当帰以前







 気分にそぐわないはずなのに、どうしてか「ある行動」をしてしまうときがある。
 これは、解けない人間の不思議のひとつだ。


 数日前のこと、今いる城から離れた場所にある場所を防御拠点として守っていた太史慈は、大慌ての伝令を見て、首を傾げた。十数人ほどの兵が城の中に入り込んできたのが見えた。時間は早朝。言っていることはよく聞き取れなかったが、あの様子から察するに、「大変です」とか、「伝令〜〜〜」とか叫んでいるのだろう。
 思い当たる節がないので、そんなに大それたことだとは思わなかった。
 伝令の言葉を聞いた時、彼は自分の耳を疑った。
「何だって………?」
 思わず、間の抜けた声になっていたかもしれない。しかし、そんなことに気づく余裕などないほどに衝撃的な言葉を告げられる。
「我々も信じられません。急に、ですから…けれど、本当なんです…若様は…若様は……現在、非常に危険な状態なのです。城にご帰還ください」

 伝令から俄かには信じ難い情報を受け取ったその日、太史慈はその言葉どおり、若き主君のいる城へ向かった。
 頭の中が真っ白で何も考えられず、お供の兵を連れて行くだとか、必要最低限の荷物を持っていくだとか、そんなことは一切彼の脳内から消え去っていた。ただ、真っ直ぐに己の向かうべき所に向かって進もうと、躍起になっているだけ。
 しかし、一国を持とうかという大軍勢の上官ともあろう者に、そんな単独行動が許されるはずもない。
 それを救ったのが、太史慈と共に伝令の話を聞いていた数人の兵たちである。伝令の「非常に危険な状態」という言葉を聴いたときの太史慈の顔色の変化を、彼らは見逃さなかった。もちろん、それは自分たちも顔色が変わるほどに驚いていたからこそ、なのだが。
 伝令の言葉のすぐあとに、太史慈はその兵たちの前から急いで姿を消し、必死の形相で上着を羽織って自室から出てきたさまを見たとき、兵たちは太史慈をなだめすかすように彼の側に近寄り、言葉をかけた。
「太史建昌、落ち着いてください。確かに伝令はすぐに帰還せよと言いましたが、そんな無防備では…」
 どうやらこの場にいる誰の言葉も、彼の耳には届かないらしい。邪魔な者は蹴散らして、上着の袖口を締めるようにしながらさっさと歩いていってしまう。そんな様子を見た兵たちは、太史慈のあとについていくことにするしかなかった。
 その無防備にも軽装のまま、馬に乗り込んだ太史慈を見たときには、兵たちも思わずたじたじとなってしまう。しかしこのまま見捨てるわけにもいかない。彼らもまた個別に馬に乗り込み、聞こえていないであろう声をかけながら、その後ろについていった。
 それにしても不思議なもので、必死のオーラというものは身体の外にも滲み出るものらしく、いつも見ているはずの太史慈の身体がまた一回り強大に見えるのである。当然、その必死の形相を窺い知ることのできない後ろ姿だというのに、だ。その後ろ姿を見ると、兵たちも気が引き締まるし、そんな場合ではないのに、どうしてか安心してしまう。護りに来たのに、逆に護られているような気分になる。もちろん、それではダメなのだと自分自身に言い聞かせながら、その背中を追う。
 彼らが向かう先は、休みなしで徒歩で行くと数日はかかる場所だ。彼らの現在地からは遠く離れている。電車とかバスとかそれこそマイカーなんてものがあれば、その日のうちに着くというのに、そんなときの道程は、読む者も書く者も、非常にもどかしい。なかなか辿り着くことができないのだから。焦らしの真骨頂のような。
 そんな彼らだが、馬を使っているとなると徒歩よりはだいぶ早く辿り着くことができる。とは言っても馬は生き物、休ませなくてはならないし、腹だって減る。腹が減れば人間と同じように腹も立ってくるというもの。疲れてくれば馬上のご主人のいうことだって聞きたくなぞなくなる。当然のことだ。そんな「基本」を忘れたのが運のツキ。
 長時間走らせっぱなしの馬は、疲れと空腹からイライラしだした。特に早かったのが、太史慈の乗っている馬。彼は鎧を纏っていないとはいえ、体重自体が重い。

 想像してみてほしい。
 あのただ無骨で重たそうな鎧を身につけるために必要な力。あれで動き回るための労力。そのために必要な身体の筋力とそれを持続する忍耐力。それ自体の体力。つまり、筋肉は必要不可欠。
 筋肉というのは、見た目よりも重さがある。外見上は締まっているので無駄な肉が無いように思われるため、身体は軽そうに見える。しかしそれは違う。実は筋肉というのは無駄肉――いわゆる贅肉――より重いのだ。締まっているから、身が詰まっているということだ。
 これを分かり易くいうと、毛糸のセーターを思い出してみてほしい。
 一枚のセーターは普通に編み込んだメリヤス編みのもの。裏地があり着てみれば当然温かい。しかし、もう一枚のセーターはかのこ編みした分厚いもの。それだけに重さもあるし毛糸も倍使うが、従来のセーターと比べてみると編み目が詰まっていて下地が見えない。さらに二重になっているのと同じなので、真冬といえども部屋の中で着るには暑いくらいのものもある。
 最初のメリヤス編みのセーターを贅肉と喩え、二番目のかのこ編みのセーターを筋肉と捉えてもらえば解っていただけるだろうか。

 ついてきた兵たちも太史慈には劣るが、急いで出てきたものだから身は軽いが、それだけに軽装である。
 馬にしてみれば、重い太史慈の側の馬が当然先に折れるに決まっている。疲れと空腹から解放されない馬は、やがてその馬従来のスピードを落とし、だんだんと誰の目にも明らかなほどのやる気の無さを見せていた。そのときになってようやくハッと気づいた太史慈は、近くの邪魔にならない場所で馬を止め、自分の重い身体を地に下ろした。馬をなだめるように軽く撫でてやりながら、自分の向かう先へと続く道の先のほう、先のほうを見やるようにして首を伸ばして進むべき道を眺めている。こんなところで立ち往生しているときではない。一刻も早く城へ。主の容態を心底心配に思う彼の目は、無意識にもそう告げている。
 そのとき、ついてきていた兵たちを目に留めた太史慈は、これまで気づいていたのか気づいていなかったのか、ズカズカと彼らに歩み寄り一言。
「悪い。任せた」
 馬の手綱を馬上の兵の手を握り締めるように持たせ、真剣な面持ちを崩さず、すぐさまくるりと後ろを向き、そのまま駆けていってしまった。その兵があっと思ったときは、もう時すでに遅し。
 とはいっても太史慈の速さに馬の足が負けるはずもない。彼のあとをついてきた兵は一人ではないのだ。
「その馬はお前に任せる。そのまま帰還してくれ」
 一人の兵がそう声をかけて、その他の兵たちはそのまま太史慈を追えばいい。
 太史慈がずっと走りっぱなしだろうと、彼らは馬に乗っているのだ。そこで数人は馬を降り、餌をやったり、機嫌取りをしたりする。別の数人はそのまま続行して太史慈を追う。急がずともすぐに追いつくことは分かっていたが。
「太史建昌、先を急ぐ気持ちは解りますが、私たちと共に城へ向かいましょう。道中、危険もあるかもしれませぬ」
 声をかけられた彼は、その凛々しい眉を軽く上げ、馬上の彼らを少し離れたところから見やりつつ、小さく返答を返す。答えはどうせ、Yes以外にあるはずもない。馬のほうが自らの足で向かうより速いのは誰の目にも明白な事実なのだから。
 そんな太史慈の様子を見て、兵は声をかける。
「大丈夫ですか。今日は宿でもとって休んだほうがよいと思いますが」
「宿か………頭になかったな」
 何か考え込むような表情を崩さず、曖昧な返事で答える。
 と、そのとき馬を休ませていた部隊が遅れてそこに向かってくるのが見えた。それを見て太史慈は少し顔を歪めた。迷惑をかけてすまない、そんなふうに読み取ることが出来た。
「お前らも宿に泊まらねばならんな」
 そちらの部隊の先頭の馬の傍らに立ち、その馬の手綱を引いて馬のゆったりした並足を止める。
「いえ、そんな…我々のことはお気になさらず、ご自分の身を案じて…」
 そのとき、太史慈はひょいとその足を止めた馬に跨り、そのまま手綱をシュルシュルと自分のほうに引き、乗っていた兵に身体をピッタリと寄せるようにして腰を下ろし、そこで少し強めに馬の左足に踵を入れてやるや否や、馬はその無言の命令どおりに突如として兵たちの前から遠ざかっていった。
 その光景を、兵たちはただぽかんとしながら、一瞬のこととしてただ、見ていた。
 彼らは、すっかり太史慈に「してやられた」というわけだ。

 道は急いだものの、城に着いた頃には主の意識など、もうすでになかった。いわゆる昏睡状態である。
 横たわるその人は、彼の知るその人ではないかのように思われた。だって…
 とても、静かだ。いつもならば、騒がしいはずのその人。
 そんな人が、大人しく目を閉じて眠っているなんて、それだけで魂など疾うに失われているかのように見えた。そんなことを考える自分自身に嫌気がさす。けれど、顔色だって死人のそれだ。
 太史慈は城に着いて、まず彼の容態を見に向かった。そのためになによりも急いでやってきたのだから当然だ。そのときもただ横たわっているだけだった。口許と胸元の呼吸しているように小さく揺れる、そのさまだけが彼の生命を感じさせた。
 それを見たのち、すぐに城に控えさせられている医師の元へ向かい、なにが原因なのか詰問した。
「矢傷が有りましたからな。しかしそれの治りが、有り得ないほどに遅かったのです」
 医師は、自分の治療にはなんの問題もなかったと弱々しくも主張した。
 医師の意見を聞いた城の者たちは、みんなこんな噂をしていた。
「矢傷の回復が有り得ないくらいに遅くて、そこから化膿したんだって。それはたぶん、孫策様が…于吉とかいう奴を処刑したからだよ」
「于吉って奴は、なんでも笑いながら処刑された、って話だぜ?」
 于吉。誰もその詳しい素性を話せる者はいなかったが、どうやら宗教団体の長のような、怪しい者らしい。それが彼にどうのこうのと言い寄りつつ、彼の平定したこの辺りをどうしようとしていたのか。それはもう、今となっては訊くこともかなわないが、孫策は呑み込まれる前に「怪しきは罰せよ」の精神で手を打ったのだという。…それが、死刑という形になったのは、必然。
 その際に于吉は自分の命絶えるまで、ずっとなにか呪いの言葉のようなものを唱え続けながら、刑を受け、その天寿を全うしたのだという。

 ………呪い? ハッ、そんなものが、この世の何所に存在するというのか。
 太史慈は、そんな唾を吐き捨てたい想いで一杯だった。彼は、生きる。そう信じて疑わない。何故なら、疑うことこそが彼の余命を奪うような、そんな気がしていたから。なんの根拠もないけれど、信じることこそが、「生命」とか「想い」だとかいう「目に見えない鎖のようなもの」を強く保ってくれる、どうしてか、そう信じそれだけに縋っていた。刻々と弱っていく主を見るのは、見るに堪えなかったが、それでも太史慈は根拠のない想いを胸に抱いて、侍女たちと共に彼の世話をしていた。誰がなにをいおうと、聞こうとはしなかった。犬のような男。そんなふうに周りから思われるのも、お構いなしに。



 失われたものは大きすぎて、それこそ誰にも取り返しのつかないものだった。
 太史慈は、その失われるべきではないものが失われるさまを、ただ、なにも出来ずに見つめていた。
 最期のときを感じて、必死でここに留めようと揺さぶってみたが、呼んでみたが、結局、逝く者に対しては、どんなに力の強い人間であろうとも、頭の良い人間であろうとも、無力でしかない。

 尽くしても、彼は自分から動かなかった。
 笑わなかった。
 泣かなかった。
 怒らなかった。
 声を聞きたい、と思った。
 けれど発されることはなかった。
 ただ呼吸だけをして、でもそれももう…
 命の灯火とは、何故こんなにも、儚いのか。
 別れの言葉すら、言えない、聞けない。

 逃がした魚は大きい、なんていう諺があるけれど、魚なんて生臭いものじゃない。彼の生に終止符が打たれたとき、突風が吹き荒れ、良かったはずの今年の農作物の大不況が襲ってきた。彼の平定した土地はもう無茶苦茶だった。
 彼の弟が、彼からいわれていた言葉どおりその跡を継ぐことになったらしいが、それになんの意味があるというのか。
 笑顔だったはずの記憶の中の彼は、いつからか顔面蒼白のまま横たわっている死人以外の何物でもなくなっていた。
 そういった心境の変化に気づくまで、太史慈は確かに神妙な面持ちで暮らしてはいたけれど、泣くことはなかった。人間、あまりに悲しいと脳が無意識の防衛本能で規制をかけて、激情の波をロックしてしまうらしい。頭は、正常に動いていないということだ。そうでないと自分を保てなくなってしまうから、である。
 消え逝く生命の灯をその傍で感じながら、同じように見守る医師がサッと動き、最期の確認を済ませる。
「…お亡くなりです」
 医師の声が裏返ったのが可笑しくて、どうしてか太史慈は笑ってしまった。自分にも解らなかった。解らないが、彼は悲しみの中で笑っていた。その様子を見て、周りにいた者がぎょっとした様子で彼を見たが、今度は彼が急にそこで大声上げて泣き出したので、それにもふたたび驚いてしまった。…実をいうと一番驚いていたのは太史慈本人だったのだけれど。

 そんなことがあったため、太史慈は頭がおかしくなったのではないか、と噂された。
 あのときのことがどんなにおかしかったのか、それは愉しくもないのに笑ってしまった、本人自身がよく理解している。解っているのだからおかしくなどないのだ。けれど別におかしいと思われようが、どうだろうがどうでも良かった。
 孫策は死んだ。
 もう護るべきものはない。
 ここにいる理由すら分からない。
 自分に価値はなくなってしまった。
 虚しさや、寂しさや、悲しさ、といったものだけが彼の中にある。
 あとは、なにも映らない。
 その虚無感の中、逝くべきではなかった、その人のことを思い出す。

 桜が咲いている季節、彼らは別々の場所で仕事をしていた。
 暑い時期、北出身の太史慈はバテ気味で孫策の傍に仕えていた時期もあった。
 過ごしやすい季節、彼らは別々の部隊で動いていた。志は同じくして。
 木枯らしが肌をさす時期、小休止しているような顔をして、実は作戦を練っていたり…
 また、巡り来る、もう四度目の季節。
 五度目の季節は、もう来ない。
 …もう、来ない。

 思い出すのは胸が締めつけられるように苦しいこと。けれどもそれを思い出さずにはいられない。
 不思議なものだ。自分の首を自分で絞めているような、けれども彼を思い出すことは、決して不幸なことではない。むしろ、太史慈の幸福な時間が、彼の記憶の中だけで駆け巡ること。
 彼と共にあった記憶は、太史慈の心に温かみをもたらせてくれる。
 けれど、その記憶は最後の最後で悲しい色に縁取られ、泪色に染まる。自らの心に傷を残すだけとなった、これまでの記憶が彼の中で反響する。
 その反響を身体の中に感じると、食欲なんてものは失せてゆく。
 食べるのが馬鹿らしいくらいに、狭い壷の中に身を埋め、その中に水を入れられていくような、そんな圧迫される恐怖。それは何物もノドを通らないほど。
 食べることは邪魔臭いと感じるけれど、その空になった心はとてつもなく、温もりを求めている。
 だから太史慈は布団を身体に巻きつけて、その温もりを得ようと独り、灯りの消えた暗い部屋でなんとかがんばっている。
 そのうちにうとうとと睡魔が襲ってきた。眠りに落ちるのは、嫌ではない。眠っている間は、きっとなにも考えなくてもいいだろうから。悲しいとかつらいとか、泣きたいとか仕事とか…なにも考えない時間。それこそが今一番必要で、けれども自分の力では絶対に手に入らないものなのだから始末に負えない。

 浅き眠りは、彼に心地好さを与える。フワフワと空に浮かぶ雲にでもなったような、そんな高揚感。
 それに身を任せると、考えることのない世界への道は開ける。その扉はもう眼前に広がっている。
 そのとき、医師がこういった。
「有り得ないほどに、傷の治りが遅かったのです」


 現実。これが現実。
 …眠れそうにない。
 倒れない限り、眠ることも出来ない。
 涙は乾いていたが、嫌な汗が身体を湿らせていた。気分が悪いので、羽織っているものを脱ぎ捨て、再度横になる。また布団を身体に巻きつけたりして何度も寝台の上で転がる。どうせ眠れやしない。眠れないうちは、想ってしまうのだ。二度と還らない者のことを。
 どうして待っているのに来ない?
 どうして声をかけてくれない?
 どうしてここにいるのに触れない?
 無駄だと解っていることを考えている。それも、たくさん。
 自らの身体をいたわるように撫で、大きく息を吐く。その動きは快楽を貪る者の動きだ。そんな気分ではないというのに。それを不可解に思いながらも自分で昂ぶらせていく。自分の身体のことは、なにより自分自身が熟知している。自分の気持ちは解らないことも多いけれど。
 心はそれを望んでなどいない。けれど身体は逆らったように動く。
 彼が少し身体を揺らすと、そのときにほんのちょっとだけ体のどこかしこに触れる布団さえも心地好い。
 そんな気分だ。もうすでに屹立したものを自らの手で触れるだけでも、快楽が彼を包む。
 快楽というのは、それ以外にものを考えられなくする効果がある。それが一番だから、それ以外考えたくない、と思うのは人間の本能だ。だからその上を目指して進むように動くのは、ごく当たり前のこと。
 もっと上へ。彼の身体が寝台を揺らすと木の床が軋んだ音を立てた。
 それに合わせるように、硬度と体積を増した自分のものを手で絞るように擦りながら玩ぶ。その手の指を一本使い先端を指で数回突付くと、声を押し殺したような呼吸の不規則さが一層増す。もう一方の手は手持ち無沙汰だったが、モゾモゾ動き出し玩んでいる手の遥か下方に位置を定め、そこを緩やかに揉み始める。ときにやさしく、ときに激しく、抑揚をつけることで興奮を高めていく。
 本当は望んでいない。自分以外の誰かに触れられたいと思う。
 その誰か、は夢でしか現れてくれないだろうけれど。
 その人の顔を思い浮かべ、上方の手が縫い目をなぞるように撫でると、いつも仲良くしているはずの両足が、知らないうちに離れていく。下方の手はさらにその手の位置を下げ、欲塊より下へその矛先を向けたその線上を指の腹で少し強めに擦る。小さい喘ぎが過呼吸と共に空気に紛れては消える。
 二人は抱き合う。けれどそれは過去の幸福。
 指の力を強めると、甘美な感覚が広がる。その感覚だけがどん底に堕ちた心をスカスカなもので埋めてくれる。結局スカスカには変わりない。この淀みを埋めるものが見つかるとは思えない。
 縫い目をなぞっている方の手を使い、浮き上がる筋をなぞる。震える先端に触れるともうすでに待ち構えるようにそこは熱を高め樹液を滲ませている。触れた親指の腹が滲み出す粘液で濡れた。指にまとわりつくとろみを、触れた指の腹をそのまま使って塗り広げていく。辺りを湿らせると、その快感は前よりさらに増す。
 過去の幸福に縋る男が独り、寝台の上で悶々としているさまは実に滑稽極まりない。ふ、とそんな考えが頭をよぎると、一瞬サッと頭の中が氷に触れたように冷え込む。
 しかし、それも一瞬のこと。甘い疼きは脳内麻薬を生み、それを貪るは人の常。
 冷えた脳が瞬時に熱を持ち、また刺激与える自分の手は呼吸に合わせて適確に昂ぶりに向かってその動きを早める。
 こういった、反射とも言える動きをしている場合には、間違いがないというのだから不思議だ。いつもいつも空回りばかりしている脳味噌であっても。
 窓の外に見える月が、その姿を雲に隠されてしまうと、辺りは漆黒の闇。見えるものはずっと遠くの方で燃える、城の見回りのために立ててある燈篭の灯火だけだ。その明かりは遠目にはいつ消えてもおかしくないほどに弱々しく、漆黒の中で風に揺らめいている。
 そんな、あってないような明かりの中では、支配するのは音のみ。視覚を奪われた聴覚のみの世界では、感受性というものは従来より非常に敏感になる。ほんの少しの振動や触覚にさえも反応してしまうほどに。
 そんな折、月がまた雲の切れ間から薄く顔を出す。すると視覚に入ってくるのは自分の立て膝。こんな格好をしていたのかと思うと、ぼやけた頭でも恥ずかしさが舞う。恥ずかしさがまたその興奮を煽り立て、恥ずかしいと思いながらも両手と腰の動きを止められなかった。
 塗り伸ばされた粘液で、滑りの良くなったその場所は、彼の代わりに涙に打ち震えながらも訴える。

『逝かせてくれよ…』

 きっと明日は太史慈の顔を見て、みんなが口々にこう言うだろう。
「気持ちは解ります……ですが…」
 そうして一様にみんな口を噤むのだろう。
 …嘘だ。解らない。誰にもきっと。この気持ちを埋められる者がいないように、汲み取る者だって存在しない。人の気持ちが解るなどと大口を叩けるのは、最下に堕落したことのない者がほざく戯言で、お決まりごとの一文。きっとそれを明日から日に何度も何度も、飽きるほどに聞かされ続けなくてはならないのだろう。
 それは、失くした者を想わせる、彼にとって一番の精神的拷問だ。

 欲の泉に浸るその両手は不規則に指を滑らせ、それを補助するように腰が浮き沈みを繰り返す。
 上方で筋道を辿りながらジグザグと往復し、先端の窪みに指差し込みこね回すさまと、下方でさりげなく補助するかのように、細やかで地味ではあるものの卑猥な蠢きを見せるさまは、また互いに別物として彼の上を這い回るものだ。
 耳元で、小さく名を囁かれたような気がした。
 瞬間、彼の波は脳内の火花と共に華やかに上がっては堕ちていった。
 …残されたのは、沈んだ思考回路に脳内麻薬の余韻とそれに伴った脱力感、そして汚れた布団くらいのもの。

 そう、何も変わらない。大きな寝台の上で、ただ横たえておくには勿体無い引き締まった身体を投げて、無力に肩で息をする図体のデカい男が独り。先程、聞こえたかと思った声の正体を耳をそばだてて探ろうとしている。しかし判らない。あれは幻聴だったか。
 だんだんと冷えつつある頭で考え直すと、何所からか温かい空気が彼の耳と頬を掠めた。
 彼は理解する。きっとこれだったのだ。自分を呼ぶ声はきっとこの生温い風。
 本当は理解したわけではないけれど、そう思い込むことを瞬時に決めた。
 彼はその風の慰みを受けて、明日の自分の進むべき方向を見据える。眠れずに判断の鈍った頭だが、これだけはきちんと決めていかねばなるまい。
 幻聴でもなんでも良かったのだ。ただ、縋りつくためのものが欲しかった。
 けれどそんなものなど有りはしない。

 彼は、狂えない自分を失わせるために、ある意味では失わないために、武の中に身を投じることにしたのだった。
 軍のためだとか、今は亡き孫策の遺志を継いでだとか、そんなカッコいいことではなく、彼なりの、ただの逃げ道をつくったに過ぎない。それ以外での彼は逝き場を失くした廃人となんら変わりはなく、その身を生命の危機に晒すだけが彼の生命を紡ぐ道。
 戦いたくなどない。だって戦いは逝ってしまった者を想わせる。心は望んでいないのに、思考は止まったまま動く気配を見せない。どうして心と行動は裏腹なのだろう。
 明日からの俺は、軍のために命賭す戦場の鬼と化す。
 やってみせよう。この風が吹く限り。周りに弱みなど見せず、人であることさえ捨てて、これからの時間を止め、軍事にのみ邁進していこう。この命、この風とともにあれ。
 生暖かい風が彼の頬を撫でるたび、彼の心が悲鳴を上げ続けていることを、そこにいる誰もが理解できるはずもない。
 救われる道の断たれた者はなにを目指してなにを見て、どう向かえばいいのか。
 結局なにひとつ掴むことなどない。護るべきものを失ったガーディアンの末路は、ボロ雑巾のように朽ち果てるが道。





* * * * *




策死亡、子義ネタ

ただ、しょぼくれてオナッてるだけじゃねえか。
なんともマヌケな話を書いてたモンだ…。
(しかも、当時のあとがきなるものがない、という)


保存日時2006.01.23

結構前なことに、驚く〜〜〜(あえて、天津木村風に読め)


2006/01/23 08:19:10