報われたくて恋をしているわけじゃないけど、報われたいと願ってしまうのが恋というものだから


 レッツゴーハジメ。
 これが神崎一の育て始めた馬の名だ。夢はダービーで一着を獲ること。馬主として神崎は動き始めた。まるでその馬を見る目は、やさしく細められて愛おしいと言わんばかりで、親のそれだった。馬主を超えた何かがそこにはあった。
 ちなみに、場所:ゲームセンター。
 最近のゲームというのはほんとうにリアルで感情移入してしまうよね、というアレである。要するにここ最近の神崎はゲーセンターに通って自分の馬を育てることに一心を投じていた。
 ガキのようであって、年齢だけはオトナの仲間入りをしていた。年の始めには成人式を迎えていて、形だけの式をニュースがどうこう言おうと関係なく暴れたり笑ったりしながら済ませて、ブラブラしながら時に高校の時からつるんでいる仲間たちと集まって遊んだりもする。特に離れないのはやっぱり記憶に新しい神崎組と呼ばれたあいつら。
「調べてんねぇ神崎君」
「涼むのにはいいですからね」
 夏目と城山。この二人はなかなか離れないで神崎とともにある。城山が言ったとおり、昨今の夏と変わらず連日30℃を超えるバカみたいに暑い日だった。否、多少はその暑さは和らいでいたけれど、それでも動かないでも汗ばむほどの温度と湿度を保った日。パチ屋に行くには金がなく、どこかに涼みに行くほうがいいだろうと話していたから神崎が当たり前のようにゲーセンと答えただけの常の風景。その前哨戦に神崎一行はコンビニに立ち寄った。もちろん愛馬を育てるための手立てがきっとファミ通などのゲーム雜誌に載っているだろうと思ってのこと。それを何とか神崎当人が頭に叩きつけてからダラダラと三人が連れ立って向かったゲーセンの遥か手前に見えた、とある姿。ああそれで時の運命とやらも変わってしまうなんて、世のなか神なんていないのか。それともいるのか。誰がそれを査定するというのだろう。答えはない。

「む」と低く声をあげたのは一番背の高い城山だった。次の瞬間、神崎も夏目もすぐに気付いた。見覚えのある人が歩いていることに。当然だ、そいつは神崎の近所に住んでいるのだし、この一年半ほど顔を合わせる機会がなかったことが逆におかしなことにも思えてくるほど。その空気を読んでか向かってきて懐かしく声を上げる。
「チョリーッス! 神崎先輩たちじゃないっスかぁー」
 けれどどこか違和感を感じていたのはどうやら三人ともらしい。少しだけ躊躇して、一番気の利く夏目か声をかける。それは相談しないまでもセオリーのようなものである。時に失敗もあるけれど。
「由加ちゃん。久しぶりだね、なんか雰囲気変わったー?」
 前の印象でいくと変わったような気がしていたのは夏目だけではない。少し太った? 神崎はそう感じたし、大人びた? 城山はそう感じていたから夏目の言葉はまるっきり当てはまらないわけではない。逆に、まるっきり当てはまるような言葉でもないのだけれど。
「夏目先輩ってば、やっぱ分かるんッスねー」
 はにかんだ笑顔を浮かべた由加の姿があり、自分の胸から腹にかけてゆっくり撫でて微笑む。その仕草は前に見た高校時代の由加からは程遠いように見えて、神崎は目が離せないでいた。
「臨月、なんスよ」
 腹を撫でる仕草と、りんげつ、という聞き慣れない言葉が合致して、瞬時に神崎は理解した。夏目も城山も言葉だけですぐに理解できていたけれど、その言葉の意外性に声を失ってしまっていた。だがそんな態度はわかっていましたとばかりに由加は気にせず笑う。ダブついた服の理由はマタニティということだったようだ。
「先輩たちが卒業してから間もなく…って感じッスね。この間アタシらデキ婚したんっスよ」
 りんげつ。もう一度神崎は頭の中でその言葉を反芻した。子供が生まれる月、だったか。子供を嫌うような若者ではなくてむしろ子供が好きな子供といえ感じだったから、子供ができるということには嫌悪感なんてない。
「パー子が子供が産んだら、子供が子供産む感じじゃねえかよ」
 それだけはツッコまずにはおれない。
 子供よりもはしゃいで、子供よりもガキみたいな彼女。感情と自分の思うがままに動いて、どうしてか一年ちょい前には神崎に懐いて着いて回っていた彼女。そんな子供のような彼女が子供を今にも産もうとしていること、それこそがまるで夢や妄想のようだと神崎は思った。というか、
「てめ、まだ高3じゃねぇ?」
「辞めたっス。」
 石矢魔高校でなくとも必ず一人や二人はご懐妊とか噂とともに辞めていく生徒がいるだろう。由加も例にもれず仲間入りしたというわけだ。さらに、子供が産まれるのは十月十日という。要は神崎たちが卒業した少しあとぐらいにデキた子供らしいことは容易に想像ができる。
「擦った揉んだ、あったっスよウチらも」
 それはそうだろう。由加は男作るべからずの掟のあるレッドテイルに属していたし、三代目の邦枝と、四代目の大森が何も言わないワケはない。当然怒られたし、掟のことも言われたけど、最終的には堕胎することの恐ろしさと友人の体験談と、人としての道まで説かれたのだという。
 要するに、堕胎は人を一人殺すことになるのだから作った以上、経緯はどうあれ子供は産むべきだし命の大切さや性行為の重さをレディース風にやんややんやとやられた。それは頭の足りない由加にも心に染み入るものだったし、最初の行為は流れとかそういったものだったとしても、あとから生まれゆく愛情があってもよいだろうし。失敗したとしても、やり直しなんて時間が許す限り利くのだからやれることをやってみようと思ったのだ。
「神崎先輩みたいに強くも、カッコヨクもないっスけど、ウチのダンナもそこそこっスし」
 からからと明るく笑った。そんな言葉いらねえよ、神崎は思ったけれど口にしなかった。それは、由加の明るい笑みの中に大人の女を垣間見たような気がしたから、言葉に詰まってしまったのだ。こんなに近いのに遠いような気がした。
 困った表情を読んでか、由加は神崎を軽く手招きして「聞いてくださいよ」と腹を指した。どうすれば?とさらに困った神崎は交互に夏目と城山を見た。複雑に二人は返答もしない。分かっているのだ。急に変わってしまった下級生の相手を持て余しているといった風なのである。だがそのまま無視するわけにもいかず、神崎は誘われるがまま由加の腹に耳を寄せた。だがべたりとくっつくのはいかがなものかという思いもあり、屈んでからいいのか?という意味も込めて由加の顔を見上げた。
 気にすることないっスよ。
 言わんばかりに由加は神崎の短い髪を抱くようにして自分の丸く大きくなった腹を寄せた。周りの音でさえも気になってしまうくらいに神崎の状態はささくれ立っていて、バカみたいに静かにしようと思って自身が息を止めた。腫れたように大きい腹は意外にもやわらかで、そんなこと人間の身体なのだから当たり前のはずなのにそれにすらウッと低く呻いてしまう。何動揺してんだ、そう己を叱咤しながら。
 やがてどんっ、と内側から寄せた耳に当たる衝撃。うあ、と思わず声をあげずにはいられない。反射的に体を離してしまう。由加の腹の中にいきものが入っているのだと実感せざるを得ないこの状況。そして、その由加と目が合う。
 笑っている。由加は神崎を見て笑う。神崎は由加の姿を見ても笑えない。むしろ、何がおかしいのだろうかと問いかけたくなる。何もおかしいことなどないのに。そして、
「やっぱりぃ〜。神崎先輩、ダンナとおんなじっスね。蹴られてビックって」
 そう言ってくしゃりと微笑んだ。その笑顔はひどくやさしい。ダンナと神崎のよく似た所なんて知りたいなどと思ってもいなかったけれど、知ってしまった。だからなんだという、それだけの話。どうしてだろう、神崎は心臓がずきりと痛んだ気がした。由加が幸せそうに笑うことに抵抗なんて、全くないはずなのに。そう感じながら彼女の内に息づく新しい命がそこにあるのだと、初めて解ってしまう。足りない頭で、それでも理解してしまう。由加は神崎を飛び越して、もうオトナの女性になってしまっていた。なぜだかそれが無性におもしろくないと思う。
「んじゃ、そろそろウチも戻るっス」
 小脇に抱えたオクサマらしい買い物エコバッグをちらと見やると軽く手を振る。どうやら食材などが入っているらしい。立派でなくとも、上手くなくとも、彼女は彼女なりに妊婦と主婦業をこなしているのだろう。まだ十代のあどけない笑顔が眩しい。
「お、おう。じゃまた、な」
 もはや神崎たち三人は意外な変化ばかりを見せつけてくるような由加のその姿に呆気にとられるばかりで、ポカンとしただけで時を過ごしてしまった。変わっていないはずの彼女の変化についていけない。きっと、いつかの同級生たちも、由加以外の誰かも、こんな劇的な変化があるのだろう。時の流れはひどく人に衝撃を与える。
「あ、神崎センパーイ! アタシ実は、前、スんゲーカッケぇって。マジ憧れてたし、イイなって思ってたっス。変わってなくて、会えて嬉しかったっス。今度ウチのコとも遊んでくださいね〜」
 少ない語彙の中に散りばめられた感情の流れ。昔話になってる由加の話、言葉。巻き戻せない時間だけがそこにはあった。もしかしたら過去の淡い告白なのかもしれない、と夏目は感じた。神崎は由加の後ろ姿を見送ってから、愛馬を育てようと向かう先とは真逆の、来た方向である家の方にくるりと踵を返した。ゲーセンは? などと夏目も城山も聞かなかった。けれど神崎は間を持て余して勝手に答えた。
「なんか……………萎えた」
 それに、さっきコンビニで立ち読みした雑誌の愛馬の飼育法もすっぱりと頭から飛んでしまっていて、育てに行ってもあまり変化はないだろうし。何よりその変化が今は見たくないのだから。ただ夏目が何も言わずに神崎の肩を抱くように軽く叩いた。その動きは分かっている、と言っているようだ。何も言わなくても分かっているよ、と。
 それには何も反応することなく神崎はただ足早に歩いていく。家に向かってズカズカと近づいて行く。少しでも早く自分の部屋にこもってしまいたい。そんな思いが滲み出てしまっていた。だが夏目も城山も、どちらも口を出そうとしない。近い神崎の家はすぐそばにあって、きっと花澤由加の家もそう遠くない、否、むしろ近い所にあるのだろうけどその家の場所なんて関係ないし、知りたいとも思わない。広い玄関と廊下を越え、階段を上がってし分の部屋に向かう。神崎は二人の顔を見ない。握りしめられた手は小さくカタカタと小刻みに震えていた。顔を背けたままやっと低くいう。問いかけではない。
「アイツ、っおかしいだろ…ガキがガキ産むってよぉ…」
 少し声が濡れていた。後ろから夏目が頭を撫でた。その撫で方はひじょうにやさしい。また無言で伝える。分かってるよ、と。
 想いが交錯する。様々な想いが絡み合って一つを形づくる。
 バカやろお。
 かっこ悪い。
 みじめだ。
 情けねぇ。
 どうして。
 なんで。
 全部ぐちゃぐちゃに混ざり合って、最後に母親の顔をした由加の、前では考えられないほど大人びた微笑みに変わる。
 パー子。神崎がてきとうに名付けたその名は、バカにされてるみたいで嫌だと受け入れなかったが、それでも返事をした。神崎以外の他の誰も使わない名前。ただそれだけのことだと当時は思っていた。神崎があまりに少年すぎて気づくことができなかった。だけど久しい彼女の事実と、新たな衝撃とともに過去はえぐられた。それを嫌というほど痛感した。
 なんでだよ、と神崎は夏目と城山に対しても思う。知っていた、分かっていたという顔をして彼らはただ着いてくる。自分が知らないことをどうしてお前らが、なんで笑わねぇ。みじめでボロ雑巾みたいに打ちひしがれてる男がいるというのに。情けなくとも、もう抑えなど利かなかった。だから一刻も早く自分の部屋に神崎は籠ってしまいたかったのだ。
 大粒の涙が、情けないを通り越して潔いほどに彼の瞳からこぼれ落ち、頬を伝う。ぼろぼろと音を立てそうなほどに。それはわかっていたことだから、と夏目も城山も何も聞こうとしない。ただ夏目が撫でる動きが優しくて、それに縋るのはあんまり(にも情けなくて、ついでにかっこ悪い、いやかっこ悪すぎMAXだろう。こんな姿なんて、目も当てらんないだろうが。このくそばかやろうが)だと思いながらもこれを知った女はきっといつもの軽い夏目を見直すだろう、と思っただけ。あとは涙と共に抑えていた気持ちが溢れ出る。言葉にしてしまえば、言葉はもしかしたら現実になるのかもしれない。そう思えるほどに。
「う、っ…、うぁ」
 言葉にはならなかった。言葉になんてしたくなかったし。ただ、こぼれ落ちたのは嗚咽という名の負け犬の遠吠え。下を向いてせめてかっこつけさせてくれという意思を示す。そんなこと無駄だと分かっていてもしてしまうのは男の性というやつだろうか。答えはない。だって目の前には夏目と城山しかいない。
 夏目がやさしく神崎の短い髪を撫でる。何度も感じた、分かっているよ、その思いは指からも伝う。不思議だ。きっと人は言葉がなくても生きていける。そんなことを思ってしまうほどに夏目の手先はとてもやさしい。
 だが言葉にすらならない。想いは十で足りないくらいにたくさんあるのだけれど、それは言葉にするにはあまりに幼い思いだったのか。それとも、それほどに崇高な想いだったのか。
 そんなこと比べるまでもない。ただ、勇気の違いだ、と半ばヤケになって神崎は笑ってやりたかった。けれど、笑い飛ばすにはすべてが足りない。流れ落ちる涙だけが有り余ってボロボロとこぼれ落ちた。もうこの頃には情けねぇなんて感情もどこかに置き去りにして。ああ意味なんてないことも知っている、それでも前や上を向けない。ぼろぼろと落ちる涙があまりに重力に従順だから。こんなことだけ従順なんてお前はバカだろうと思ったところで、自然の原則に逆らうことはできない。そう思ったら堪えきれなかった言葉が洩れた。彼女の名を呼ぶにはあまりに遠いけれど、それでも神崎は呼んでしまう、願ってしまう、彼女が振り向くことを。
「…ああ、っ、っざけんな…、っゆ、か………」
 いつだって面と呼ぶことができなかったその名前にずしりとした重みを感じる。と同時に微笑む母親の由加の姿。なじむわけなんてないと思っていたのに、神崎の頭の中で母である由加の姿が滲みながらもゆうるりとなじんでゆく。それはきっと、母の顔をした由加の姿を目の当たりにしたからなのだろう。
 それからは言葉にしたとおりの号泣だった。もう声を出してしまえばもはや、抑えなど利くはずもなくワァワァとただ目の前にいたというだけの城山の背中を拠り所にするしかなかった。そこしか縋る場所がなかったからだ。なんでもいいからどこかに縋りつきたくて、できれば自分よりももっと、もぉっとデカイなにかに縋れればいいなと何となく思った程度だったが。
 いつもなら神崎さん、神崎さんと五月蝿い城山だったがその日は誰かに言われたかのように大人しくて服を伸びるほど引っ張りながら背中にひっつかない形で縋っていても何も言わないし、何も神崎に対して聞こうともしない。ただそこに存在しているだけのもの。邪魔じゃないだけに使いやすい。
 何度も呼ぶ。由加、由加。と。それを彼女の前で呼ぶことができたなら、きっと変わっていたろう。由加と呼ばれたかったその人の顔は、パー子と呼ばれるたびに曇っていったから。常に共にいた城山は知っていた。そして由加は憧れと恋の入り混じった瞳で神崎のことを確かに見つめ、時に見つめ返していた。それを伝える言葉など無くともじゅくじゅくと伝う想いは、神崎一という不器用でまっすぐな男には届いていなかったから、こんな現実があるのだろうと冷静に分析した。ごおごおと風がなくよりももっと低く哀しい音を溢して神崎は涙を流すから。想った女を奪われる想いは、体験したことがなくとも男として理解できる。だからこそ、神崎の気持ちが晴れるまで一緒にいて、そして晴れたら一緒に笑うことができたなら。それが過ぎた望みなどと誰が思うか。しあわせになる権利は人権一つにつき一個あるのだと思いながら夏目の代わりに神崎の髪を、何も考えずに撫でた。ちくちくしたけど関係ない。

 夏目は少し前にバイトだから、と言い訳がましくそそくさと消えた。こうなることを分かっていたんだろう。だが夏目をどうこう言うつもりはない。なぜなら彼は部屋から出る前に言ったのだ。
「神崎君が元気出す方法、オレも考えてみる。だから、城ちゃんもよろしくね」
 きっと夏目はいい考えをもたらすだろうと思いながら、神崎の髪を撫でていた。神崎の髪は元はきっとバリバリに硬いのだろうが、繰り返された脱色のせいでひどく痛んで細くやわらかになっている。今のこの心情を髪の毛が表しているようで、あまりに痛ましい。弱くて刺さりもしない弱った髪の毛。
 ベッドの上に二人で腰を下ろして、城山は神崎の傍でただ座っているだけ。そこに縋る神崎はひどく小さく、きっと周りの者が見たら城山の方こそが上に見えるほどに気落ちしていた。そんな神崎を、なんとしてでも支える必要があった。それが、城山の使命だったから。誰に言われたわけでもないけど、神崎を支える最後の柱となれ。
 ただ神崎は城山のシャツを掴んで、伸びそうなほどに掴んで、その広い背中に縋りつくことなく涙する姿はひどく滑稽だ。マイナスな言葉ばかりを吐きながらボロボロと涙を溢しては鼻をすするだなんて、カッコ悪いとしか評しようがない。でもせめてものプライドで見られないように俯いて神崎は涙を流す。パー子、と呼ぶのをいつしかやめて、前から呼びたかったけれど呼べなかった由加の名を呼ぶ。

 神崎は高校のあの時思っていた。時折、耳に届く神崎と由加の噂。それはこれまでの高校生活では聞いたことのない浮ついたものだった。そんな噂なんて気にすることないという仲間の言い分を聞いて、確かにそうだと納得していた。けれど由加はそんな噂を知らないらしかった。家が近いこともあって一緒に帰る回数も当たり前のように増えた。だからなんだというのか、神崎はそのくらいに思っていた。でも、その想いはいつしか周りの色に染められていた。気づかないうちに恋とか呼ばれる色へと。
 それはいつしか確信に変わっていった。由加は好きとは言わなかったけれど、それを体で表して神崎に対して執拗に懐いてきたから。だから神崎はそれを受け止めるつもりで心を固めて、していつしか彼女をかけがえのないたいせつなものと思うようになっていった。だから他の誰にもパー子などと呼ばせなかった。パー子が嫌がっても構わず呼んだ。それでもパー子はついてきた。それで十分だった。彼女は神崎に想いを寄せているのだと解った。
 ただ、そこから一歩が踏み出せなかったのだ。心は互いに伝っていたというのに、神崎と由加は手をつなぐことすらできないうちに離れ離れてしまった。いつしかの噂もきれいさっぱり消えてしまった。向けた心は変わることなく。
 その心模様はいつしか塗り替えられて、交換した連絡先に更新の跡すら残さないままに子種だけを胎内に育てて由加は、彼女にとって去った恋情だけを告げて、同時に神崎に対しても別れを告げたのだ。子供の恋愛じゃ足りない種を抱えているのですよと。一度は向きかけたその心などスッキリ忘れ去って。
 しかし神崎は卒業という後ろ姿を見せながらも胸のどこかで信じていた。由加とまた会う日を。望んでいたし願っていたけれど、自分から動く勇気がなかった。それでも一度つながった想いがそう簡単に解けてしまうことなど予想もせずに、ただ淡い想いだけを胸のどこか奥にくすぶらせていた。いつか自分の所に由加が来ると勝手に、純情に信じ続けて、そして………



 泣き疲れた神崎は城山の伸びたシャツを手にしながらグウグウと寝息を立てていた。涙と鼻水でいっときはグシャグシャになったその顔は、眠っているその時だけはとてもしあわせなイキモノのように見えた。子供のようだ、と城山は言葉にせず思う。男は子供を産むことができない。だからこそ働くのだ。だから仕事とそれ以外のこと、として分けて考えることは苦手だ。そんなに器用な脳みそになんてなっていない。それを象徴するかのように、泣き疲れた神崎は縋るような格好のままで眠ってしまった。ここで布団もかけないで寝たら風邪を引くとか、それ以前に寒いだろうとかそんなことすら脳裏にも浮かばなかったのだろう。やわらかに弱った髪は城山の自由に触り放題だったけれど、そうしようとはしない。そうする必要もなかったから。ただ城山は願うしかない。起きた時に彼がしあわせであることを。夏目はきっと良い気晴らしを持ってきてくれるだろう、ということを。
 眠る神崎の涙を、そのまま指で拭ってしまったら後の処置に困る。そんな律儀すぎる城山をきっと誰もが笑うだろう。それでも構わない。ただ神崎一を支える一本の、あまり、頼りにならないかもしれないけれど、そんな柱となれ。そんな想いを抱く城山には神崎の寝息すら頼る音のように聞こえて、アルイミ心地よい。縋る場面では縋ってくれていいのに、と思っても口に出す機会はない。だからせめて、癒しにはなれなくとも側にいてやりたいと願うのだ。寝て、起きたくらいでは何の気分も晴れないであろうことも知っている。だからこそ城山は側にいる。笑顔が出ないまでも、少しでも苦しさが和らぐのならちょっとやそっと殴られたって蹴られたって、城山は構いはしないと思っているのだ。
 どんなに想っても、時間は彼の記憶を少しずつ、それは分からないほどのゆっくりとした速度だろうけれど確実に、薄れさせてゆく。それは必要なことであり、忘れなければ人間はきっと苦しみや悲しみばかりを思い出して前向きになることはできないだろう。だからいずれ笑って済ませられるその日まで、神崎を支えて行こうとこれまで以上に強く願う。
 城山は座ったまま眠り、やがて夜は明ける。神崎の涙もすべて闇が吸い込んで。


12.04.16

やっと終わりました…!
フラれ神崎の泣きべそネタ。
こういうときこそ友情が光りますね! そしてパー子、お前やっちまったのかよ、とか(笑)神崎はやっぱりこういう話が合うなあと思う。へたれなあまり。
思っていたより描写が増えてセリフが減ってしまいました。もう少し神崎は口を開いてたイメージなんすけど。泣き声をセリフにするのもなんかなぁ、と思ったもので削っちゃいました。ただあんまり泣いてる感がしないのでもっとえぐえぐ言わせればよかったかなあ。女々しさばっかり増すみたいでなんかいやでねぇ(笑)、女々しいというよりは雄々しく吠える感じをイメージしてるんです。男泣きを女々しく書いたらイカンだろうと。
ただまぁ次の恋の糧となれ!という思いを込めて書きました。
どうにも恋人未満な話が多い(笑)。

神崎ってヘタレなもんでね、すごく奥手なんですよ。で、タイミングを逃してフラレてるケースとかが多い。むしろそれで付き合ったりできないというか。人柄はよいのでモテるはずだと思うんですが。顔だけなら古市とか姫川がモテるはずですから。
古いけどとんねるずの「情けねぇ」とか合う神崎って。
どうでもいいけどマジで古い(笑)。とんねるずの歌ってマイナーだから知らない人も多いんじゃないかな。ガラガラヘビとかは有名だけど。



裏設定
パー子は結婚したのでもう花澤じゃないんです。勝手に考えてた。戸川由加。どうだっ!
彼氏はとがわくんで。なんか万吉とか言いたくなる。。。分かるひといねぇだろうなぁ〜戸川万吉。俺の空よりだんぜん古い本宮マンガの主役の名前だよエヘッ☆
そういう名前のエピソードも入れようと思ったけど、神崎がさすがに不憫になった。というか神崎はそういうことを聞きたくないわけだから。夏目が空気も読まずに聞いちゃうんだろうなぁとか勝手に想像しながらやめた。

(どーでもいいけどマジ長くなった!9000文字とかバカか)

お題:クロエ

2012/04/19 15:06:20