深海にて


潜る。
深く潜る。
深くふかく。
深みに嵌ってゆく。
この深海なら溺れてしまいたい。



「昨日の、貴様らが乳繰り合っておったのは窓から丸見えだったぞ」
「ち、っ………?!」
 ヒルダが淡々とそういうものだから、また悪ノリしてしまったのだとそこで初めて男鹿は気づく。バレたらまた怒って彼女は数日間、口を利いてくれなくなるだろう。絶対にいうなよ、とヒルダには口止めをしておくが、あまりアテにはならない。韓流ドラマのDVDでもレンタルしてきて機嫌をとってやろう、と外に出るのだった。
 春のそよ風が、気づけば夏の生ぬるい風に変わってきていた。男鹿の伸びた髪を緩やかに撫ぜる。だがあまり気持ちよくはない。だが背中のベル坊は気持ち良さそうに眠っている。万年ちんこ丸出しなだけに季節感のない赤ん坊である。
 男鹿の家から約徒歩二十分程の場所にレンタルビデオショップは存在している。数年前からよくお世話になっている小さなショップだが、ここの所新しく建ったTSUTAYAに負け気味なので、いつしか潰れてしまうかもしれないと腐れ縁で繋がったままの古市と男鹿はたびたび話していた。そのショップに足を運ぶと、目星をつけていたお涙頂戴の安っぽい国内生産ドラマと、最近のヒルダのお気に入りの韓流ものの話題作を数本借りては外に出る。店内は薄暗いが、空気はエアコンのおかげでスッキリしていたのに、外に出た途端にぬめったような空気が頬を、首を、腕を、太腿を抜けていくのがひどく不快だった。せめてカラッと晴れてくれ。そんなことを思っていると、ふわりと見知った背中が男鹿に気づかず通り過ぎようとする。
 昨日も会った。今日は土曜で、明日は日曜なのだから会おうといわなければ会うことはないだろう。だが、見つけてしまった。長く黒い髪がサラリと逃げてゆくみたいだ。思わず大きな声で呼んだ。呼べば必ず彼女は振り向くのをいわれなくとも知っている。
「邦枝っ」
 まさかこんなところで、といったふうに驚いた顔をして邦枝が振り向く。男鹿の顔を見て、嬉しそうに、しかし恥ずかしそうにやわらかく微笑む。家だってそう遠くないのに会わないだなんて誰が決めたのか。勝手な思い込みが生んだ偶然という名だろうか。ただばったり会ったことが嬉しいし、驚いたと邦枝は笑う。
「なにしてたの?」
「ビデオ借りに」
 片手に手提げ袋を、背中にベル坊を。こうしていればきっと二人は若夫婦に見られるのだろう。もう片手は邦枝の手を握ったので、男鹿の両手と背中はもう埋まってしまった。そっちこそ、という男鹿に邦枝は祖父の使いで遠出した帰りだったのだと説明した。聞いたくせに男鹿はふーん、としかいわない。二人とも帰る方向は途中まで一緒なので、そのまま歩いていた。背中に揺られながらベル坊が起き出したので、邦枝が抱くと嬉しそうにはしゃいでいる。男鹿が思うに、やはりベル坊はヒルダよりも邦枝に懐いているのではないかと感じる。それはやはり、男鹿が邦枝を選んだからなのだろうか。ベル坊の親は男鹿なのだし。血はつながっていないのだが、とても似ていると周りには口裏合わせたようにいわれてしまうのだから、似ていることは認めるしかない。
 と、ベル坊が邦枝にちゅーした。生意気なガキだ、と呆れて呟く。それともこの子どもも見ていたのだろうか。さすがにそれはまずいな、と思いながら邦枝の腕からベル坊を奪い取る。何よりヒルダも口うるさくいっているのだ。
「貴様らが発情期に入るのはどうでもよいが、坊ちゃまの前で乳繰り合う姿など晒すでないぞ。ドカスが」
 あのくそ女、言い方を考えて口開けって言うんだよ…。とさすがの男鹿も思うものの、ヒルダがいうのももっともだと思い口を閉ざして俯いただけだった。でもまぁ、ちゅーぐらいはいいよな、と自分に優しく考えることにしてベル坊を抱きながら手をつなぐ邦枝の前にさっと屈んで唇の脇にキスをした。そんなことくらいほとんど毎日しているのにも関わらず、邦枝という女はいつも反応が面白い。真っ赤になって唇の感触を確かめるみたいに触って、チラチラとすぐ傍の男鹿を盗み見るみたいに何度も見るのだ。そしてようやくはぁ、と息を吐いてモジモジする。歩きながらもモジモジしている。
「いー加減慣れろよお前よ」
「だって……恥ずかしいじゃない。それにこんな、トコで」
 不思議なものだった。つい数分前まではこんなに生ぬるい空気など捨ててしまいたかったというのに、隣に求めたその人がいるだけで澄んだ空気の中に身を浸しているような気分に変わっている。
 ベル坊はまた邦枝に抱かれたいとねだっている。両手を伸ばして邦枝を求めている。だから男鹿はベル坊を渡す格好をしながら、両手で邦枝を抱きしめた。これぐらいなら別に誰かに見られても構いはしない。そう思っているのに邦枝は真っ赤になって離してほしいという。
「離して」
「嘘つきだな、離してほしくねーくせに」
「何で、今なの。意味わかんない」
「ベル坊にあやかっただけ」
 ぎゅ、と抱く力を強めて不機嫌なフリして顰められた眉間に小さくキスをした。それだけで体の力が抜けたようで凭れかかってくる。そのままゆっくりと体を離してまた帰り道をわざと、ダラダラと歩く。本当は二人とも家になんて帰りたくないのだ。家についてしまわないように、ずっと帰り道が続けばいいのにと思っているのだ。
「あと、お前と一緒にいんの、気持ちいいしよ」
 だから、本当はもっとくっついていたんだ。だからこそ、場所もすっ飛ばして男鹿は少しでも邦枝に触れてくる。だが、意外にも二人の関係はまだ下着姿で抱き合う程度に留まっていた。そんなことをいっても周りの誰もが信じないだろうけれど。
 女の体は海みたいに深くて気持ちよいものだと本かなにかでよく使われる比喩だ。ただ肌が触れ合うように抱き合うだけで声が洩れるくらいに気持ちよいのに、本当に体を重ねたらどうなってしまうのだろうか。ある意味とても恐ろしい。だが溺れてみたいという欲望もある。
「家まで送る」
 少しでも長く、離れたくない。
 ベル坊は喜びにアーダ、と高く声を上げた。木陰に入ると太陽に焼かれて滲んだ汗が風化されるみたいで気持ちよかった。相手とくっいたまま離れない手も、ベル坊に負けじと喜んでいる。


12.05.20

やっと、書いた男鹿×葵です。いちゃラブです。
エロではない!
というか最初はセックスライフだったんですが、悪魔的な展開を脳内構築してなんとか抑えました。なんだよーという方、考えてんだよー、どエス男鹿をよー。

てーかこの男鹿、若干キモくないですか?優しすぎるというか平和すぎるというか。書いててちょ、おま、キモくね?みたいな感じでした。
あと、なんでお前ら付き合ってんの?みたいな感じもあるので、付き合うことになった経緯くらいは書いておきたいです。

つづく……のか?
???

タイトル、if07
2012/05/20 13:23:44