大切に抱き締めていたもの全て指の間から溢れ落ちていくんですI


「はぁあ!?」
 大声で叫んだのは、いるはずの人物の姿が跡形もなく消えてしまっていたからだ。周りの者に所在を確認する。もちろん聞く態度でではなく、胸倉を掴み凄みながら問いかけというより、命令に近い態度でではあるものの。
「東条たちなら、帰ったみたい、っすよ……」
 跡形もなくきれいさっぱり、東条・相沢・陣野らの姿は消えていた。聞いてもいないのに姫川が答える。
「俺はむさい野郎の番号なんてしらねぇぜ。しりたくもねぇ」
「つうか、てめぇ何でいんだよ」
「面白そうだからに決まってんだろ」
 姫川は放っておくことにした。だが、手詰まりである。放課後などすぐに石矢魔組からは人が消えて行くのだから、東条らの電話番号を知る者など既にいなかった。神崎は重くため息を吐いた。
「……スッポカシやがった」



 遥か後方でおずおずと手を上げる城山の姿あり。珍しいことだったし、ここまで気が乗らないというか、消極的な様子の城山というのもあまり目にしないものだ。そんな乗り気でない彼に構わず神崎は冷たく睨みつけた。無言の重圧をかけて、いいたいことがあんならさっさといえ、と告げる。当然それは城山にも伝わる。やはり気乗りしなさそうに城山はいった。
「俺、東条の電話番号なら知ってます」
 なぜそれを黙っていた、とポカっと一撃やったものの、理由を聞けば納得せざるを得なかった。元々、城山はケータイを持っていない。理由は極度の機械オンチ。ケータイぐらいいじれるだろうと思うのだがボタンがうまく押せないだとか、料理や服のボタン付けもできるくらいなのだからそう不器用でもないのだろうが、機械だというだけで拒否反応を起こすのだという。とにかくケータイの操作はそこら辺の年寄りよりもてんでダメという状態。そんな城山が東条の電話番号をしっていたのはアテになる連絡網的な意味合いだった。緊急連絡が教師や神崎や、その他もろもろから入ることがあり、それを回す役目であり、必要な時のために東条の番号を知ったというだけのこと。過去にそれを使ったことは数度あるらしいが、当然空で番号を覚えているわけでもないため城山は家に帰らないと分からないです、といった。そのために城山の家に行くのは面倒という思いもあったが、今回は事情が事情だ。神崎は少し考えてから「行くぞ」といった。別に誘ってもいないのに夏目と姫川もついてきた。無視するにはあまりにウルサイ。
「うっせぇなあ、ヘリ乗せろよ」
「ヤだね。男を乗せる趣味なんかねぇよ」
「オメーの召使い、男だろが」
 その言葉はスルーされた。男とか女とか執事に関係あるわけねぇだろ、姫川の視線がそう物語っていた。執事なんかがいる生活自体があり得ない。ヒくわー、としらっとした目を向けながら坊ちゃん野郎は放っておくこととして神崎は城山の前を歩く。家は知っている。それでも城山はあまり乗り気ではなさそうだった。そんな城山の様子は無視することとする。



 城山家、到着。
 姫川が唖然とした。子供たちがワラワラと出てきたからである。兄弟は五人だが、その弟、妹らが友達を呼んでいるとなるとさらに人数は膨れ上がる。まるでここは学校なのですか?児童館なのですか?というような場所となる。まさに今、その状態。
 そんな様子は見慣れた神崎がズカズカ上がっていって、それにもまた姫川は驚いていたが関係ない。人数の割に狭い家。それが普段からあり得ない広さの空間に住まう姫川の印象である。そんなことは姫川の中だけの問題なので関係ないとして、城山もまた慣れたものでアイスコーヒーを作ってちゃんと三人分置いた。だがダラダラしているわけにもいかない。小学生くらいの子供たちが神崎をメインにタックルしてくるのである。ゆっくりできないと分かればあとは身構えているしかない。夏目が呆れたようにいった。
「俺も神崎君みたいにはできないや」
 そんな二人の様子など気にしないで、城山は一旦引っ込んだ。東条の連絡先を探すという。だがやはり乗り気ではなさそうである。神崎は早くするようアゴをしゃくって行動を促したから、そうしただけだ。すぐに戻ってきた城山の手にはメモ帳があり、整理整頓などもきちんとしていることが窺える。
「かけますか」
 城山がメモ帳のページをめくりながら、もう一度神崎に確かめる。答えが覆ることなど、やはりなかった。狭い部屋に置かれたコードレス電話の子機で不器用に押していく。ピ、ポ、パ、と短い電子音の後に城山は己の耳に受話器を当てる。携帯電話はてんでダメなくせに普通の電話はいいのかよ、と神崎が文句をいったことがあったが、城山は余計な機能がないなら問題ないでしょうと年寄りの理論で通したのだった。しばらく耳に当てたまま城山は受話器を充電器に戻し、緩く首を左右に振った。考えなくとも分かることだった。東条はとても忙しい。バイトをいくつ掛け持ちしているか分からないくらい、超多忙な貧乏高校生なのだ。神崎は目的のことを思ってため息を吐いた。
 なんだよ、時間のムダじゃねぇかよ〜。
 四人ともが間違いなく思ったその言葉は、誰の口からも発されることはなかった。何故ならばそれを発してしまうことで、無意味な時間を肯定してしまうということこそが、屈辱なのである。人の心というものは実に難しい代物なのだ。



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 耳が痛む。ずきずきと。
 音が聞こえるような気がする。ずくずく。
 それも気のせいなんだと分かっている。けれど、病は気から、とおばあちゃんもいっていた。気が滅入って滅入って、あんまりにも気分は晴れなくて痛むばかりな気がした。そんなこと、理由は分かり切っている。分かりやす過ぎて言葉にしたくないくらいに。どうして耳が痛むのかなんて、きっと誰もが聞かなくても分かるだろう。
 それは、神崎が開けた、ほんの小さな穴が存在するから。
 神崎に開けてほしいと望んだのは由加自身だったが、まさかこんなに痛むなどとは思っても見なかったのだ。何せ、昨日までは痛いとも感じたことがなかったのだし。今日は消毒をしていないから痛んだのだろうか?そんなことを自問自答するのは馬鹿だと分かっていた。けれど、せずにはいられない。…消毒しなかったせいよりも、精神的なものが大きいことが頭では分かっていたとしても。

 由加は薄暗い空の色の中、千秋と一緒に帰路に着いた。心の中で蔓延っている神崎の顔が浮かぶ。しかも近所に住んでいる。こんな時だけは忌々しいとさえ思ってしまう。ただ、自分が彼を好きで、彼は自分ではない誰かを好きだというだけの変化。否、変化などではない。それは今日に決まったことではないのだから。単に今日、明らかとなった事実というだけのこと。何も変わってなどいない。受け取り方の違いだ。千秋が消毒してくれて、バイ菌などないはずの耳が疼いている。夕暮れがまたそれを増幅させるようだった。それを千秋に漏らすわけにもいかず、そのまま分かれ道で手を振った。
 本来ならそのまま真っ直ぐ帰りたかったが、体調もあんまりよくないため公園で休むことにした。この公園はあまり今日という日に来たくはなかったがいたしかたない。なぜなら、神崎と何度も帰りに寄った公園だからである。彼は何ということはなかったろう。けれど、今の由加には懐かしくも切ない思い出が蘇る。ベンチに座りたくないので、遊具に腰掛けた。どうせ神崎は早々と帰ったらしいのでここには来ないだろうし、鉢合わせることもないだろう。ざらついた小さな滑り台の表面を撫でる。子供の頃はこれでよく遊んだものである。勢いよく滑ることこそ英雄のようなもので、男女といった隔たりなどなかった。指でざらざらをなぞる。上の方からバランスを崩した者は怪我をするが、影では英雄と呼ばれ拍手すらされるようなわけの分からない子供だけの世界観があった。そんなあどけない世界観に戻りたい、と由加は思う。あの時がきっと一番楽しかったから。それが何年前であったかはすぐには計算できないけれど、時間をかければすぐに答えはでるだろう。
 ただ、今のような理不尽な痛みなど要らないと思ったから、過去にすがりたかった。心の弱さといわれてしまえばそれまでだが、過去に戻りたい時だってある。そんなことを願ってしまう時もある。ゆっくりと由加は視線を上げた。



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 長く。長い人影がそこには落ちていた。影だけではそれが何者かは分からない。映るそれは特徴という名のすべてを殺してしまっている。ただの『長い影』にしか過ぎない。誰とか何とか、そんな不要な予備知識はない純粋な存在であった。だから由加は何も考えずに視線を上げたのである。
「…パー子、……無事か〜?」
 その呼び方をするのは由加が知る限り、この世に一人しかいない。それが誰か分かると同時に、胸の奥の方がずきりと痛んだような気がした。それを気どられないよう平喘を装って由加はいう。
「大丈夫っス。先輩は気にしないでいいっスよ」
「……………送ってくか?」
 言い方がまずかったのかもしれない。由加の思いとは反対に気になってしまったようである。そんな優しい言葉をかける神崎の姿はひどく珍しい。だが、この時だけは由加も、彼の顔を見たくなくて拒否した。
「いっス」
 短い方が拒絶の言葉にはピッタリだった。だから彼の影が頭の上にかかるまでの間、自分自身で断ったことで罪悪感に苛まれていたなんて、馬鹿らしいことなど口にできるはずもない。だが、静かにかかる影の暗さに顔を上げるのは視覚に囚われた現代人ならなおさらである。
「送ってく。どうせ、近ぇし」
 強引に掴まれた手と、手と手を伝う温度があまりに近い距離を示していて、由加はまたいたたまれないような複雑な気持ちになった。勝手に好きとか嫌いとか、きっと神崎が理解すればバカみたいだと笑い飛ばされそうな思いの中で、ただまっすぐな気持ちのまま存在していた。ぐい、と引かれた手を振り払う。…そんな高等技術など由加は持ち合わせていなかった。どうせ、近いし。ここだけは先に口にした神崎に合わせてしまいたくもなる。立ち上がりながら、神崎の短い髪が黄昏の中をそよぐ様を目に映す。その赤茶けた髪と後ろ姿があまりに物悲しくて、どうすればよいか分からなくなる。ただ胸の中をかき乱されるような気持ち。だって、神崎はいった。結婚する、と。だから由加が何かをいう隙間など、それこそ恋愛感情など皆無であったとしても、熱の高い今の状態ではどこにもないのだ。

 神崎は思っていた。自分はもしかしたら、涙する女に弱いのではないかと。確かに男という生き物はバカで、女にいつの時代も騙されているかのような節もある。それを口にしてしまえば間違いなく女性からのブーイングが色濃いであろうから口にすらできない秘められた思いであることに他ならない。
 はたと気づく。そういえば由加が泣いた時、自分でも分からないうちに抱きしめていたのだった。家族に見られてしまって我に返ったが。
 何の因果か二人の赤くて長い髪の女性が泣いた。ただそれだけのことに、バカみたいに翻弄されているという事実。どちらの辛そうな顔を見るのも、やたらに胸がざわつく。今も見てしまった。何かに耐えるみたいな表情をして由加は、神崎から遠ざかろうとしている。それを抱き止めて自分の方に引き寄せたいなどと、都合のいいことを思ってしまった。自己嫌悪に陥りそうになりながら、手をつないだまま着いてくる彼女へ視線を向けてやる。由加は、いつもの笑顔を見せてはくれない。わざとらしいほどに俯いたまま、あれだけハイテンションに騒ぐのに今はおとなしい。すべてが、いつもと違っていて居心地が悪い。
 由加にしてみれば、口を開きたくても開けなかったのだ。きっと口から離れた言葉は嫉妬に塗れていて、神崎を傷つける。もしくは怒らせるようなものだろう。はたまた口をついて自分の恋心をぶちまけてしまうかもしれない。そのどれもが口にしたくなくて、口にしてしまいたい思いたちなのだった。それが口から出るのを防ぐために、顔だってまともに見られない。神崎を見てしまったら、途端に何かを口にしてしまうかもしれない。心の整理ができるまでは顔も見たくないと思った。
 と、人の気持ちなど知らない神崎は顔を覗き込むようにしながら声をかけて来た。察することなどできないと分かっていたが、察しろよ!と脳内ツッコミを入れてしまう。見上げる彼の目が揺れている。目が合う。ただそれだけのこと。だから、わざと、笑った。笑って見せた。それが当たり前のはずだから。
 神崎はその表情を見て、由加が悲しい顔で笑っていることにすぐに気づいた。無理があるのだ、笑うのには。それを気づかないほどバカではない。抱きしめてやりたい衝動を抑えつつ、神崎は眉を寄せ、いつものようにパー子と呼んで頭に手をやる。このままでいいわけもないが、理由をいわない由加に対して何かをしてやることなどできない。神崎は深追いを諦めて前に進む。彼女の手を握りながら道を歩き出した。由加の顔は、無理に見ないことにした。彼女が体調のせいなのか、はたまた他の理由なのか分からないが、何かに激しく悩んでいるのが伝わっていたから。

 ずんずん歩く。だが、神崎は足をするようにして歩くので、足が遅い。だから由加でもすぐに追いついてしまえるくらい遅い。わざと遅くしているわけじゃなくても、まるで子供のように足が遅い。走る時はまた別なのだろうが、歩くのはひどく遅い。そして、それを神崎自身がまるっきり気付いていない。自分の速度こそが当たり前の速さだと思い込んでいる。俺様ロードである。
 こんなにゆっくりと歩いてしまうと、いつもなら見えなかったものが嫌でも目に入ってしまう。例えば、足元の意外にもキレイな雑草とか、空の高さが今日は低めだなぁとか、近所の家のハゲたペンキの色とか。どうでもいいことに気付いてしまえる。こんなぐちゃぐちゃな想いを抱えているのに、人間というのはひどく鈍感で、ひどく感受性の高い生き物だけど、ひどく器用で、何故か不器用なものなのだと感じてしまえるほどに。心はきっと一つではなくて、あちらこちらにあるのだろう。個人の中のあちらこちらに。だから悲しいと思いながら嬉しいことを思い出したり、辛くなったり、憎らしくなったり、いいなと思ったり、できるんだろう。そうでなければ説明がつかない。そんなことを思うのも億劫で、由加が下を向いて歩いていると上から声が降ってくる。低くて聞き慣れた神崎の声。
「うし、」
 顔を上げるしかないだろう。何が「うし」なのか分からない。顔を上げたそこは見慣れた自分の家の前だった。いつの間にか、ぐちゃぐちゃな気持ちのまま神崎と手をつないだまま、送られてきていたらしい。安堵感と申し訳なさが胸の中でないまぜになる。やっぱり、心は一つなんかじゃ全然足りない複雑なものなのだ。
「じゃな。体、休めろよ」
 すぐに神崎は去っていった。珍しく小走りで彼は、由加の前から去っていった。由加の頭の中にあるのは二つ。由加を気遣ってそそくさと立ち去ってくれたのか、由加の後に例の婚約者?と会いに行く用事があるからなのか。ぶすぶすと音立ててくすぶる想いがあまりに汚れて荒んでいて、自己嫌悪になってしまう。それでも彼女のことを考えずにはいられない。ただ、今日は気が済むまで泣くしかないのかもしれない。そんなことを思いながら由加は、ゆっくりと自分の住み慣れた家へと足を踏み入れた。



********



 神崎は、帰り道に手をグーパーしながら考える。最初は小走りだった足も曲がり角の後にはいつもの速度に落ち込んでいて、スタスタと歩く人たちが追い越したり、すれ違ったりする。だが関東の田舎町である石矢魔はそれほどすれ違う人も多くもなくて、やっぱり神崎と同じくらいの子供、もしくはそれよりもさらに子供たちばかりの姿が目立つ。最近よくニュースで見る少子化というやつのお陰でその姿も前よりは減っている。
 女は産む機械だ
 いつかの政治家の言葉が急激に浮かぶ。それは違う、と神崎は思う。彼女は産む機械なんかじゃない。強く思う。その時、思い浮かんだ顔は二人の赤くて長い髪の女性の姿だった。
 どうして?
 神崎は分からない。どうして二人も浮かぶのだろう?大事なのは、自分の子供を身籠った女だろうと思う。身籠るということは愛なのだと思う。その証拠に彼女は機械などではなくて、真心で接してきてくれている。愛情があるのだ。愛とは………
 そこでいつも神崎の思考は巻き戻しされてしまう。愛とは…、それの答えを持っているのは一体誰なんだろうか? 親? 何? 結局答えなんて、見つかりそうもない。何? もう一度問いかけるしかない。脳内に向かって。でも、脳みそなんてそれこそバカでアテにならない。何も答えない。バカヤロウ。
 愛のばかやろう
 そんな歌があったことを思い出す。歌えないけれど、ハミングすらできないけれど。それこそが『本質』なんじゃないかと感じるほどに、愛とか信じるとか、綺麗事は溢れていて分からないし、分かれない。ただ、神崎の頭の中には靡く二つの赤毛の長い髪が後ろ姿で立っていた。顔なんて見なくても、誰の姿か分かるのだ。


2012.07.22

お疲れ様です!
時間はかかってしまいましたが神崎とパー子の一つの区切り、みたいなものです。ハッピーじゃねぇのかよ!というツッコミは無視します。
まだ終わってねぇ…!俺は…


ただ、まだ分かっていない問題を忘れないでくださいね!それ解決するまでは終わらない。
ガキが愛とか恋とかに翻弄される回です。でも神崎もパー子もかわいすぎる。。。そして自分が書いてるアフォみたいな話切ない(笑)
2012/07/22 22:33:02