生と死と、生きることと。



カルマの坂パロ


 そこは貧しい者と富む者の差が著しく激しいところだった。だが産まれることには意味なんてなくて、階級だけがそこにはあった。不満も不安もあったが、それについてどうこういえる時間もなにもない。思考など無意味。自分の不幸を嘆くよりも先に、最下級の人間たちは食べるものを探さなくてはならなかった。
 辰巳少年もまたそんな一人だった。
 辰巳は金持ちの馬車を見て思う。確かに子供である自分一人で生きていくのは厳しい。だが、あんな醜くぶくぶく太った豚になるのは御免だ。豚の屋敷に火でも放ってやるのもまた一興だろう。石と木くずさえあれば火を熾すことは容易い。彼はライターなるものの存在すら知らないのだ。
 まだ若干十代も半ばという齢の少年がここまで犯罪を悪いとも思わない、そんな国の中では殺し以外の全てが合法だといえよう。ただし、それは金持ち、階級の上の者に限った話ではあるが。
 その日、辰巳は躊躇うことなく外出中の豚の屋敷を消し炭へと変えてしまった。燃え盛る炎が回り切る前に、家の中へと忍び込んで食べ物という食べ物、宝石という宝石、たまたま見つけた武器を抱えられるだけ両腕に抱え込んで、薄汚れた街の脇道逸れた一角、辰巳たちの“いつもの場所”に持ち寄った。
 この辰巳という少年、放火したり盗みしたり暴力も振るうのだったが実はいいところもある。文句もいわずに自分より弱い立場の者たちに食事やらを運んだりする。さらに、殺しはしない。その最たる面々に貴之がいた。殆ど産まれた時から共にある彼らは常に一緒に行動していた。辰巳が俊敏さを必要としない場面に限っては。それだけに今は”いつもの場所“を見張って待っていた。辰巳の姿を見るや否や驚きと歓喜が入り混じった声を上げる。
「すげーな辰巳!こんなに盗ってきたのか」
 彼もまた下級の生き物、盗みがうまいとはお世辞にもいえず、この世の中で生きていられるのは辰巳のお陰だったのである。宝石と食べ物を選り分けてあとから売りに行って金にしてくるという。人には階級以外にも得意不得意というものがあり、それをうまく補う形で辰巳と貴之は生きていた。それを分かっていたから辰巳も文句をいわずにせっせと食べ物を、生きるために必要なものを貴之の元に運んでいるのである。
 二人と、近くにいた子供たちで食べ物を分け合って食べた。まだ若い彼らにはそれでも足りないほどのパンや果物だったが、もはやあの家は炭になっているのだ。取りに戻ることは無意味だった。子供の一人がとても嬉しそうに笑った。
「辰巳にいちゃん、オレ今、天国にいるみたいだ」
 天国、といったが辰巳には天国がどんなところであるのか想像もつかなかった。ただ、くだらない言葉であることは確かだ。桃源郷とか天国とか色んな言い方はあるが、本当にそんな場所があるわけでもあるまい。弱い者の逃げ道だと思っている。
「…どこだよ、そりゃ」
 冷たくそれだけ返してやると、子供はどうしてだか泣きべそをかいた。貴之が非難したが無視した。あるはずのない夢を見るにはこの世の中は不自由すぎた。上をみればキリがなくて、底辺に落ち込まないように下の方で這いつくばって暮らしているのが自分たちなのだと知っている。
 その時、通りから大声が聞こえた。火事がどうのという話だ。この瞬間がたまらなかった。辰巳はあそこの豚野郎の家だと笑った。騒ぎが大きくなるにつれて愉快でたまらない。笑う彼を悪魔だという子供もいたが、そんなことは気になりはしない。あいつらも下に堕ちてしまえばいい。上がるのは難しいが、堕ちるのが簡単だということも辰巳は理解していた。文字など読み書きできなくても、生きる術は身につくものなのだ。
 そんな騒ぎが収まった頃、貴之は宝石を売りに行くという。念のために遠出をするからそれまで辰巳は子供たちと一緒にいることになるだろう。辰巳がいなければ貴之はこんな世の中だ、すぐに命を落としてしまうだろう。もちろんそれは辰巳を慕う子供たちもそうだ。だからこそ辰巳を裏切ることはない。もしも辰巳に裏切られたとしても、恨みはしないだろう。ただ嘆くだけだ。そう、力のない者は恨みを抱くことすらままならぬ世の中なのだ。それを分かっているから辰巳は貴之を一人行かせる。彼は必ず、生きるために、ここより少しでも良いどこかへ、それは物理的な移動などしなくともどこかへ行けると、少しでも幸せが掴めると信じて、辰巳の元へ帰ってくるのだから。
「明日、早くにいく」
 辰巳はそんな貴之を横目に見やりながら短くただ「おう」とだけ返した。いつも一緒にいるわけではない。こうやって役割分担をして共に歩んでいるだけだ。ばらばらになるのは慣れていた。だがこれだけの宝石を持って歩くのは貴之も初めてのはずだ。そこが気掛かりだ。そんな思いを素直に口に出せるほど辰巳は大人ではなかった。
「こんな時でも人身売買か。金持ちってのはろくでもないもんだな」
 遠くから行列ができている。まだあの豚野郎の屋敷は煙を吐いているというのに、皮肉なものだと辰巳でさえも感じてしまう。いつものように貴之はその様子を眺めにいく。売られるのは基本、貧しい暮らしの少年少女だった。それらは借金のカタであったり、捨て子だったりした。誰もが自分以外の誰かに力を貸すなどという余裕がなかった。辰巳もいつ子供たちと一緒にいられなくなるか分からない。もちろん、貴之とも。だから辰巳は売られていく子供たちの姿を決して見ようとはしない。見たところでどうしようもないのは分かっている。これ以上自分の負担が増えるのもたくさんだった。辰巳の代わりに見ているみたいに貴之は野次馬根性をだして見にいく。別に構いはしないのだが、あまり気分の良いものではない。貴之は女の姿などこうやって見る機会がないんだから目の保養になるなどというが、どこが目の保養になるのかなんてまったく理解できない。ガキどもが売られていくだけだ。
「おいっ!見ろよ辰巳」
 いつものあれが可愛いとかやりて〜とかくだらない貴之節が始まるのだと思うとうんざりする。無視して段ボールで作ったベッドに横になろうとした時、意外な言葉が聞こえた。
「子連れだ、あの女」
 身売りは子供ばかりのはずである。辰巳は驚きのあまり、その身売りの姿を見てしまった。子供たちの顔も一緒に浮かんでいた。
 時が止まった、ような気がした。
 貴之のいうとおり女の姿があった。年は辰巳たちと同じくらい。十代半ばというところだろう。髪が長く人目を奪う美しい黒髪が靡いていた。不安そうな様子をなんとか隠そうと、胸元に三、四歳くらいの子供を抱きかかえている。顔色はひどく悪い。不安なのだろう。どこに売られていくのか、売られた後にどうなってしまうのか分からないのだ。誰であっても不安だろう。ましてや十代の女の子なのだ。その不安たるやどんなものであるのか、本人以外には分からないが想像はできる。辰巳は女の姿を見て言葉を失っていた。
「あの子、美人だなぁ。売られる前にお知り合いになりたかったけど」
 貴之の言葉はもう耳に入らなかった。顔色は怒りの色に変わっていた。漂う不穏な空気に貴之はゆっくりと辰巳を見た。ようやく彼の怒りに気づく。こんな様子の辰巳など見たことがなかった。辺りの空気はピリピリと凍りついていた。辰巳の名を呼んだが、何も反応してもらえなかった。身売り候補たちは町の中に消えていった。それと共に街のざわめきも薄れていった。ただひたすらにその様子を睨みつけていた。貴之はそれ以上声がかけられなかった。

 次の日、明朝。貴之は辰巳にいった。
「頼む。暴走すんなよ」
「何いってんだ、意味わかんねー」
 一蹴されたがそんなことは関係ない。あんな真剣な辰巳の様子を見てしまったのだ。そのまま宝石を売りさばきに出かけるわけには行かない。辰巳の胸倉を乱暴に掴んで必死で訴えた。おかしな真似はするなと。もちろん辰巳は顔色一つ変えずにのらりくらりと貴之の言葉を躱し続けていただけである。
「俺は、お前が死んだら生きていけないんだからな。分かるだろ」
 最後にそういって貴之は出かけて行った。明日、もしくは明後日には戻ると何度も念押し告げて。そうしても貴之の胸の中にあるモヤモヤは消えそうもなかった。
 その日、辰巳は豚のようなヤツの屋敷から盗んできた鉄砲を見下ろして、段ボールのベッドの下に隠した。これはお守りだ。何かがあった時のためのお守り。鉄砲はそのままで、街へと向かった。街の方向は貴之が向かった方向とは別なので鉢合わせることはないだろう。身売りされる子供たちの所在は噂で聞いていた。最長で三日間ほどあるところに幽閉されるのだという。それだけでも不安だろうに、家畜のようにぎゅうぎゅう詰めの中で少しずつ減っていく下級層の人たちの様子を見ていては、もしかしたらまともな精神状態ではいられない可能性もあった。どんな状況かは定かでないが、あの子連れの女のことが頭から離れなかった。女のことも気になったし、子供のことも気になって仕方がない。ただ様子を見ておきたかった。できれば話もしてみたい。名前くらい聞いておきたい。辰巳にとって、初めて誰かのことを知りたいと思った瞬間だったのである。
 大体の場所はわかっていたので、辰巳はすぐに走り出した。その際に鉄砲は段ボールベッドの下に置いたままだった。武器は特になく、念のため常に忍ばせている果物用のナイフだけが懐に用意されているだけだ。そのくらい軽装な方がやられた時も苦しまずに済むし、フットワークも軽くて逃げやすい。盗んだものも沢山運べる。すべて生きるために学んだ無駄のない知識だった。
 下級層の中の、つまりは辰巳たちの仲間内の噂話であるが、とある下級宿に運び屋は泊まり、その荷物として彼らは空いたスペースに放置される。運び屋は彼らに餌を与えない。水だけをバケツに数個与えられるだけだ。まったく人間の扱いではないのだと聞いた。その下級宿の場所は、時折食べ物を売ってもらいにいく場所であったので、辰巳の頭の中にインプットされていた。その場所に、まるで風にでもなったようにひた走った。
 夕方に辿り着いた、汚れた宿の前でぜぇはぁと大きく息を吐いて、何とか呼吸を整えた。たまたま見た庭先に、不自然な箱のようなものが置かれていた。辰巳は確信する。あれは売られる人たちの容れ物だ、と。だから慌てて駆け寄った。まだ明るい時間帯だったので誰かに見咎められる可能性もあったけれど、そんなことを考える余裕はまったくなかった。なぜなら、辰巳の思ったとおり箱は牢屋のようになっていて、そこには女ばかりが所狭しと座る場所もギリギリにひしめき合っていた。辰巳の脳裏にはあの女と、あの子供の姿しかない。辰巳の姿を見ては女の人たちはざわめきだした。ざわつくのはここに誰かがいることが分かってしまう。だから辰巳は一喝した。低く女どもに凄んで見せると、彼女たちはすぐにおとなしくなった。その時、フワリと長い黒髪が辰巳の前に現れた。そういうのは相応しい表現ではなかったかもしれない。だが辰巳から見て、急に現れたように見えたのだ。間違えようがなかった。胸元に小さな子供を抱いている。間違いない。
「お前らはいつ売り先が決まるんだ」
 辰巳は聞いた。子供を抱く彼女に聞いたつもりだったが、別の女が答えた。
「今日の夜七時に売りに出される。どうすればいいか分からない、助けて」
 最後の言葉は懇願だった。あの女ではないといえども、それが誰の言葉であったかなどと関係ない。辰巳はそれを聞いてすぐに踵を返した。黒髪の女の姿はもう見てはいなかった。
 走りながら辰巳は考えていた。彼女たちをあの檻から助け出すのは無理だ。だが売りに出される直前ならどうだろうかと考えたのだ。問題は、売りに出される瞬間がどんなものであるのかをまったく分からないことだった。子供たちは金持ちたちによって競りにかけられる。見目麗しい子供は高く落札される、そんな人身売買制度を辰巳たちは見たことがなかったのである。そんな商法は関係ない。ただ辰巳は売ることを阻止するための力がほしかった。そのために悪魔に心を売ってもよいとさえ思った。どうしたって願いは届かないことがあることも知っていたけれど。

 夜七時。箱は移動されていった。大きな建物に姿を隠し、そこには厳重な見張りやらがおり、腕に覚えのある辰巳であろうとも簡単には入り込めそうになかった。薄汚れた自分の姿を呪う。小汚い姿でさえなければ、誰かと一緒に入ることで紛れ込めたのかもしれないというのに。
 再び箱が動き始めるまでの間、数時間。箱は再び同じ宿にそれは留められた。だが、女たちの数は一目で分かるほどに減っており、黒髪の女は姿を消していた。それを見て辰巳は悟った。売られた者はここにはいない。売られたどこかにいったのだと。それがどこなのかは分からないが、何かが切れたようだった。辰巳は檻の格子を握ってガシャガシャとやった。宿に響くことなど考えもしない。女たちがざわついた。それでも構わない。
「何で、減ってる」
 聞かずにはおられなかった。女は悲しそうに答えた。明日から奴隷になるのが自分たちだ、売れ残った者はそうなるものなのだと。堪らずいった。
「ふざけんな、俺たちは下級だろうがなんだろうが生きてんだ。人間だ!こんなところで、これ以上堕ちてたまるか!死んでも……何とかする」
 あまりに悔しくて、ただ他の感情のすべてを打ち砕くかのような激しい怒りだけがこみ上げてきた。そのまま宿の運び屋を襲撃した。一人で十分だった。辰巳の力を持ってすればできたことだった。だがそんな勇気を持てるかどうかが問題だったことなど、こうなってみなければ分からないことなのだ。それを辰巳は身をもって知ることになったというだけのこと。
 そこで奴隷候補の子供たちは街へと散り散りになった。これからの未来など誰も描けないのにただただ走って消えてゆく。最後に逃げようとしていたリーダー格のようなパーマがかった髪の女に聞いた。
「売られたヤツらはどうなるんだ」
 売り残りの女は振り返りながら答えた。まだ売られたことのない奴隷間近の少女には分からないことだったので聞いた噂によると、と付け加えて。
「可愛い子はスケベオヤジの慰みモンだとさ。そこで上手くやれば生きてはいける。気に食わなければ奴隷と同じか、それよりひどいかもしれないって」
 聞いた途端に辰巳の胸の中に蟠った何かがせり上がってきて、最悪の気分だった。思わずその場に唾を吐き捨てた。胸がムカムカする。金持ちだから、上流家系だからと同じ人間をコケにしてもよいものなのか。そんなことを思いながら辰巳は、迷うことなく今度は宿に火をつけた。悪いとは微塵も思わなかった。
「…うし、アイツを捜すんだ」
 名前の知らない黒髪の女を思う。連れ子のことを思う。どこの家に飼われているか、それを調べるために辰巳はあの懐かしい段ボールベッドのある街角へと駆けていった。



「ただいま」
 次の日の昼。何食わぬ顔の辰巳の所へと貴之は戻ってきた。だが貴之は昨夜の騒ぎを知らないはずもない。辰巳に掴みかかるようにしながら近づく。
「って、お前何やった?!」
「…昨日から、下痢気味でよ」
「ああ?」
「うんこで篭ってた」
 だが目は怒りの形に歪んでいる。間違いない、昨夜の放火事件も辰巳の仕業だと確信した。何がうんこだバカヤロー。十年以上一緒にいる幼馴染は自分を必要としていないのだと分かってしまった。胸倉を掴んで何度かどんどんと殴ったが、辰巳が揺らぐことはなかった。
「分かった、もう分かったから責めたりしない。だから、俺にも手伝わせてくれ」
 最下級層の思いは皆同じなのだった。すべてを辰巳が背負いこむことはない。今この時に足でまといになりたくはないという強い思いを込めて、貴之はじっと辰巳を見つめ頷いた。
「分かった。なら、お前は人買いしそうな金持ちに目ぇつけてこい」
 あれ?と貴之は思った。ここまで誰かのために必死になる辰巳を見たことがあったろうか。彼はまったく口にはしなかったが、あの女のことを気にしているのは明白だ。というより、貴之は生まれ持った恋愛ごととエロスパワーについては素早く目に見えぬアンテナがビンビンに反応するのだった。途端にエロ目になって貴之はニヤついた。
「どうりでなぁ……うんうん」
 早くいけと殴られたが、貴之は友人の初恋が楽しくて仕方なかった。そして殴られても、走りながらでもニヤついていてキモかった。
 辰巳は貴之の置いていった荷物を漁る。ここにプライベートというものは存在しない。家すらないのに個人情報も糞もない。そんなことを考えられるのは掘っ立て小屋でない家に住める上流家系の出のものだけだ。貴之はまだすべてを売りさばいてはいなかったらしく、ズタ袋の中にはまだ宝石が残っていた。保存がきく食べ物に全部変えてくればいいのにとぼやきながら、いつもの子供たちと飯にありつく。思い出してみれば丸一日食事などとっていなかった。味のない麦が彼らのご馳走なのだ。
 あとは貴之が調べてくるまで、辰巳は武器を調達していればよいと思った。手っ取り早いのは武器商人を襲って奪うのが早い。鉄砲は一つだけあるが、銃弾はどの程度あるのか分からなかった。刃物も揃えておくべきだと思ったので、食べ終わったらすぐに出発した。手元にある刃物と呼べるものは、石で研いではいるものの古くてくたびれきった果物ナイフだけだ。勇者のような長い剣がほしいとすら願ったほどである。



***



 その日の夜ではまだ貴之は「聞き込み中だ」といって多くを語ろうとはしなかった。だがやたらに女について話してきたので、慣れたものだといっても辰巳としてウザくて仕方なかった。こういうところを含めてこの幼馴染はもてないのだろうと思うばかりである。ちなみに、それを貴之自身はまったく気づいていないため痛々しいとすら映るのだ。
 辰巳は貴之が戻る前に武器屋に忍び込んで、という表現ではまったくの嘘になってしまう。あまり聞こえは良くないが、武器屋に奇襲をかけた。腕には自信があるからまぁ許せ、と思ったとか思わなかったとか。そんなことはどうでもいいが、がつんとやられた武器屋は倒れたまま数時間。気づけば片手で数えられる程度の刀と銃弾とナイフがなくなっていたという。しかし犯人が辰巳であることは突き詰められなかったのであった。つまりは無罪放免というわけである。強引な完全犯罪がまかり通った瞬間だ。もちろん、現在では監視カメラもあるわけなので通用ない。念のため。
 その日の夜、辰巳は奪ってきたナイフを石で磨いて、より鋭く尖らせることに躍起になった。夜の闇の中でも刃物は、わずかな月明かりでキラリとまばゆく輝く。この美しさが人の命を奪うことなど辰巳は考えもしていなかった。ただありのままの自分であっただけである。



 結局、貴之がネタを持ってきたのは数日経ってからのことだった。間違いなくあの女だといった。だが連れていた子供の姿についてはまったく情報がないため、バラバラにされもしかしたら小さすぎて使えない子供は死んでいるかもしれないとまでいう。堪らず、反射的に辰巳は胸倉を掴んで凄んだのだったが、どうしてか貴之は勝ち誇ったように笑った。意味が分からないがおもしろくない気分である。
「いいだろ。ダチの恋路を邪魔するほど俺はヤボじゃないんだぜ」
 二枚目気取ってそんなことをいう貴之を一撃殴ってから、聞いた屋敷の場所へと走った。それは夜もどっぷりと浸かった時のこと。もはや辺りは暗闇に包まれており、薄汚れた辰巳が風景に隠れるには絶好の時だといえよう。身を隠すことを意識しなくても、今の辰巳は風のように移動できた。街にいる誰かに見咎められることなく移動できる時間帯だった。それは仲間内からも恐れられ『悪魔の眼』などと貴之が主に言っているその夜行性ではないかと思われる夜目の利きこそが由来である。
 金持ちどもが眠る夜に辰巳少年は悪魔となって走る。悪魔ならば羽があれば良いのにとも思うが、世の中そう簡単にはできていないらしかった。それに嘆くより先に辰巳は、あの黒髪の女が売られたらしい屋敷の前に佇んでいた。辰巳の装備は軽い物に留められていた。そこまで重い物を持って暴れる自信はなかったからである。自分の能力を知らずに動くことほどまぬけはことはない。この世はすべて辰巳なりの嗅覚、否、本能で渡り歩いてきたのだ。それに逆らえば命を投げ出すであろうことは分かっている。命を落とすことは実感としては勿論、分かれないのではあったが。
 辰巳は裏口から入り込んだ。というか、表は当たり前のように鍵がかかっていたし力ずくでどうにかなるようなものでもなかったからだ。残飯を捨てるらしい裏口から入り込む。そこに鍵はかかっていない、というよりそこに鍵をかける習慣は彼らにはなかったのである。弱みにつけ込むように辰巳は生ごみなど、気にすることなく己の身でどかしながら屋敷に入り込んだ。臭いも汚れもまったく気にならない。そもそもかける鍵がないような暮らしで、食い物にありつけなければゴミを食らっていたのだから、これらは宝の山だとも思える、それほどに屋敷の主と辰巳たちはかけ離れているのだ。
 入り込んでしまえば足音を隠すつもりもなかった。ズカズカと上がり込んで出会った見知らぬ召使いらしい人が大声をあげる前に胸倉を掴んで、咄嗟に地面に減り込むほどのパンチを見舞ったら確かにそいつは減り込んだ。辰巳は自分の拳を見つめながら、思った以上に効き目のある威力に驚いてもいた。もしかしたら武器は必要ないのかもしれなかった。だが保険という意味では確かに必要だったので、懐にしまったままの二本のナイフを撫でた。保険とは、安心するということだと聞いた。言葉の使い方は分からないが、確かに今、辰巳は“保険していた”。
 次に移動した部屋は誰もいなかった。明かりがあるのに誰もいないというのはどういうことだろう。辰巳にとってそれはあり得なかった。別の部屋に移るまでに別な怒りも溜まっていきそうである。手は懐の果物ナイフを握って身構えてはいるものの、次の部屋も明かりだけが灯っているだけという肩透かし。だが気は抜けないのだった。金持ちの包囲網はもしかしたら、辰巳を生きて返さないほどに強固なものなのかもしれないからだ。
 次の部屋に向かうと、開けた扉の先に肥えたおっさんとあの髪の長い女の姿があった。女は涙を流していた。どちらも裸、しかも全裸でおっさんは女の上にのしかかるみたいにしていた。辰巳はまぬけな表情であることなどお構いなしに、半開きのままの口からただ短く「あぁ」と発した。それは言葉ですらない。感情のうねりすら感じられないほどのぽっと出の声である。あまりにショックなことがあると頭の中が真っ白になるというが、それがきっと今なんだろう。辰巳は裸の男女がもつれ合っているみたいな光景を見て、それがなんであるかを理解する前に懐に忍ばせていた手を刃物ごと抜いて切りかかっていた。まるでアクションゲームですよと笑い飛ばせるほどに鮮やかな動きで、それはデブジジイの喉元をかっ切っていた。
 デブジイは女から体を離しながら高い声で吼えた。何か言っていたが血飛沫が邪魔をして、言葉どころか表情すら分からなかった。そのままその場にぐだっと邪魔な体を横たえて動かなくなった。辰巳の体はデブジイの血で赤黒くなっていたのが忌々しいと思ったが、ここは川じゃないから洗い流せないなどと思った。そんな辰巳の目の前に長い黒髪の女がいた。近くに子供姿は見当たらない。
「よぉ、子供はどうした」
「……あ、……あなた、は…?」
 問いの意味がまだ理解できないらしかった。血でべとつく手では彼女に触れるのは躊躇われた。だからせめて優しく微笑んでやろうと思い、辰巳は笑いかけた。のだったがやはり冷たい悪魔のような笑みにしかならなかったようで女はガチガチと固まっている。いたしたかない、辰巳は血に濡れた手のままであることを申し訳なく思いながらも彼女の頭をさらりと撫でた。分かりやすく慣れないセリフすらいってやる。もう二度といってやらない、そんなつもりで。
「助けにきた。黙って助けられてろ」
「でも……………」
 裸のまま彼女は己の体を抱くこともなく泣いた。呪っているのだと思った。あんなデブジイにどうすることもできない自分自身の弱さに。だがそれはこの場で克服することなどできないことも分かっていた。流し終えたと思っていた涙が再び彼女の頬に流れ出た。
「じゃあ、…助けられたくねぇってのかよ」
 辰巳がいった。それに女は辛い表情で頷いた。そんな思いでいる誰かを見たのは初めてだった。ただ女は打ちひしがれていたのだった。こんな汚れた体などいらないとでもいいたげに泣いていた。その姿があまりに悲痛で、けれど、どうしてやれそうにもなくて。
「もっかい聞く。子供は?」
「分からない。私と別に売られたの」
「…そうか」
「ごめんね、光太」
 生きているかすら確かではない。きっと彼女はあの子供を生き甲斐にしていたんだろう。彼女は付け加えた。あの子は私の弟なんだから、と。どうやら子供ではなかったようである。だからといって辰巳には関係ない。それでも彼女が呟いた弟の名前を忘れることなどできそうになかった。
「弟に、会いたいとかは?」
「うん。………天国で」
 彼女は知っていたらしい。弟はもう、この世にいないということを。天国という言葉が嫌いな辰巳だったが、彼女がせめて天国に行くために手伝ってやりたいと思った。何の根拠もないが、苦しむよりも一息に逝く方が天国に近い気がして、隠した鉄砲を彼女に向けた。これなら苦しむ暇もなく息の根を止めることができるだろう。
「生まれ変わったら、お前も俺も、しあわせなろーな」
「…うん。あと、私お前じゃないから。葵っていう名前あるから」
「そか、…葵。お疲れ。」
 銃声は葵の声の直後だった。夜中の銃声は高らかで、ただごとではなかった。その上、ここの所よくある放火事件が再びあった。これで同一犯だと街中から決めつけられた。この時は間違いない読みではあったのだが。



 その日、大きな屋敷という屋敷に火がつけられた。朝を迎えた貴之は言葉を失っていた。だが辰巳は何ということのない顔をしている。起き上がって飯を食ってしばらくしてからようやく聞いた。「お前だろう」と。辰巳はあくびをして段ボールベッドに寝てしまった。これからがどうなるかなどと関係ないと思っていた。これ以上の不幸がないだろうとも。人にとっては死ぬほどの不幸があることなど、まだ辰巳には理解したことがなかった。ただ辰巳は葵の顔を、眠ることで忘れたかった。あまりにも、悲しいから。


2012.06.25

押忍!連休だったので書いていた文章です。

パロディとして書き始めて、何だかダラダラと長くなってしまいました。

実は、さらに暗い続きがあったりします。休みのうちに書けそうにないのでアップします。これはこれで終わり、でもいいと思います。

2012/06/25 23:09:42