、周りのことなんてどうでもよくなってしまうのだ。三度目の口付けがなかったのだって、男鹿の背中で眠るベル坊が彼の髪をぎゅうと引っ張らなければきっと。男鹿は、古市のお陰でこうなったことは、邦枝には黙っておくことにした。古市には黙っていても、どうやってか嗅ぎつけるに決まっているので包み隠さず話すことにする。
 どうしてこんなキレイな唇にキスしたいと、今まで思ってもみなかったのだろう。それはきっと、溺れてしまうのが怖かったからなのだろう。深い海に溺れないための防衛本能はいとも簡単に、甘くて苦い痺れを伴って。一度思ってしまったからには、二度を願わないはずもない。
 


13.10.21

アリア聴いてました

お疲れさまです。
わーい、楽天勝ちました。それはそれ。


久しい更新になります。
男鹿葵のカップルの初キスネタ
まぁ、どう思うか、知らんけど

最初のなんちゃら、という文は流れで今うちました。きっとあとになったら恥ずかしいわ
でも知らんうち、アップしときます

2013/10/21 22:11:50