大切に抱き締めていたもの全て指の間から溢れ落ちていくんですH


「夏目、俺。学校辞める。」
「はぁあ?!」
 夏目の小気味良く響いた声と、それを真剣な表情で見ている神崎とが対峙していた。だが、神崎の様子はさらに別の意味で違っていた。聞く暇がない朝のことだった。夏目は聞こう聞こうと思ってはいたのだが、まだ学校にきたばかりで、かつ、席についたばかりなのだ。聞くヒマなどなかった。それなのに急に神崎から物申されたのが、そんな一言だったのである。返す言葉などない。まったく言っている意味も分からないのだから当然だ。他に、神崎がいった言葉もそうだが、彼の顔についても尋ねなければならないと夏目は一目見た時から感じていた。
「神崎君、とりあえず落ち着いて。聞きたいことがたっくさんあるんだから」
「まずはお前も落ち着け」
 そこで驚くほど落ち着いた様子の城山からツッコミが入る。神崎としても夏目が驚くのは当然だと分かっていた。だが落ち着いていられるほどオトナでもデキた人間でもないのだ。安っぽい茶封筒を取り出すとそれを二人に見せる。神崎の固い意思は確かなものだということを行動で示した結果である。城山がたどたどしい日本語でそれを読み上げる。
「き、…きゅう学、とどけ、ですか」
「バカっ、たいがくとどけ、だっ!」
 休、という字になっているのだから当然読まれても仕方ない。たい、と読ませるには線が一本足りない上に字自体が間違っていると夏目がいった。退学届などという文字のことなど考えたこともないのだから、当然といえば当然である。
「字が違ってますし、受理されないですね、きっと」
「う、るせー。城山のクセに…」
 きっとこの二人は漢字など教えようとしないだろう。神崎の退学についてよい感情を持っていないことは明らかだった。自分の決めた道だ、自分で辞書でも何でも使って調べて書き上げるしかない。ただし神崎は勉強などに限りなくやる気を削がれるタイプなのだ。気が重かった。
 不意に夏目が乱暴な手つきで神崎のアゴを掴んで顔をまじまじと見る。口に開けたピアスの辺りからぴりりとした痛みが走る。だが神崎は顔色を変えることはない。
「どうしてそんなカッコ良く整形しちゃったの神崎君はさ」
 教室の中はそれで静まった。ホームルームと授業の合間のごく短い休み時間のざわめきが、一気に水の波紋の音すら聞こえてしまうくらいに静かになって、それはそれで居心地が悪い。みんな気になっていたのだ。神崎の顔は明らかに殴られましたといわんばかりに片側だけが腫れ上がっており無残だったからだ。それをかっこ良く整形した、などと皮肉たっぷりに夏目が口にするものだから石矢魔高校のこの教室は好奇心の波に揉まれていたのである。
「辞めるっつった。」
 言葉が短か過ぎて誰もが納得できない。夏目がハァ?というふうに片眉を上げて困った顔をした。
「したら、親父が。コレ」
 どうやら神崎家は朝からドンパチがあったようだ。チャカ弾いたような会話はなかったので夏目は安心してほぅ、と息を吐く。どうやら神崎父も高校を辞めることを許したわけではないようである。当然だ。わざわざ通った学校で、もうその高校生活もあと数ヶ月という短かさに迫っている。ここで退学してしまえば今までの二年以上をドブに捨てるようなものだった。何より、この聖石矢魔でも一度、退学になりかけているのだ。ここまできたら自分から辞めるのはもったいないと思う。
「何で神崎君は急に……」
 途端に神崎と夏目の二人に立ちはだかる壁のように城山が立ち上がる。急に暗雲でも立ち込めたのかと二人が目を上げたら、城山だったので少し間があった。
「保健室に行きませんか」
 頷いて夏目と神崎は立ち上がった。ここよりも静かな場所で話したいのもあったし、神崎の殴られた傷の手当もしておきたい。それが城山の口にしない気持ちだった。一時間目の授業はサボることになるが、まあ構わないだろう。神崎の考えをきっちり聞かなければ授業など頭に入ってくるはずもないのだ。



 まずは神崎の口元の傷を消毒した。それを承知で血に濡れたピアスが傷口を広げている。これを外してはダメなのだろうか、城山は思っていたが口には出さなかった。消毒と絆創膏を貼るだけの処置で、十分だと神崎はいったので城山は引き下がった。そこから話は再開するのだった。
「何かあったワケぇ?」
 昨日のあの時から神崎はずっと考えていた。自分ができることと、自分がしなくてはならないことが何であるかを。今まで使ったことがないくらいに頭を悩ませていた。一人の女のことをこれだけ真剣に考えたのも初めてだ。未来のことだってそうだ。自分のことだけではなく、いろんなことを自分に絡めて考えてみた。近い未来だって全然見えないのに、遠い将来のことなど想像もできないのだ。不安などないわけがなかった。それでも神崎は決めた。
「俺学校辞めて、け、結婚する。」
 確かに彼女の体の中には神崎の遺伝子入りの子種が入ったはずである。つまりそれは、結婚を意味していた。順番は違うかもしれない。だが、この思いは過去のものだけではないはずだ。彼女に憧れて、断れなかった自分自身が招いた事故のようなものだったが、神崎はそれでも十月十日先の子供のために、子供を棄てないためにも茨の道を選んだのだった。夏目も城山も絶句していた。急に言われたことが、これまたついていけないほどに展開が早いのである。かける言葉などあるはずもない。
「誰と?」
 それだけ、ようやく口を開いたのは夏目だった。神崎が口を開こうとしたその時、隣のベッドからもそもそと動く物音がして、無遠慮にカーテンが開いた。誰かと思えば姫川の銀のリーゼントが笑うと共にうねっている。
「決まってるだろ。あの女教師に」
「げっ……!姫川」
「結婚は飛躍しすぎじゃねえか」
 姫川がいうのはもっともなことで、夏目も城山もいいたかったことである。惚れたのならそう思うのも分かるとして、だが学校を辞めてまですぐに結婚となるのはどうかと思う。子供でもできない限りは。そう三人が考えたのもそう時間差はないみたいだった。それぞれが顔を見合わせていった。もしかして、まさか、なのかと。神崎は三人の様子を見て顔を赤くしそっぽを向く。話すしかないだろう、元々夏目と城山には話すつもりだった。姫川には聞かれてしまったのだから仕方ない。だが、何といったらよいのか分からなかった。神崎は痺れたようにしばらく黙っていた。ようやくでた言葉は、
「ケジメだ。男としてのよ」
「要するにヤッちまった、だろ」
「……ああ、まあな」
 ヤッたんだ。否定はできなかった。まだ彼女の匂いが自分の体に残っているみたいで、どこか落ち着かない。神崎は目のやり場すら迷ってしまう。こんな告白は学校でやるべきものじゃない。
「そっか〜。とうとう神崎君も男のコから男に……」
「でも…神崎さん、」
 夏目と城山はまったく違う反応。夏目は単純に神崎の童貞喪失についてからかいを込めてニヤついており、城山は戸惑っている。単純に喜ぶにはあまりに唐突であったし、そんな劇的な変化が起こるのはあまりにおかしいと感じてしまう。
「…ゴメンなさいっス。聞こえちゃったっス」
 聞き覚えのある声。頭の悪そうな話し方。姫川からは向き的に見えていたろう。神崎組の三人が振り向くと、そこにはレッドテイルのメンバーの一人、神崎になぜか懐いている花澤由加の姿と、その友人で神崎と姫川とはゲー友でもある谷村千秋の姿があった。
「ウチ、聞くつもりはなかったんっスけどねー…声大っきい大っきい」
 由加の表情は硬く、顔色は悪かった。ほとんど真っ白に近い顔色だ。千秋は由加に肩を貸すようにしながら保健室に来たらしい。まっとうな理由で保健室に来たのはどうやら、最後の客だけのようである。その顔色を見て、神崎は慌てて立ち上がった。城山もそれに続く。
「大丈夫かよ」
「生理痛っス」
 そういった女性的な会話に慣れていない神崎はバツが悪そうにあ、そう、とだけ返した。ただのベンチと化していたベッドを慌てて空けると寝るように促す。姫川はどうやらベッドを譲る気もないようだった。
「え、でも……。ウチ、まじタイミング悪いっスよね〜…」
 ベッドに座るでも寝るでもなく、由加はそれ以上保健室に踏み込んでこようとはしない。神崎が由加の手を掴んだ。咄嗟に由加に手を払われて、それでようやく彼女の顔を見た。何かに負けたような、打ちのめされたかのような、そんな悲しいような悔しいようなやりきれないような顔をしていた。ショックは顔にすっかり出てしまっていた。それはきっと、今の話題についてに決まっている。
「お前らがキャンキャンうるせーから目ぇ覚めちまった」
 姫川がそんなことをいいながら自分勝手に起き上がり、由加を押しのけるように保健室にの方へやりながら、自分は出て行った。教室に戻るつもりなのかどうかは分からないが、いつものようにケータイを片手に新しい遊びでも見つけたかのような楽しげな笑みを浮かべていた。
「先輩。すぐ辞めるんっスか?」
「……悪ぃ、パー子。消毒してやれなくて」
「…由加ちー」
 由加が俯いたのは涙を隠すためだったが、声も水に濡れていて、鼻を啜る音もしたから、その顔を見なくとも彼女が泣いているのは明白だった。千秋は呼びながらティッシュを差し出した。神崎は先ほど振り払われた手が重いような気がして、とてもじゃないが再び彼女に対して何かを渡したり、はたまた触れたりすることなどできそうになかった。手を差し出すことで振り払われるのが怖いのではない。差し出した神崎の手で由加が傷付くのが怖かったからだ。
「俺たちも戻ろうか。じゃ、お大事に。」
「体調悪いのに、すまん」
 こういう場面ではきっちり空気を読んで退散することができる。夏目も城山も、確かに神崎よりも大人なのだ。城山が強引に佇んだままの神崎を保健室から連れ出した。廊下を歩く時も神崎は、半ば引きずられるように歩いていた。
 神崎はその間じゅう考えていた。今、どうして昨日あれだけ必死になって考えていたことが、由加の蒼白に近い顔を見たら音を立てて崩れるみたいに、一瞬のうちに神崎の脳内で揺らいでしまったのか。自分の選んだ道は、確かにこのまま高校生活を送って、親父の後を継いで若頭として生きるよりは確かに難しいのかもしれない。でも、自分の子供と美人でやさしい歳上の奥さんを貰って、親の反対を押し切って高校も辞めて、二人で駆け落ちしてそれでも幸せに向かって。順序はめちゃくちゃかもしれないが、ごく普通の生活を望んでみても構わないのではないか。そう思って選んだ道だったのに。その道すらもまた神崎は揺らいでいた。選んだのに、選べないでいる。なんて優柔不断なのだろうかと叫び出したかった。もちろん授業など上の空で、何をいっているのかまったく聞いていない。いつもと違うのは、神崎が妙に大人しいということだ。
「なぁ〜んか、腑に落ちないんだよね」
 夏目がそう短くいった。誰も返事をしなかったが、城山は心の中で賛同していた。



 昼休み。
 退学届の字が書けないという話で、姫川が爆笑した。それにつられてクラスの何人かも笑った。その間をぬって陣野が顔を出した。のそのそとした動作で神崎に近寄る。真ん前に立つ陣野の姿を見て、いつぞやの決着をつける時かと立ち上がる。
「いや違う。お前は俺には勝てない」
「あぁ?! 俺は負けを認めたわけじゃねぇぞ。なぁ城山」
 急に振られた城山は言葉に詰まった。あれは東条にケンカを売りに行った時で、姫川と神崎が二人でもかなわなかったのが陣野だ。そして、その陣野をいとも簡単に打ちのめしたのが夏目というわけで、神崎は陣野に負けたというのが事実である。ただ負けを認めるか認めないかは神崎個人の問題であって、事実は覆せないものであることも付け加えておく。
「その話じゃない。女の話だ」
「は?」
 殺伐とした空気が一気に緩んだ。まさか陣野から女の話がくるなどとは誰も思ってもみない。だから咄嗟に返した。
「女って誰?」
「お前がどうのこうのしている、女教師のことだ」
「亜由美サンのこと、かぁ…?」
「名前は分からない。だが、多分俺の弟の塾の講師だった女だ」
「弟いたの?んで弟塾通ってんの?」
 見当違いなツッコミがどこからか飛んできたが、陣野も神崎も華麗にスルーした。陣野の話が確かなら世界は狭いということになる。まあ石矢魔というしがない関東の田舎町である。そんな繋がりもあるかもしれない。神崎が聞いた。
「クビになったっていってた」
「理由は聞いたのか」
「聞いてねえよ。辛い思い出をほじくり返すこともねぇだろ」
「だから、ほだされる」
 意味が分からない。しかし陣野はそれ以上語ろうとしなかった。本人に聞け、とそれだけいう。だが、これだけのことをいっておいてあんまりではないか。神崎は後ろから陣野に蹴りを入れ自分の方を向かせ、胸倉を掴んだ。別にケンカ腰のつもりはなかった。こうするのが手っ取り早いと感じたのだ。だが陣野は不良らしくなく動じない。本当に気長でキレない男である。
「苦しむのは女じゃない。たぶんお前だ」
 この男は言葉が少な過ぎてよく分からない。何をいわれても繋がらなくてちんぷんかんぷんだった。クビになったのは彼女であって、神崎が知るところではない。だから苦しんでいるのは彼女なのだ。神崎は塾でのことなど苦しいと思うはずもなかった。
「放課後に話す」
 小さくそれだけいった。何やら意味深である。渋々神崎は頷いた。同時に舌打ちもしたが、誰も気になどしない。夏目と城山も不思議そうな顔をして陣野を見ている。陣野は他人からどう見られようとも気にしないで己の道を貫き通すタイプである。席に座ってマンガを読み始めた。放課後まで待つしかないと神崎はイラつきを隠せぬ様子で椅子に腰掛けた。
 長くて面白くない午後の授業が始まる。



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 保健室の中で由加は考えていた。隣には千秋がいる。看病人と言いながら、千秋はしっかりと携帯ゲーム機を音量を絞ってプレイしている。呑気なゲームの音と、沈みきった自分の気持ちと、静かな学校の様子と。涙はもう止まっていたがメイクをし直さないときっと目も当てられないほどブサイクな顔になっているに違いない。あの時、どうして泣いてしまったのだろうか。
 よくよく思い出してみれば神崎の前で泣いたのは二度目である。よく泣くヤツだと思われているかもしれない。呆れているかもしれない。だが、時に現れる感情の高ぶりに対して、涙などそう簡単に止めることなどできはしないのだ。
「アキチー。もう大丈夫だよ」
 由加が声をかけるとそろそろとカーテンを開けて顔を覗かせた。同時に由加のポーチも渡してくれる。これで身だしなみは整えられる。ベッドの空いたところに千秋が座った。
「大丈夫じゃない」
 短くいつものように感情のこもらない調子で千秋が口にした。その言葉が心に染み入るように、ゆっくりと由加の中へと届く。収まったはずの涙が再び熱を持って溢れてしまいそうだった。どうして、こんなに分かってくれている友人がいて、今まで分からなかったのだろうか。前に千秋はいったのだった。神崎は由加のことを好きなんじゃないか、と。また、由加も神崎を気にしているのでは?とも。前者は的外れなのは今日分かった。後者は、
「アキチー。ウチ、先輩が好きっス……でも先輩は…」
 だから泣けてしまったのだ。
 好きだと気づくのに時間がかかりすぎてしまった。ライクじゃなくてラブの方であると、気づいてしまったのは神崎の、彼女に対する結婚までの強い思いを聞いた時。自覚するのがもっと早ければ、とも思うが、そこには立ちはだかる壁がある。そう、由加はレッドテイルのれっきとしたメンバー。男など作れるわけもない。これでよかったのだと言い聞かせた。何度も何度も自分自身に。泣くだけ泣いたなら、神崎の新しい門出を祝ってやりたいと思いながら、それでも収まらない涙のせいで教室に戻ることなどできないのであった。
 もう少しだけ待ってもらおう、そう思ったら再び呑気なゲームの音が聞こえたので今度は安心して泣くことができた。そんな自分を崩さないドライな千秋を由加は大好きだから一緒にいられるのだ。


12.07.06

七夕の前の日なんですね〜。
こんな話かよ。報われねぇなぁ。
でも、石矢魔メンバー結構出せて嬉しいです。どうしたってキャラは偏るからね。

読んでる人はもはや意外でもなんでもない展開だとは思いますが、もう少しだけお付き合いください。
次もおおよそ読める展開です(笑)意外性を求めたいんだけどやっぱり書くのは月並みなのよね〜〜〜んな文才ないわ。

しかしパー子と神崎は高校生というより、中学生の恋愛という感じで書いていても、こんな話でもほわはわしますね。だって男鹿と葵ちゃんのは攻撃性を感じながら書いてるもんで…
だからこそ筋は単純で、でもメリハリあるように気をつけてはいるんだけど、書けてねぇよなうん、絶対。
2012/07/06 18:07:20