大切に抱き締めていたもの全て指の間から溢れ落ちていくんですE


 街灯の下にふらつく足取りの男がいたので声を掛けてみた。
「いらっしゃい、オニイサン。おでんいかがっすかぁ〜」
 東条英虎のバイトの一つだ。その傍らには自称・手下その1相沢がいて、陣野の姿は見えない。そして街灯の下の男が見覚えのある、というかむしろクラスメイトだったということにようやく気付く。「おでん、」ともう一度言い掛けて止める。学校にばれたらやばいかな、というような顔をして英虎は相沢を見る。実はそこのヒトの名前が思い出せないので黙っている。それを察した相沢は代わりに尋ねた。
「っていうか……、何してんのこんなトコで、さぁ神崎」
「………お前らの方こそ」神崎の意見ごもっとも。
「負けた、みたいな面しちゃって」
「おでん、食うか?」
 相沢の挑発的な言葉と反する英虎の、この空気を読まぬか読んだか分からない言葉が最後。神崎はポケットに入ったジャラ銭を手渡しておでんの具とツユダクな発泡スチロールの椀に入れてもらって啜っていた。外をうろつくには考えなしの軽装だったので肌寒いと思っていた所に丁度よい。内側から温められる感じが堪らない。仕事帰りのサラリーマンが屋台で一杯やるというのはこのためだろうか、と何となく思う。
「で、誰に負けたの」
「ケンカしてねぇし」
 コンニャクを歯ですり潰すようにしながら噛んで味わう。濃縮された味が一気に口の中に広がって来て、それを作ったであろう東条の顔を見ればどうしてこいつ高校生やってんだろう?と首を傾げたくもなる。ただのケンカ屋かと思えば器用に何でもこなすらしい。それとは逆そうなチャラチャラした相沢という男も謎が多い。だが東条よりもずっと好戦的だということだけは確かだ。
「じゃ女だ」
 図星を突かれて神崎は飲み込もうとしていた汁を吐きだした。実に分かり易い態度に東条も相沢も笑った。そして神崎は頭にキていた。他人の恋路など笑いの種以外何物でもない。東条はあまり学校で見かけないので最近の神崎の周りのクダラナイ噂など知らないだろうが、相沢はきっと知っていて笑っている。なかなかに神経を逆撫でする男だと思った。その思いは糸コンの旨味がだいぶ緩和してくれたので暴力沙汰にならずに済んだ。何よりヤラレタ〜という気分なのである。神崎に暴れる気力はあまりない。急激にキレてしまえばまた別だが。
「例のカノジョでしょ?言ってけば」
 相沢がやさしく言うものだから、その気になりそうになって彼の顔を見る。表情の読めない小さな色メガネで目を覆って常々、飄々としている。ここにどうしているのかすら分からない。英虎の仕事を手伝うわけでもなく、屋台の脇に腰掛けてタバコを吹かしている。そして英虎も彼を咎めるわけでもなく、ただごく普通にすんなりと受け入れている。遊び人風の雰囲気もこの現状にとてもよく溶け込んでいる。
「ヤダ」神崎は短く言った。
 雰囲気に呑まれてその気になって亜由美の話が口から飛び出しそうになっていたのを堪え、否定の言葉を告げた。それには驚いたようにぽかんとして相沢は数秒黙って神崎を見ていたが、次の瞬間には笑って「マァマァ」と不必要になだめてくる。これはなだめではなくて、からかいで間違いない。余計なことは絶対に口にしないと神崎は心に刻んだのだった。
「ふられたんでしょ」「違ぇ」
「好きならコクればいーのに」「黙れ」
 今日はコイツを殴るのを我慢して、明日仲間内にでも相談しようかと思いながら、神崎は猫背のまま帰路に着くのだった。&ハッキリ言って東条の作るおでんは絶品だ。だがあんな場所でやっていては学校の関係者にも見つかるだろうに。どう考えもアホとして思えない。言った所でムダそうなので何も言わないことにしたのだった。


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 フラレたわけじゃない。どちらかと言えば神崎は逃げたのだ。
 アパートの部屋に二日続けて行って、それで何も起こらないと思おうとしていたのは勝手だ。だが昨日ほんとうは後ろから抱き締められて、当たる胸の感触と彼女の震える身体が擦れるだけでドキドキしていたのも事実。あわよくば、それ以上のなにかになれなんて思わないわけもない。一度は憧れた女性が手招きしてくれて、実は中学の時に想像していたみたいにキスまでしてくれたのだ。嬉しくないわけがない。だが、…

「…やばい」
「えぇっ?!神崎君、ヤッちゃったの」
 クラス中の視線と耳ダンボが二人の会話に集中している。というか夏目、声でかい。おおよそ夏目のそれはワザとなのだろうが、それに気付けるほど神崎も周りに目を配る余裕が欠落していた。ただ小さく俯きながら話しているだけだ。ほぼ筒抜けの状態での相談会。どうりでイジられるわけである。しかも隣で糞マジメに城山が、「俺は神崎さんが幸せならどんな相手だって…」と勝手に語っている。しかも誰も聞いていない。
「違ぇってーの。ヤッてねぇ、チューされたって言ったろ」
「チュ――――?! エ―――!?」夏目のこれはシャレっぽいけど違う。
「俺初チュー5歳くらい。城ちゃんは?」
「小4。神崎さんは」
「………中3」
「遅っ!!既にヤンキーだったのに遅っ?!!」
 途中から話題が完璧にすり替わったが、クラスの注目の的であることに変わりはない。しかも話題が明らかに高校生のそれではなくて、小学校高学年もしくは中学生の話題である。ツッコミどころ満載だし、どうやらマジで解答している辺りも驚きなのだが、なかなか神崎組の話題に入っていくのには勇気が要る。

「で、何で姐さんが真っ赤になってるんですか」
 傍で寧々が葵にツッコんだ。勝手に男鹿と自分とのキスシーンを想像して照れている。だがそれを全力で否定している。この少女漫画体質を誰か早く直してくれ、と寧々は溜息を吐いた。その隣で由加がぼぉっと考えごとをしていたが、やがてツカツカと神崎に歩み寄って目の前で止まる。何が始まるのだろうかとクラスメイトの目は釘付けだ。
「あのぅ、先輩ってカノジョさんと付き合ってたんじゃないんっスか?」
「違ぇって何回も言ってんだろ」
「あ、ちなみにウチの初チュウは中1ッス」
 由加はどこまでも由加のペースだった。パー子、といつものように呼ぶヒマもなく由加のマイペースに引きずられる。ついでに言うと聞いてねぇし、とも言えなかったけれど。強引に話題に入れるのはレッドテイルの中でも一部しかいないはずだ。寧々はこちらの様子にも呆れてモノが言えずにいた。そんな寧々の様子など気付いてすらいない。
「神崎先輩、それで何なんっスか!」
 ずばり聞いた。結局はそこなのだ。チュウの一つもしたのなら悩んだ顔をしている必要など無いだろうと。それが相手からだというのだからそれこそめっけもんというか、カモネギ状態だと思うのが人の心、というよりは男心とでも言うべきだろうか。気になっていた相手からのアプローチという意味ではオイシイ想いをしているノロケに聞こえてしまうくらいの話題だったが、当の神崎は浮かない顔で沈んだ様子だったから周りが理解できないでいるのだ。
「俺、そっからスイマセンって逃げて出てきた…」
 へたれ神崎がそう一言ぼそりと呟いた時、何とも言えない空気がクラス中を駆け巡って、そして笑う者と堪える者と逃走する者の3パターンに分かたれた。嫌じゃないのに、フラレたわけでもないのに、それでもスイマセンって逃げて出てきた。そんな神崎の姿をまざまざと思い浮かべた者は同情の意も含めながら笑ってしまうか、それを堪えて何とか耐えていることだろう。だが神崎の空気だけは実に重い。彼女を思う程に、考えてしまうのだ。


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 流されるままに神崎は元教育実習生だった教師候補生の亜由美の部屋へと二日間続けて招き入れられるようにして入った。その部屋の中に入ったのは前回は玄関先でさよならしたので初めてのこと。どこか落ち着かない気分になって神崎は居心地が悪かった。きちんと整理されているというよりは殺風景な印象を受ける部屋だったが、社会人として間もない彼女のことだ。物で溢れているのもおかしいのかもしれないし、何よりあまり他人の部屋、しかも女性の部屋をきょろきょろと見回すのは失礼だと神崎とて心得ていたので、なるべく自分の足元を見るように俯いて彼女が淹れるコーヒーの香りが香ってくるのを鼻だけで感じていた。どうすればよいのか分からなかったのだ。影が神崎の視線を少しだけ暗く翳らせて近くへカップを置く。それでようやく神崎は顔を上げていただきます、とヤンキーな態度はどこへやら、おとなしくおずおずしながらカップに口付けた。薄く熱いコーヒーは大人の苦みを舌に伝えてきた。アメリカンコーヒーだ。
「あ、ごめんね。牛乳ならあるんだけど、ミルク買い置きなくて」
 眉を寄せた神崎にすぐ気が付いて、亜由美は背を向けて冷蔵庫から牛乳を取り出してきてパックごとテーブルに置いた。これぐらい飲める、と強気を言う気力も失せて礼を言って牛乳をかき混ぜながらコーヒーを啜る。お茶みたい、と彼女が笑った。神崎はコーヒーの飲み方など知らない。今日は昨日と違って彼女は笑っている。それだけでとりあえずはほっとできたのでよしとしよう。
「聞かないんだね」
 アゴの下で指を絡めるようにして手を組んでじぃっと見ている目の前の女性と目が合う。昨日泣いていたことを言っているのだ。介抱したのだから神崎には聞く権利があったのかもしれないが、昨日の様子ではとても聞けるような感じではなかったから遠慮したのだ。実の所、気になって仕方なかったけれど、そのまま聞けるような雰囲気かどうかくらい神崎だって考えもする。そして今日はせっかく上機嫌な様子に見えたものだから、昨日の哀しかっただろうと思われる出来事を思い起こさせる必要などないと思った。つまりは神崎なりの思いやりである。
「言いたくねえなら、別にいいだろ」
 聞いたってどうできるものじゃないんだし。心の中で付け加えた。どうこうできるというんなら話は別なのだが。牛乳たっぷりのコーヒーも飲み干して、神崎は顔を上げる。
「センセーよぅ、元気なったみてえでよかったんじゃね」
 亜由美の表情は途端に曇った。何か悪いことでも口にしただろうか。神崎は口ごもる。
「実は昨日、例の塾、クビになって…」
 彼女は教師になりたくて勉強をしている所、運悪くも神崎少年が中3の時にクラスの実習生として現れた。それからもう3年も月日が過ぎている。こうして再開したことにも世の中狭いよなぁと驚くが、それ以上にそんな彼女は教師になれずに塾の講師をやっていたことを知ったばかりだった。そして今、塾を辞めさせられた、と取れる発言を聞いている。理由は分からないが大人の事情というヤツなのだろうと勝手に解釈して、そしてふと気付く。彼女が表情を曇らせた理由。それはセンセイと呼ばれることに対してくやしさとか哀しさとかみじめさを感じるからだろう。そして、彼女の心の傷は癒えていないようだった。
「すんません」
 まっすぐに謝った。彼女はさびしそうな笑みを浮かべ、否定するように首を小さく横に振って「私こそ、昨日はごめんね」と言った。無理して笑っているような表情。胸にこみ上げるものがあった。それを口にするにはなんと言ってよいか神崎には分からなかったが。かけるべき言葉も見つからなくて、ただじっと時間にすれば数秒間という短い時間だったろう、見つめ合っているとふと我に返った途端にどこに視線をやればよいか分からなくなって神崎は慌てた。とりあえず目の前にいる亜由美から目を逸らして、
「よくわかんねーけど、その、気晴らしなら俺でも使えっかもしんねぇよ」
「…気晴らしとか慰め、必要かも」
 神崎はノリで口にした言葉をどう始末しようか考えた。おかしな間が空いてしまったが、きっと彼女はあまり気にしないだろうと勝手に決め込んで勢いよく答える。
「次来た時、バイクで海流すってのどぉ〜よ?」
「いいね。じゃ、今だったら?」
 意外な質問がきた。さらに答えに詰まってちょっとイジワルな質問をしてくるな、と視線を泳がせながら脳みそを使っていると、テーブルの上神崎が使ったコーヒーカップのすぐ横くらいのごく近い場所に華奢な手を置いて、前屈みなって彼女の顔が見える。位置が急に近くなったので驚いて顔を少し逸らしながら後ろに手を付いた。ちょっとだけ視線を下にしたら胸の谷間が見えてしまったのでさらにどうしようかと迷う。それと同時に急激に彼女を抱き締めたいとも思う。だからといってこの場でそうすることなどできるわけもない。この理解不能な状況下でどうしろというのか。
「びっくり、してたの知ってる」
 やわらかな唇が重なった。静かに触れるだけのキスが音もなく離れていく。夢を見ているようだ。だが行為自体が現実味を帯びてきた途端に顔が火照ってどうしようもなくなる。呼ばれて視線を上げざるを得ない。彼女はどうしてこんなに焦がれるみたいな目をして、神崎を見るのだろう。だが神崎の体のいい勘違いかもしれないから聞くに聞けない。勘違いでないのならもう一度キスしてほしいと思う。微笑んだ彼女が神崎を呼ぶ。もう一度、二度目でも何の余裕も生まれなかった。ただぼんやりと痺れるみたいな誘惑を受けて、だがおかしいと思った。急に我に返る。自分の体を支えるためだけに両腕は絨毯について指が白くなるくらい力が入っている。嫌なわけじゃないが、理解ができない。急には立ち上がれず腕と尻を擦って二、三歩下がる。後頭部を軽く壁に打ち付けて慌てながらも、勢いよく立ち上がった。頭をぶつけたのが切り替えになって、逆によかったらしい。
「セン、…亜由美サン。俺、……もう、帰るわ」
 相手の返答は待たなかった。すぐに背を向けて玄関から出た。逃げるみたいに走って、気付いたら夕陽も暮れて暗くなっていた。ひたすらに走って来たので呼吸が苦しい。胸も苦しい。ゼイゼイ言っているのが肉体のせいか感情のせいか分からない。彼女の最後に見た驚いた風な表情が目に焼き付いている。ビビったのか畜生、と思って唇を強く噛んだ。でもその唇にもさっき彼女が触れたのだと思うと、力が入らなくなってしまった。ただ自分がひどく情けない。嫌じゃないのに嫌だった。よく分からないがそんな気分だった。
 そのままぐったりしながら歩いていたら、東条と相沢にばったり出くわしたというわけだ。


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「アナタは宇宙人デスカ」といつの間にか聞いていた姫川。
「据え膳食わぬは何とやら、男じゃないね神崎君」これは夏目。
「うっせー黙れゴミ共。最初ぐれぇ気持ちが入ってねえとヤなんだよ」
「何十年前の高校生か教えて下さい」とどこから沸いたか古市。
「意外っス!貞操観念パネェ」と由加。
「好きな相手がいるからですよね」と城山。
「え」と神崎含め城山以外のみんな、それぞれの声がハモった。きょとんとしている城山がどうしてみんなから視線が集まっているか分からなくて困っている。空気が重かったので「すみません」と意味もなく謝った。その流れで帰ることにした。神崎をからかい隊のみんなで。


12.04.23

最近はガーネットクロウの「愛に似てる」を聞いてます。B面なのに気に入っちゃったよ!

この文はねぇ、さらに続くよ。でも寧々と神崎のヤツよりは短いだろうと思う。こっちはケンカ要素がないんです。学生らしいなんというか、青春モノを書いていきます。
まぁもう高3だしあと1年もないから青春してほしいなぁと。ヤクザだけど。
書きながら合唱曲聞いてました。青春ってこれですか?懐かしい遠い日の歌、旅立ちの日に、大地讃頌。この辺はすごく好き。昔は大地〜は好きじゃなかったんだけど、卒業してからすごく好きになっていました。歳をとったのかなぁ。

2012/04/23 15:27:11