※ ♀神崎につき取扱ちゅうい!!!



 それから数日後のことだ。夏目と城山が、とある工場跡に神崎に呼び出されたのは。
「テメェ、なんのつもりでオヤジをそそのかしやがった………ふざけた真似すんじゃねぇ」
と城山は神崎の命令のまま、夏目を椅子に固定してしまった。城山の顔に表情はない。数日前の二人の事情は筒抜けだろうが、その様子は一縷も見せはしない。だが、神崎は青い顔をして、右手にはチャカを持っていた。生まれて初めて手にしたのだろう、神崎の手は情けなくもひどく震えていた。そんな様子では人などうてっこない。むしろ、暴発を招いてしまうのではないかというくらいのものだった。
「殺す」
 眼力の強さは初めて出会った高校時代を思い起こさせるものだった。怖さはなくて懐かしさと眩しさに思わず夏目は口元に笑みすら浮かべてしまった。神崎には申し訳ないと分かりながらも。それは城山にも伝わったようで、彼の周りの空気が僅かに緩んだように夏目には感じられた。しょせん同じ穴の狢というヤツなのだ。笑ったのが気に食わなかった神崎は逃げられない夏目の顔をチャカで殴った。多少は痛みもあるが、そんなに効くほどでもない。やはり力の差は歴然なのだ。どんな力と勢力のあるヤクザだと言えども。
「何だったんだよ!仲間だっていったじゃねえかよ!」
 神崎が夏目の胸倉を掴んで激しく揺さぶる。裏切られたような傷付けられたような、泣きそうな顔をして。
「女じゃなかったら違ったのかよ!俺が、女だからずっと一緒だったのかよ。前から、やりてぇとかって思ってたのかよ!へんたい」
 椅子の足のゴムが擦れるきぃきぃという不快な音が耳障りだった。化粧っ気のない神崎は泣き崩れたとしてもマスカラなどで真っ黒になることもない。それでも、泣くまいと必死に涙を堪えている。数日前の時もそうだった。どうして泣くことが恥ずかしいと神崎はいうのだろうか。夏目は分からなかった。泣きたいのなら泣けばいいのに。声を上げて泣くのは自分もためらいがあるけれど、悲しかったり悔しかったりすれば泣いていいのだし、泣くことはガス抜きになることを知っているから。つらそうな彼女を支えてやりたかったが、今はその彼女の手にはまって動けないでいるのだ。
「神崎くんが男だったら、それはまた違った関係になってたんじゃないかって思う。仲がいいことと、女の子として好きってことは、それはまた、違うから」
 また傷付けられたような顔をする。神崎が女でいてはいけないと思うことと、神崎の父がそれについて言及できなかったことは深いつながりがある。それも含めて夏目はなんとかしてやりたいと願う。だから、数日前のあの日、夏目はもう、いくところまでいってしまうだろう。そう思ったけれど、やはりやめておいたのだった。彼には余裕があったし、このまま神崎を押し倒して自分のものにしたとしても、心までは自分のものになどなりはしないと分かっていたから。そして、体から始まることのむなしさを思えば、そうすべきではないと思ったのだ。
 あの日、彼女の唇を再び奪いながら、男としての熱気にあふれていた夏目はそのまま服の上から初めて彼女の胸元に触れた。それは男であることを言い続けるためにむりに抑えられたものではなく、確かなその小さな、それでもたしかにふくよかなその胸のサイズについて考えるヒマなんて当然ない。前開きの服じゃない彼女の服を、彼女のすべてを暴きたいと言わんばかりに強引にめくり上げてしまう。左右にこぼれた脂肪の量は夏目が今まで経験した上ではかなり少ない。おっぱいの膨らみが脂肪であることを認めてしまえば、彼女の胸は確かにふくよかとはいいがたい代物だった。だが、そんなことはいつも服の上から見て分かっていることだ。それについてああ、と嘆くことなどない。多少はえっ、ここまで小さいのかよ、と思うことはあったとしても。一度や二度だけ女の体を味わっただけではない、当たり前以上の性経験を持つ夏目が思う。脱がせた女の胸にはブラジャーという砦はなくて、小学生の少女のようだった。ずっとノーブラなのかよ、と内心つっこんだが口にできるはずもなく。男として生きるというのはこういう意味も含めてだったのかと半ば呆れてしまう。言葉に忠実に、ただまっすぐに生きる神崎一をいっときの欲望で穢したくないと夏目は思った。だから唇を奪うだけで解放したのだった。
 思いを口にしてしまうことが悪かったなどと夏目は感じていない。ただ犬のように付き従い、自分の気持ちに蓋をし続ける城山のことを悪くいうわけじゃないが、いずれにせよ神崎は生物的に女なのだから、元の道に正してやりたいと思うのは父としても、思いを寄せる男としても当然だ。城山だってきっとそれを望んでいる。それを思って眠れない夜だってあったかもしれない。ただ、それを口にしていないというだけのことで、夏目も城山も同じだ。
「それでも、俺は好きだよ。神崎くんがそう思ってくれなくても」
 神崎が震える手を抑えながら両手持ちで銃を向けた。冷たい光が銃口から漂うように感じた。だが、不思議と怖くはなかった。神崎が撃つはずがないと分かっていたから。もし、もしも彼女が撃とうとすれば、それを城山は間違いなく止めるだろう。彼女が手を汚すことを悲しんで、城山はそれをさせはしないだろう。城山はきっと、自分の身を差し出してでも神崎を止めるだろう。だが、それ以前の問題だ。神崎の手は情けないくらいに震えていたし、銃一つを、とても重そうにしていたからだ。あんな手ではうてっこないだろう。それを分かってか、城山も特に動こうという様子は見えない。
「なんでだよ!」
 神崎が叫ぶようにいった。夏目にいっているのだろうが問いかけではない。だから答える必要はないと夏目は思ったのでなにも答えない。銃口はまだ震えていても、夏目に向いたままであった。だが変わらず夏目は怖くはなかった。神崎は自分に向けて発砲するなどとみじんも思わなかったから。
「ふざけんじゃねぇよ!」
 神崎の思いはうまく言葉にはならない。ヤクザの頭目として、一緒にいることを誓ったはずではなかったのか。おれは女であってはならないはずで、神崎が男だったらなんの問題もなかったはずなのに。それを黙ってずっと男だと言い続けながら、女として見ていたなんて裏切りだと神崎は思う。自分は神崎組の頭になるのだ。兄が継ぐはずだったその位置に、自分で辿り着いた。もちろん兄が投げ出したからできたことなのだけれど、それでも神崎は望んだ道へ進めたことが嬉しいと思い続けてきた。信じてきた仲間の夏目がそう思っているのだ。他のヤツらだってそう思っているかもしれない。兄のことを思うと、神崎の頭にはカァッと血が上り始めた。兄の背中を追い続けてきたことが頭の中を懐かしくも、苦しくもすーっとよぎっていく。兄がいた時の自分。とても楽しくて、眩しいくらいかっこいい兄を追い求めて、そうし続けていた。自分なんてないくらいに兄に依存して、ただ、兄だけがいればよかった。そんなことを思いながら、ちらと夏目を見て、城山を見た。どちらも身じろぎもしなかったけれど、神崎のことを確かに見ていた。その目はどちらとも、示し合わせたかのように神崎の心の奥までをも覗き込むような、そんな視線だと神崎は思った。それを思っても、神崎が口にしない限りそれは思いで留まる。そんなことなど当の神崎には、今は理解できないでいたのだが。だから神崎は見つめられながらも黙っていた。本当は、そんな目で見て欲しくないと言いたかったのだが。
「神崎くんは──…恋をしたんだよね」
 ぞくり。神崎はその夏目の軽口に寒気を覚えた。そんなことなど誰にも何も話していない。俺は、兄のようになりたかった。それだけだと心の中で何度もいう。その脳内こそが、他の余計な言葉を省いた夏目のセリフを本当だと物語っている。ただ顔から火を吹きそうだ、と神崎はひたすらに焦った。
「なななななななに。おれは、こい、なんて、そんなもん」
 どもってしまった。まだ背中がぞくぞくしていた。神崎は必死に自分は平静だと言いたくて、それを何の苦もなく装いたかった。もちろん、気持ちよいほどに失敗していたが。神崎の頭の中にはそれでも兄の姿があって、彼になりたいと願った、幼い日の自分の気持ちを思い出す。そして…、それがいつしか、兄に寄り掛かることを望む自分の姿であったことも。そこには、疼くような胸の痛みも本当はあって、それに気づかないふりをしてずっと生きてきたはずなのに、その当時みたいに痛む胸の、その出来の悪さに舌打ちすらしたくなった。そして、神崎自身その胸の痛みの意味など知っている。生まれて初めて感じた、誰かを思うせつなさを痛む。それは不幸であり幸せであった。誰かを思うことは幸せなのにせつなくて悲しいことだった。それこそが恋なのだと、神崎は知りたくないと目を背けてきたのに、どうしてか分かってしまっていた。兄を思う痛みが胸の中に、懐かしくも痛々しく染み込んでゆく。これは確かに恋なのだと、言葉にせずに分かっていた。
「それでも。俺は、神崎くんを選ぶよ。俺が女でも、神崎くんが男でも。かならず」
「ウソだ!!」
 兄のような揺れない背中に神崎は惹かれる。それは神崎の父ですら持たぬもの。だから憧れたのだ。──そして、焦がれた。──堪らず神崎は叫ぶような声をあげていた。好きだという夏目の言葉を否定したわけではない。ただ、彼の言葉を聞きたくないと耳を塞ぎたい気持ちでいっぱいだったのだ。そして、夏目は自分が発した言葉の意味をよくわかっている。それは違えることなどないと確信すらしているからたちが悪い。だが、本当は神崎もそれを求めているというのに。もう気持ちはぐちゃぐちゃに乱れていてわけがわからなかった。兄の顔が浮かんでは何度も消えて、それを忘れさせるようにまた何度も浮かんだ。変わらず、神崎組とは関わろうとはしない兄と、その娘の生意気そうな笑い方がよく似ていた。その意思の強さは兄と姪は気持ちがよいほどよく似ている。親子と言って誰もが納得する似た部分。似なくてもいいと言われる、血のつながりの一番濃いところ。それは自分にもあるのだろうが自分のことなどよく分からない。そのままのぐちゃぐちゃの気持ちのまま、神崎は兄のことを思う。彼の広くて、すがり甲斐のありそうな背中を思い出す。そして、はたと気付く。すがり甲斐のありそうな背中、だなんて思っていたということに。それに額然とする。俺は女じゃないはずだ、俺は男だし、誰かにすがりたいだなんて思ってないのに、と。ああ、性を感じたのは本当は兄に対してだったのだというのが初めてではなかったか。他の誰に対する怒りよりも先に感じたのは、兄への気持ちではなかったか。夏目の言葉が胸にあまりに痛く、夏目のことをさらに許せないと感じる。どうして、自分ですら知り得なかった気持ちを夏目が紐解いてしまうのか。人生経験の年数などまったく一緒だというのに。そんなことを思えば思うほど、神崎が発する否定の声はあまりに頼りない。その中で、神崎の脳裏ではやはり広い背中が彼女を支えてくれるのだ。
「でも、神崎くんは……………を、選ぶんだね」
 遠くて、低くて、小さくて。とても自信の失われた、頼り甲斐のない、夏目らしくないそんな声だった。は? と神崎は聞き直したが回答はない。不快だ、神崎はそういえば思った。兄のことなど見たこともないはずの、夏目が知ったようなことをいうのも不快だったし、よく分からないことをいうことも気に食わない。お前に何がわかるんだと、目の前で自由に動けないこいつを殴ってやりたい。
「本当は分かってるくせに。…知らないふりして、ズルいんだから。ま、それくらいはズルくないときっと、疲れて倒れちゃうよね」
 神崎はいつもそうだ。ヤクザのくせにバカみたいに真面目なところがある。いわゆる『くそまじめ』というヤツである。頭も悪いから上手い嘘もつけない。要は言葉通りの正直者できっと、自分を偽って生きていくにはずいぶん不向きだ。それは誰が見ても分かりやすい。分かられてないなんて思っているのは、隠そうとしている当人だけだ。何の隠し事だって神崎はきっとできないだろう。だが、隠し事だと思えば隠せなくなってしまう神崎は一つ、上手い方法を実践することを覚えた。それは自分を偽る方法ではなくって、物事を胸にしまっておく彼女なり処世術なのだ。それが、先に夏目が称した「知らないふり」というヤツだ。自分も知らなければ気づくことも、気づかれることもないだろう。それは考えて行われることではなくて、神崎の本能の一部になった。生きていく上では自分など偽れない神崎が、ようやく覚えたのが気づく前に蓋をしてしまうことだっただなんて、何かのチャンスすら逃してしまいそうなガッカリな話である。だがしかたないのだろう。不器用でも、少しでもラクに息抜きをしなければ生きてはいけない。まじめが祟ってラクに生きられないのなら、なおさら。そんな神崎をわかった上で支えてやりたいし、そうしてやれると夏目は思う。だが、それ以前の問題で気づかない彼女のことを、彼女自身に理解してもらう必要があると思った。もちろん、支えて欲しいなどと彼女は口が裂けても言わないのだろうが。
「神崎くんは、城ちゃんを選ぶんだよね」
 言葉にしてしまえばあまりにすっぱりと簡単に終わってしまった。ムダな言葉を省きすぎたせいかもしれない。きっと神崎に意味など通じなかったろう。神崎のすぐ傍にいる城山は動く様子も見せない。動揺しているかどうかも室内が全体的に暗いせいでよく分からない。ただ、目に見えるほどに神崎が動揺している。なぜ夏目がそんなことをいうのか理解できないでいた。俺が城山を選ぶ? 言っている意味がまったく分からない。自分でも動揺しているのが分かる。意味の分からない言葉にグラグラ揺れるだなんて、あんまりにも情けないと思うけれど、こうなってしまってからでは揺らぐだけ揺らいでからじゃないと収まりがつかない。しずかに城山の方を見ると、城山も神崎のことを見ていたようで、なんとなく居心地の悪さを感じる時間が過ぎる。それはほんの数秒という短い時間だったけれど、夏目の言葉は神崎の脳内で反芻してウザイくらい頭から離れてくれない。そして、はたと気づく。城山の背中は広い。懐かしいような、ちょっと触れたいような、そんな不思議な気持ちだった。だが、それを知られたくはないと神崎は感じた。どうしてだか理由は分からない。慌てて城山から目を逸らすと、夏目が神崎のことを見ていた。夏目は声を出さずにちいさく笑った。その笑みは、いつもの皮肉を含んだそれではなくて、やさしい柔らかな笑みだった。そして夏目は目を伏せた。神崎は思う。夏目には男らしさを感じない。背中は広いはずなのに、それでもあまり広さを感じない。いろんな意味での許容量だって夏目は大したものだが、そこにも特筆して感じることはなかった。兄のように、すがりたいと思うような背中ではなかった。どちらかといえばそれは城山の背中に似ていると思った。だが、それを口にしてしまえば面倒なことになるだろうと思ったので、神崎は口を閉ざしていた。だが、言葉がないということは不思議なもので、思いだけが溢れてくる。言葉にならない思いが胸の奥からおくから溢れ湧き出してくるみたいに、次から次へと神崎の胸を激しくうつ。
 あの、兄に感じた疼くような胸の痛みなんてものは感じていない。けれど、それに似た寄りかかりたいと思う気持ちはそこにあって、時に神崎自身思いに負けて寄りかかることもあったとはたと気づく。こうして同じ学校から、同じことをして稼ぐことになって神崎は、口に出してはいなかったけれど城山という男に無言のまま何度助けられたことか。わざとそれを当然だろうと態度に出すことで、本当の気持ちを出さずに遠ざけていた。もしかしたら夏目よりも城山への方が、ある意味では本音ではなかったのかもしれない。そんなことをいったら城山はどう思うか、少なくとも落胆するだろうけどそれはどうしてだったのかと考えざるを得ない。夏目の言葉が反芻している。脳内がごちゃつく。嘘か真実かなんて誰が分かるというのだろう。ああ、少なくとも、今の神崎には夏目よりも城山の方が確かに男だと感じる。それはひりひりと胸が痛むくらいに。なんでこんな気持ちを、神崎自身よりも先に夏目が分かってしまうのか。お前はエスパーか。そんなことを思いながら神崎は無表情で銃を夏目に向けた。向けた時はまったく震えていなかった。夏目はその捉えられた銃口を見てもたじろぎもしない。低く神崎はいう。
「知った口聞くな」小さめの声。
「知ったようなこというな」声か震えていた。
 夏目は涼しい顔をしたまま、まるで自分が言われたわけじゃないと言わんばかりに気にする様子もない。神崎の声は震えていても、手は前のように震えてはいなかった。覚悟を決めたという意思が感じられるくらいに揺るぎない。けれど夏目はそれには何も感じてはいない様子だ。目を見開くわけでも、表情を変えるわけでもなんでもない。神崎はそんな夏目に向けて銃口を向け、引き金に指を当てた。冷たい声が神崎の口から出る。
「くたばれ。…なつめ、」
 それまで止まっていた震えが復活した。なつめ、と呼ぶ声はあまりに細くて小さくてよく聞こえないほどだった。まるで、愛おしくて堪らないといった風な印象を受けるほどに、小さくかすれて自信がなさげだった。情けないほど銃の矛先は揺らいでいる。まるで今の神崎の心の動きを示すようだ。やはり夏目は恐怖を感じない。単に銃を向けられました、その事実があるだけだ。ここで、ようやく冒頭に戻る。

2013/02/05 10:53:00