タイムリミット


 春だからといってぼやぼやなどしていられない。石矢魔出のバカと侮られるのはあまりに我慢できない。だからそれをこのほぼ残り一年にぶつけようと思った。今までのようにあれやこれやと理由をつけてふらふらとしていられないのだ。大学に行けるような頭なんてないだろうと分かっていたけど、やっぱり理想は高く持つべきだと祖父からも唱えるように言われ続けていたから、それを信じて目指してみようと思った。学ばせてくれるなら学ぶべきだろうと思っていたので。

 図書室。こんな所に用事はなかったけれど、はだしのゲンが全巻置いてあると聞いたので歩み寄ってみた。だがその姿は金髪でピアスだらけの顔をした男だった。図書室で勉学に励む邦枝葵の長い髪を垂らしつつ机の上の紙を見つめる姿があった。隣には数冊の本が積んである。もしかしたらはだしのゲンも含まれているのかもしれない。それを確かめようと、とりあえず近寄った。隠れる気など最初からないものだから、狙わずとも葵の頭上にはわざとらしいほどの暗雲が立ち込めたかのような影が降り注ぐことになるわけで。明暗に気づかない者など当然おらず、
「なっ…、なによ?!」
 大袈裟なくらいの女の声だった。邦枝葵はレディースの元ヘッドで、図書室には程遠い人物だと思っていたから、だから自分の邪魔をされたくないと思った。それだけのために覗き込んで騒ぎ立てられるなんて迷惑だと思う。汚れものを見るように葵は目の前の彼を見た。
「神崎…、何しにきたのよ。アンタ」
 ヒュウ、と冷たい風が吹く。そのせいで葵の長い髪は静かに靡き、神崎の短い髪はそよいだ。葵の発した声はいつもよりはいくらか低く、それでも怒りのような何らかの負の感情をたたえた響きを持っていた。それは誰の耳にも明らかなはずだったけれど、神崎はそれにはまるで気づいていないような、まるっきり、先と変わらない態度で返す。葵がどれだけ凄んで見せたとしても何の意味もないと言わんばかりに。
「本、読みに」
 そういって神崎は本棚に向かったので、再び葵は勉学に戻ることが出来た。だが神崎はといえば、葵は簡単に避けたものの本探しを攻略するのにあちらこちらをうろつきまくって探しまくった。つもりだったのに、どうにもこうにも本を探すという行動に不慣れなためまったく見つからず、諦めて少し休んでから帰るかなどと考え椅子に腰掛けようと本棚から背を向けた時、ふと見下ろしたちょうど葵からも見える位置に本はあった。あ、これだと思うだけで声にせず目当ての『はだしのゲン 第一巻』を手にして椅子に座った。斜め向かいに葵がいる。斜め向かいに神崎がいる。向かい側に自分以外の誰かがいる。それはこの図書室では始めてのことで、葵は落ち着かなかった。だが、ちらと見た神崎は本に没頭しているらしかった。気にする自分がバカみたいだと思いながら、数年間遅れてしまった勉強に集中することにした。図書室の中には神崎と葵がぺらとページをめくる音と、カリカリと参考書を見ながらに勉学に励む葵がシャープペンシルを走らせる音とが時折響くだけだ。
 寒くなってきた昨今の陽が沈むのが早く、電気を点けずにいた室内は薄暗く小さい文字はぼやけてきて、時間が経ったものかと神崎は自分の腕時計を見た。夕暮れか近づいている。まだ神崎の手元にある本は半分ほどの頁を残して読まれていない。瞬きを繰り返すと頭がグラリとした。読み慣れない本に長時間向かったせいだろうと彼は思う。しおりの代わりに適当な紙切れを挟んで本を棚に戻す。石矢魔高校では図書室の本の貸し出しは行われていなかった。そもそも借りに来る者は少なく、借りに来ても返す者が少なかったがために室内で読むこと、と定義づけられたという黒歴史がある。それに倣って神崎は持ち出すことをしない。だがそれらの行為はすぐ側にいる葵を気遣って、最低限の小さな音だけで勉強の邪魔にならないようにと配慮された静かなものだった。そして、彼は何も言わずにパチンと電気のスイッチを押し図書室を明るくして姿を消した。
 そんなこまやかな気遣いをする男だとはまったく思えなかった。だから葵にとってはとても意外なことだと思えた。



 その日から、毎日ではなかったが神崎が図書室に来るようになった。最初に「よぉ」とだけ声を掛けて他、葵の邪魔になるような行動はしなかった。静かに本を読むその姿はあの東邦神姫の石矢魔統一に一番近い神崎だとはとても思えない。彼なら読みたい本をまるごと持って行って返さなくても誰も文句などいいはしないだろうに、そんな当たり前を神崎はぶち破って毎日、校則のとおりに図書室以外に本を持ち出すこともなくおとなしく読み続けた。
 そうやって寒い日の放課後は一ヶ月ほどの期間を過ぎようとしていた。気付けば冬の足音はもう間近に迫っていた。冬の色は最上級生の卒業を彩る。葵にはまだ関係なかったが。



 冬から春に徐々に近づきつつある日。帰り際に神崎が葵に聞いてきた。
「お前、何してんのいつも」
 今聞くのかよ。と思わず殴りつけたくもなったが、それだけ神崎が集中してマンガを読み続けていたということに他ならない。気づけば神崎ははだしのゲンから始まって、歴史の人物マンガ日本編を経て世界編を読破。そして今現在は手塚治虫に出会ってブッダを読んでいる。時間の問題で火の鳥に移行することだろうことは目に見えている。
「受験勉強よ」
 じゅけん、そんな言葉を聞くシーズンではあったが石矢魔高校としてはほとんど無関係だった。それだけに神崎は驚いた。なにより、
「大学行くの邦枝?!ムリだろ、だって……この前23点取ってたろ」
 ひどい点数も筒抜けだったからだ。うるさいわね、と葵が軽く神崎の頬をはたく。だからと言って別に短気を見せるわけではない。前に見た印象とだいぶ違う人物像だと今更ながらに気づく。それに、葵のテストの汚点ともいえる点数覚えてるなど。さいあくとしかいいようがない。
「石矢魔だから、ってバカにされたくないの」
「…バカじゃねーか」
「勉強、遅れてるの知ってる。だから二年のうちからやっとくんじゃない」
 言われてみればそうだが、そもそも遅すぎるとさえ感じる。だがあえてそれを神崎は口にしなかった。必死に参考書にかじりつく邦枝の邪魔をすることもないだろう。そんな邦枝の側でブッダの続きを読み始めるのだった。
 良書に会えば時間はあっという間だった。本が読みづらいと感じれば日暮れに気付ける。近くからも物音が届いて帰宅を言葉なしに告げられる。参考書、ノートを閉じる音に少しだけ遅れて邦枝が立ち上がる。勉強というのは頭を使うことだけに疲れるのだろう。彼女の帰り際の表情はいつも疲れた色が濃く出ている。そんな邦枝の後を追うように、神崎も立ち上がりいつかのように電気のスイッチを消した。暗い。後ろには戻れない。
「一緒に帰ろーぜ」
 そう神崎が声を掛けただけでガタガタとカバンを落とすほどに動揺した。その揺らぐ様を見て呆れたようにため息をつきながらもカバンからバラバラと落としてしまった荷物を一緒に拾ってやる。仕方なしに、だがわざとらしいほどに神崎の方を見ないようにして邦枝は不器用に「ありがと」と短く例を述べた。神崎自身も器用な性質ではないが、邦枝葵はそれに輪をかけたようにひどく不器用なのだと感じてしまう。
「別に何も言ってねぇだろ」
「……狙いは、何?」
 狙いって、と呟くとなんだか神崎は虚しくなった。別に帰りが一緒になったのだから帰ろうと言った所でそんなに警戒することもないだろうに、と。男鹿以外の男には別の意味で揺らぐのかと頭の中で笑った。
「方向、違うじゃない」
「っあー、めんどくせ。途中までは一緒だろが。一緒に帰りてぇって言って何が悪ィんだよ」
「……っ!」
 邦枝が真っ赤に頬を染めて身を固くしている。また少女漫画脳が彼女の脳内を駆け巡り、神崎に疑惑の目を向けているらしかった。まともに相手しようとするとひどく面倒臭い女である。
「バカ、勘違いしてんな。聞きてぇことがあんだよ」
「か、かか勘違いなんてしてないわよ!」
「マジめんどくせーなぁ」
 ため息をつきながら邦枝の方を見やると居心地悪そうに歩いている彼女が、それでも神崎を気にしながら歩いているようだった。神崎に言われなくとも邦枝自身も分かってはいた。最近、特に男鹿と知り合ってからというものの異性を無駄に意識してしまう自分を。まるでやらしい考えでもあるように思えて嫌でならないのだが、そうなってしまった以上彼女もまたどうすることもできないのだった。意識するなするなと思えば思うほどに思考は固まるのだ。
「で、だ。何でお前進学してぇの?」
 神崎の問い掛けは唐突だった。それを聞きたかったらしい。ここまで引っ張っておいてソレかよ、という安堵と落胆が同時に邦枝を襲う。だがそれがよかった。極度の緊張から脱力できた。
「おじちゃんの後を継ぐの。武道の師範代っていう立場をね。でもそんな立場なのに石矢魔卒ではやっぱり、まずいと思うのよ」
「まぁ、石矢魔じゃあハクがでねぇなぁ。バカっつーイメージだしよ」
 テスト用紙に名前さえ間違えずに書けば合格するといわれるほどの学校なのだ。そして授業は教師によってほとんど行われていないといって差し支えないだろう。よくいえばヤンチャ者の集まりなのだ。だがそこで石矢魔統一に近い邦枝は進学を志す。そもそも石矢魔高校に来たことが間違いだろうとしか言いようがないのだが、来てしまったものは仕方がない。
「大学……いきてぇの?」
 自信なさそうに邦枝は頷いた。だが勉強らしい勉強は自己流だから間違っているのかもしれなかった。すべてにおいて勉強の自信は持てなかった。神崎にはやっぱり理解できなかった。別に高校だってやめても構わないのである。ただ卒業くらいしろといわれて来ているだけのもので、それ以上でもそれ以下でもない。どうせ神崎の未来は決まっているのだ。
 あ、と声を上げそうになる。
 邦枝も同じだ。神崎と同じようにレールの上を歩いている。ただ違うのは、レールに対する向き合い方だ。対照的としかいいようがない。神崎は向き合わずに横目でみるぐらいにして、邦枝は真っ正面から向き合って、闘おうとさえしている。対照的なのに同じような道を歩むだなんてなんだかおかしかった。決められたレールを、どうせ歩くのなら前向きに歩く方がきっと気持ちはラクだろう。だが、神崎にはそれができない。せめてもの抵抗みたいに、邦枝にいった。
「別に大学じゃなくて、専門でもいいんじゃねぇの。資格とか、欲しいの獲りゃいい。師範代なんざよぉ、邦枝んとこのじーさんが認めりゃいい話なんだからよぉ、別に学校いくこともねえだろがよ」
 進学することがまるで正しいみたいに頑なになっている邦枝に、たまには脇道に逸れても良いのだと教えてやる。すぐに受け入れることなどできないと分かっているが、そんなことは関係ない。レールを踏み外す勇気も、度胸もなく歩き続けるだけの自分たちに言い聞かせるように。
「じゃ、俺こっち」
 共にいる時間が長ければ分かち合えるのかもしれない。また明日も邦枝は図書室で勉強しているだろうし、神崎はマンガ本を読みにいくだろう。一人じゃないと思うことはとても心が安らぐことだと、二人とも口に出すことはなかったけれど、どこかで感じていた。
 さよならのない別れは気楽なものだ。


12.05.28

受験勉強する葵と、卒業の近い神崎の意外な共通点
や、尻切れなんですがね(笑)途中でなにを書きたかったか忘れたんです。こういう話ではなかったと思う。

でも、そうなってしまったのはやっぱり神崎と葵という組み合わせのせいかもしれない。
ピタッとしないもんねえ、この二人。そして、べったりさせたいとかまったくおもってないおいちゃん。


静かに邦枝を思う感じの話にしたかったんだと思うけど、葵ちゃん受企画で書いたK-sideで十分に書けてると思うので、あえてこの二人をくっつけたいとは思わない。
神崎はレッドテイルの他のメンバーとの方がお似合いですよ。

title:「眠り姫は目覚めません。王子など存在しないのですから」その物語に名が付く事はありませんでした。


受験生葵と、はだしのゲンを読む神崎と - タイムリミット

2012/05/29 09:12:47