気付いたら手を握っていた。横を見ればお互いの顔が見える。彼女は彼よりも先に起きて、ぼんやりしたままあっちを見たりこっちを見たりしていたのだとあとから聞いた。その時は、まずどうすればよいか分からず、口を開けてみた。勇気を振り絞って、喉から音を出してみた。
「……がッ」
 言葉にならない言葉。しかも濁音がでてしまうとは、なんとなくかっこわるい気がして、あーとかいい直した。隣の彼女がじっと見ている。まだ、手は握ったまま。どちらから振り解こうともしない。まるで、こうしているのが当たり前みたいに手をつないでいた。もしかしたら、二人だけの世界なんてオチはないだろうか、と彼は急に不安になって起き上がった。
「すみません」
 ちゃんとスラスラとモノがいえる。脳みそが壊死した世界にいるわけでもなさそうだ。あなり明るい色の彼女のお下げ髪が、彼の手が引かれたことによって揺らめく。彼女は感情のないビー玉のような大きな瞳で、彼のことをぼんやりと目で追っていた。彼はようやく手を離した。
「こんな不躾な質問をするのって、おかしいって分かってます。ですが、申し訳ありませんが教えて下さい。俺、ちょっと何も覚えてないんですけど、貴女は、俺の知り合いだったり、友人だったりする人ですか?」
 彼はまくし立てたけれど、彼女は何もいわなかった。ただぼんやりしたままの視線が虚空を揺らめくように動いている。こんな視線を、彼の脳内でキャッチしていた。見覚えのある視線。とても懐かしい。だが、誰の姿なのかはまったく分からない。それに、
「…と、俺は、誰なんだっていうんだ?!」
 こんなことを口にするやつは頭がおかしいのだと一蹴されるということすら思いつかなかった。ただ、彼は必死で今の状況を知りたいと思っていた。何かを探していた気がする。だが、まずは自分が誰であるのかを探す必要があった。そうでなければ目的など分かりはしない。
 彼女がゆっくりと体を起こす。まだ視線は焦点が合っていないように揺らめいていたが、とある一点で点を成すように焦点を合わせた。彼の顔をまっすぐに見たときにようやく。なにかのパーツがカチリと合ったかのように。
「分からない。…あたしも、よく憶えてないんだ。でも、キミと一緒だった気がする。起きる前から」
 いわれてみればそんな気もするが、イマイチよく分からない。彼は頭を抱えてしまった。二人で記憶喪失などと、そんな非科学的な状況などあり得るのだろうか?ならば、この場所から出て知人などを探すべきだと思う。だがここがどこなのかさえ分からないのだ。もしかしたらとても危険なことをしていて、こんな状況に陥った可能性もある。過去の自分を知る者に話を聞かなければ分からないが、誰に聞けば良いのかまったく分からない。
「……どうすればいい?病院でも行って、頭の検査でもしてもらうか?」
「あたし、憶えてることは少しなら、ある」
 彼は急かすが、彼女は目を瞑ってひと息吸ってから、ようやく口を開く。こんなところで気長になど待っていられないというのに。
「あたしは、鈴っていうの。あんたは……岡部。それだけは憶えてる」
 鈴は岡部の手を掴む。さっきまで握り合っていた、その温かい手を掴む。岡部は眉を寄せる。岡部、というのは聞いたことがあるような気がする。だが、違和感があった。なにかが違うと岡部の中に眠る記憶がいう。だが、思い出せない。頭の中は、白紙というのが一番適切な言い方のような気がする。いや違う、白いペンキで塗りたくられて真っ白になってしまった、というのが一番近い。忘れてはいけない何かと、忘れたい何かと、忘れたくない何か。すべて忘れてしまって、今はもう、真っ白でなにも見えない。だが、分かることがひとつだけある。
「岡部、とは。それは苗字ではないか。俺の名前は分からないのか?」
 それには、しばらく「う〜〜ん」と視線を泳がせてからの分からないという解答で地に堕ちた。岡部は岡部なのであって、それ以外は分からないという結論。俺は岡部などではないという、言葉にしても意味のないもどかしさの違和感。どうすればよいのか分からなくて、このもやもやを発散できる場所もない。た辺りの様子を見てやろうなどと無意味にきょろきょろとしたが、何の意味もない。他にやるべきことも見つからない。
「ねぇ岡部。あんたが焦ったって、どうなるもんでもないし、ゆっくりいくしかないんじゃない?」
 鈴はそんな能天気なことをいうから、岡部は頭に来て、それは今まで抑えてきた不安が爆発してしまったのもあるのだろう。絞り出した言葉は岡部自身が思っていた以上に大きく、感情的な響きを持っていた。
「俺が憶えているのは、ここに何かを、大事なものを探しにきたっていうことだ!それなのに悠長になどしていられるか!」
 岡部の記憶の断片には、それしかなかった。なにかを探してここにきた。だが、ここという場所も分からず、なにを探しにきたのかすら思い出せない。記憶喪失と単純に括ってしまうには、二人というのがおかしな気がする。そんなことを岡部が考えていると、気づかぬうちに鈴は岡部のすぐ側で立って岡部を見上げていた。
 こうして間近に見ていると、この鈴という女は、子供っぽい風貌こそしているが胸も大きくクリッとした眼が可愛らしく、長めの睫毛が揺れるのも様になっている。ピタリと体に吸い付くような服装が、裸の彼女の姿を妄想させてしまうほど、レオタードに近いピッタリとした服装である。岡部の格好はそれに相対するようなものであったが。それを思えば、鈴と岡部の関係がなんであるか、それはまったく解せぬ所である。
 そんなことを思いながら、無意識に見つめあっていた。止める者が誰もいないから、それは秒ではなく、分という時間だったかもしれない。測ったわけではないので分からないが。唐突に鈴が言葉を発した。
「ありがとうね、岡部」
 どこかで聞いたことのあるような言葉に思えて、そして、ひどく胸が痛む。目の前にあるやわらかなものをかき抱いて、それで痛みを和らげたいと思うほどに。視線を前へと向けると、鈴がいる。やわらかなもの……鈴の隠しきれぬ胸元が目に入る。岡部は首を振って雑念を消そうとした。道徳を侵すつもりなどない! どんな道徳かなど知らないが、なにがなんでも踏み込んではいけない領域なのだと自分に言い聞かせ、握られた手を半ば強引に離したのだった。



 結局は、といえば。
 話し合いをしたところで解決策が見つかるわけもなく、警察に行ったのだ。いや、詳細をいえばそこは秋葉原の交番だった。岡部と鈴はどちらも記憶喪失になっており、どこにいけばよいか分からない。どうすべきかも分からない。ただ、この世の中を支えるべく立ち上がる若い世代であることは確かなようで、体力は鈴の方が上であり、岡部はまったく鈴にはついていけないということだった。
 警察にはいろいろと調べてもらって、拘留期間的な所もあったがそれはアッサリと白であることもすぐに分かった。だからといって国民をムゲにするには、警察という場所は重荷を背負っていた。まずは探し得る限りの捜索願いの洗い方から始まったのだ。誰かが鈴、もしくは岡部を探していないのかと。
 だが、それは空振りに終わってしまった。誰も二人のことを探している者は、日本全国どこにもいないようであった。どうやって生きればよいのか分からない。すぐに病院に行くように指示され、二人は大きな病院に行くことになる。そこで身になったことはほとんどないが、一つだけ確かに思い出したことがある。それは……
「俺の名前は…岡部キョウマ!字までは覚えていないが、俺の名前は間違いなくキョウマだ!」
 岡部キョウマは操作する言い放った。それは、まるで記憶があるかのような勢いで笑いながら。
 鈴が苗字を思い出すのは、また別の話である。


12.07.25

お疲れ様です!
初のシュタゲ文が上がりました!
最初に書き始めたのは別の話なんですが、こちらのほうが先にうまい所で区切れるなぁと思って、つい。
オカリンとスズっていい組み合わせじゃないですか?あ、まだドラマCD聞いてないんですが矛盾してたらすいませんでっす。いつ聞くかなんてまったく未知です。
や、自分は本気でスズを抱きしめたくて抱きしめたくて、止めたくてたまらない気持ちになってしまったからこんな話を書いたんですよ(笑)1975とか関係ないけどこんな妄想してみる。
2012/07/25 23:54:01