Side-K


 その年は冷たい風が吹いていて、ミゾレとかいう名前の雪がはらはらと舞っていて。だが、冷たいとか暖かいとかそんなことは全く関係なく時間は過ぎてゆく。それは卒業というカテゴリに属さない葵にでさえも、まったく何の意味も通さないまま。
 先輩と呼ばれる人たちが卒業していく。
 分かり切った出来事に、卒業ソングと呼ばれる歌が乗ると、途端に涙の別れに変貌してしまうものだけれど、葵にはまったく関係がなかった。別れを惜しむ先輩の存在もいない。何より先立ってもらわなければ困るのだ。この石矢魔高校は彼らのお陰で名を地の底に落とし、まるで不良以外はお断りであるかのように伝ってしまったのは、もちろん彼らのせいだけではなくその上の先輩の先輩の先輩の先輩の先輩の……、どこまで続くかわからない前の先輩のせいなのだろうが。
 体育館からステレオの大音量の仰げば尊しが聞こえた。普通の高校ならば下級生である葵たちも出席しなければならないのだろうが、石矢魔は見る生徒が増えれば増えるほど喧嘩になったり、別れのあまりに泣きながら暴動を起こす生徒などがいるため、三年生と教師たちと保護者たちのみのひっそりとした卒業式が常となっていた。もちろんひっそりとした、という表現は正しくない。卒業式で暴れたり、その場で急にパーティーなどを始める生徒もいるくらいだ。
 今年は静かなもので、別れを惜しむあまりに泣きながら神崎に飛びつく同級生が数十人いたが、すべてその下僕の城山が薙ぎ払った。ばたばたと倒れていく卒業生をよそに神崎組の三人は卒業証書を手にして校舎を後にしようとした。だが神崎は最後にもやっぱり一年校舎の方にヨーグルッチを求めて向かう。彼らしい、と夏目は笑った。
 最後の晩餐などと言いながら遠回りをしてゆっくり校舎をみて回る間に、はたと葵の姿に声をかける。
「よお」
「……神崎、…お疲れ様」
 卒業式を終えた人にかける言葉はそれ以外ないだろうと思っての言葉だった。もう帰ったと思っていた神崎の姿に不思議さを感じながらも、それは葵には関係ないことだ。だから、次の言葉には面食らった。
「邦枝。連絡先は?」
 面食らいすぎて、ツッコむのも忘れてケータイ番号とメルアドを頭の中に浮かべている葵の姿もあり。それ使うのかよ!というツッコミは思っても言えない、人として鬼な感じがするから。葵の躊躇の意味は、神崎と葵は何の関係もないと思っているからだ。神崎としては、何年か後に同窓会でも考えているのかもしれない。けれど、それだったら同級生のつるんでいた仲間たちとやればいいのに。その思いはどうやら顔に出ていたらしく、神崎が面白くなさそうな表情をして声をかける。
「知りてえと思ったから聞いてんだ。んな嫌なら後から変えろ」
 どうやら連絡先シークレットという選択はないらしい。拒否権がない以上教えないわけにもいかず葵は自分の携帯が入ったポケットをチラ見してから観念し、空でも分かるメールアドレスをメモ帳に記し渡した。何より断る理由が見つからない。



 それから彼岸も過ぎた頃、唐突に神崎から電話がかかってきた。
 と分かったのは、当然「もしもし」の一声を発してからのことだったが。低く落ち着いた声はあまり聞き覚えがなくて、最初は戸惑ったがその気やすい話し方には聞き覚えがあったから、恐る恐る口にするしかなかった。
「か、……んざき?」
 先輩とか後輩とかどうでもいい。葵は神崎を呼び捨てであったし、力の差はあまりに歴然としたものだったせいか神崎もまたそれを言わなかったからだ。
「おう。……覚えてたみてえで安心した。今、春休みだろ?週末、時間は?」
「週末?……えっと、特には……」
 会話もまた唐突だったが、神崎は遊園地に行くタダ券があるから光太と一緒に来い、とだけ告げてこちらの返事も聞かないまま勝手に通話を切ってしまった。なにがなんだか分からないままに押し切られた感じ。納得はいかないがきちんと断ってはいない手前、行くしかないだろうと半ばやけっぱちで腹を括った葵は週末を迎える。
 何より、人にとって平等に訪れるものはきっと時間以外にないだろう。


 律儀にやってきた葵の姿に面食らった。帽子にメガネ、ダサく二つに結った髪の毛がいつものサラリと流れる黒髪の美しさを明らかに殺している。だが、と神崎は瞬時に判断する。葵は女であったが高いカリスマを持ち、それによって有名になりすぎ、そして悔しいけれど当の神崎よりも格段に強かった。つまりは有名になりすぎたのだ。身を隠す意味は分からないでもない。
「まじか。遠目に見たら誰かまったくわっかんね〜なぁ」
 神崎はダラダラとポッケに手を突っ込んでガニ股に足を引きずるようにしてゆっくり歩く。手渡されたのはフリーパス券だった。いいの?そう葵が聞く前に神崎は光太の手を取って歩き出していた。葵ではすぐに追い越してしまうような気怠い速度で、だけどそれは子供である光太にはちょうどよいらしかった。なんだかそれが、葵にとってはとても意外なような気がした。

 小さな子供を連れては絶叫マシーンには乗れないものもありますので、と咎められてからメリーゴーランドなどの緩やかに乗った。ミラーハウスなどの空間もつまらなくはないけれど、葵にとっては刺激が少ない。遊園地は子供が来るところなのだからもう少し危険云々も分かるけれど、考慮して欲しいと思ってしまう。光太もあの祖父がいる以上は多少の絶叫マシーンなどではビビリはしないだろうと思うが、何かあってからでは遅いと考えざるを得ない。
 葵がそんなことを思っている傍で、神崎はいつものとおり何食わぬ顔でいるものだから考えは全く読めなかった。よくよく考えてみれば神崎のことをこうやってまじまじと眺めることなど今まで一度たりともなかった。そして接点もなかった。姫川はなんだかんだと理由をつけては突っかかってきたものだったが、対象的に神崎は葵の方をみるときは煙たそうな顔をしていたかもしれない。だから葵は、石矢魔統一を目指すヤクザの息子だから自分は邪魔だと思われているのだと思っていた。だからこそ、どうして今のこの状況なのだろうか? 思ったところで答えなどではしない。本人に聞かなければ。
 だが、葵は聞くタイミングを掴むこともなくそのまま忘れた。忘れたまま当たり前のように光太と神崎と葵の三人でコーヒーカップに乗る。ハンドルを握っているのは神崎だ。ムキになって回転させるようなイメージがあったけれど、神崎は葵に聞いたり、また光太の様子を見たり話したりしながら、決して横暴に回転させたりすることはない。
 意外だった。神崎は空気もなにも読まず城山を蹴落とすような男ではなかったか。だが今目の前にいる神崎は、光太を第一に考えるような優しい兄さんだった。意外であるとしか言いようがない。

 緩い絶叫マシーンを含む色々な乗り物に乗りつつも、やはり時間だけは葵にも光太にも、そしてこの場所を提供してくれた神崎にも、それは平等に訪れてゆっくりゆっくり、だが名残惜しくも日没が近いことを見上げた空は知らせてくれる。葵は光太を連れて夜遅くまで神崎に付き合う気はない。
「ねぇ、そろそろ暗くなってきたし、光太もいるから………次のアトラクションで、最後ね」
 神崎はその言葉にもあまり気にした様子もなく、葵を見下ろしたままただ短く「そーだな」とだけ口にした。単細胞であるはずの神崎の考えは表情に、意外にも出ないらしい。
 乗ってないのは、とやる気のない顔の神崎が選んだのは観覧車だった。最後の乗り物にしてはとてもロマンチックで、だがそれはたまたまなのだろうと思いながら葵は光太を胸に抱きながら感じる。
 もちろん光太も止められることなく乗り込めた高所恐怖症の誰かにはきっと不幸な乗り物であるそれに乗り込む前から、遊び疲れてうとうととしていた光太を起こさないように支えながら向かい合うように腰掛ける。どちらからも相手の顔が、様子が見える。だからなんだといったものだったけれど、それでも口を開かずにはいられない。ゆっくり、ゆっくりと高度を増すこの乗り物は時にひどく退屈だ。
「神崎。今日は、ありがと」
「………ん。…べつに」
 互いに間のある、それもあまりに不自然な間があるやりとり。それを踏まえれば互いに互いを慣れていないことは嫌でもわかってしまう。だから今日ここに光太がいることは救い以外の何物でもない。だからといって、葵は自分の思いを無視することもできなかった。だから問うた。そうしないとスッキリしないから、という手前味噌な理由でなにも考えず。
「でも、何で今日、誘ってくれたの」
 先程から俯いたままの神崎が僅かな身体の動きすら止めて数秒という短い時間を費やす。神崎なりに何かを考えて答えを出そうとしているのか、だが上げた顔ではその感情を窺い知ることはできない。そんな気持ちのないいつものような気怠そうな表情をしていた。そして唐突に、



「邦枝って、ホンットにぶいのな」



 なにがよ。そう思いながら見た神崎の表情は笑っていたけれど目は笑っていない。何かに耐えるように強く色濃く、そして訴えるような瞳がまっすぐに葵の方を見据えていた。意味が分からないから耐えられない。その意味を聞いて、それでもやっぱり耐えられない可能性なんて今の葵には全くなくて、反射のように神崎から目を離してしまう。そして葵の目に映るのは赤く染まりつつある淡い色の空と、その下にある家々の姿。これを見たいがために観覧車に乗る者もいるという。
 耐え難い時間など、広がる美しい風景に忘れ去ってただ心のままに葵は「きれい」と短く、光太を抱えながら呟く。よく見える景色から考えることは誰しもあまり変化はなくて、まず自分の家はこの辺かな、と指をくりくりと動かしながら考えた。そしてすぐに考えはシフトする。自分のことの次に思う相手のこと。男鹿の家は、だったら自分の家からはあのくらい離れていて、近くにあんな目印があった。だからあの辺りにあるはずか、とかそんなどうでもいいことを言葉にせずとも考えてしまう。けれど、
「邦枝。男鹿のこと考えてんだろ」
 ひっ、と喉が鳴るかと思うほどに驚いた。何とかそのようなあからさまな音は出さずに済んだけれど、思っていたことをピシッと言い当てられて腹の立つことと、立たないことがあることを瞬時に知った。そして、今の思考を誰にも読まれたくなんてなかったということ、否、当人である男鹿以外の誰かに見られることが、下着泥棒に遭った気持ちだということを知った。
「分かりやすすぎっし」
 目を合わせようとしない葵に追い打ちの一言を投げかけた。何だかいづらい空気なのにまだまだ高度は上がりそうだ。そして気を紛らわせる光太も今はすやすやと静かな寝息を立てている。
 勝手にこいと言っておいて、こんな嫌な空気を作るなんてなによ、なんなのよコイツ、ほんっと頭クる。と思う勢いで神崎の顔をまっすぐと睨みつける。
 目が合う。
 あ、と思う。神崎は複雑な表情をしている。ただ、何か言いたそうである。だから聞かざるを得ない。
「何だってのよ。ワケわかんないわね」
「……にぶいかんな」
「さっきから何なのよ。言いたいことあんなら、さっさと言いなさいよ」
 神崎は素っ気ない調子で葵から目をゆっくりと離し、わざとらしいほどに大きな溜息を吐く。そんな様子を見て葵は思う。そんな面白くなさそうな態度取るくらいなら呼ばなければいいのに。こっちだってそんな態度取られて嬉しいワケないし、意味も分からないし。ぐるぐると気持ちのそう良いものではない考えが頭を巡る。
「お前が男鹿を見てる時、俺は邦枝見てた」
 いつもそうだった。神崎の方をちらりとも見ようとしない葵の姿を見ていた。男鹿の背中ばかり見つめる葵は、とても健気で儚げな美しさを持っている。それは今こうして対面していても変わらない。だがきっと神崎の背中は情けない男のそれだったのだろうと神崎自身が思った。
 剣を持つと葵の儚さは色をひそめて、途端に危うい程に華麗な強さへと変貌する。刺々しい彼女の様子は、気づいてみれば昨年までのレッドテイルという看板を背負った彼女の姿に他ならない。だがいつしか彼女は儚さを持つ女性になっていた。そう変えたのは男鹿であることは誰の目にも明らかだった。男鹿の強さや雄々しさがきっと葵を変えたのだろう、と。
 気付けば神崎はそんな葵の姿に惹かれていた。クラスの隅を見やるように彼女の一喜一憂を見て、それがすべて男鹿によるものだったことを理解した。聖石矢魔に通い始めたから目に入ってしまったのだ。同じクラスになることなど、別の学年である神崎と葵ではあるはずがなかったというのに。
 男鹿の色に染まっていく葵を見るのは興味深かったけれど、ある意味面白くないものだ。男鹿にできて神崎にできないことがある、しかもそれは物理的というよりはとても抽象的な部分で、精神的な部分なのだ。それをしたいとは願いこそしないが、男鹿だけの特権で葵が変わっていくさまは複雑な心の内を揺さぶった。愛でながら伐採するような、プラスとマイナスがないまぜになっているような感覚。ただ、そんな葵を横目に半年ほどの時間を過ごしてしまったというだけのこと。
「なあ。付き合って、みねぇ?」
 急な提案に葵は目を白黒させる。葵には言いよって来る男は過去にも何人もいたけれど、こんなにまっすぐに真剣に思いをぶつけて来る男はいなかった。だから思わずひるんでしまう。こんな時にどうすればよいのか頭が真っ白になってしまう。ただただ金魚みたいに口をパクパクしながら顔を真っ赤にしている葵の頭に軽く手を載せて、神崎は恥ずかしそうに言う。
「そんでも嫌だってんなら………諦めっし」
 言ったものの、本当は嫌だと思われないように打倒・男鹿の特訓もしている。勝てる気はまったくしないが、それでも負けたくないから努力あるのみだと神崎は思っている。葵が自分より弱い男に気を持てないのも分からないでもない。あれだけの実力を持つ彼女のことだ、理想が高くなってしまっても文句は言えない。好ましくはないけれど。
 葵の、光太を抱く手に自分の手をそっと重ねた。どちらの体温か分からないけれど二人ともバカみたいに緊張していてひどく熱かった。
 教室でなんとはなしに横目で見ていた葵の儚い姿が、現実の葵の姿とダブる。きっと無理に手を伸ばせば消えてしまうのだろう。なんとなく神崎はそう思った。だから声で、声は神崎の意思を伝えるけれど、それは分かり易い音にはならない。歪んだ形で彼女の耳に届く。彼の思いとは裏腹に、低く落ち着いた声色でもって。
「取って食いやしねぇよ」
 日没近い陽の光が神崎の金髪をオレンジに染めて、その色を葵は特別な思いで目に焼き付けていた。きっと、今日のこの風景は忘れない、何となくそう思った。観覧車が緩やかに降りてゆく。触れてしまえばすぐに縮まるその距離で、神崎はそれ以上葵に深く触れようとはしなかった。ただ、緩やかに過ぎ去る静かな時を観覧車の中で、光太の寝息と共に過ごしただけ。



 帰り道。手すら繋ごうともしないひどくシャイな二人は互いに帰路についた。それから数日後のことだ。葵から

  付き合ってみても いいよ

と、ごく短いメールがあったのは。
 男鹿に勝てる気はしない神崎だったが、それでも男鹿よりも少しだけ一歩前進したような気持ちでその場で跳ねて喜んだ。きっとこれから彼女との明るい未来が待っているだろうから。彼女が彼のためにだけ微笑んでくれる笑顔があるだろうから。今はまだ光太を挟んでしか手も繋げないけれど、きっといつか。


恋に恋して、薄くて
淡い想いを音にした
まさかのカップル成立



神崎と!
まずは誰にしようかなぁっていう根本から始まったわけです。
で、一押しはやっぱり姫川でした。彼となら「まさかの!」ってなりえるわけで。だけど姫川が素直に好きだなんていう場面を考えられなかった。
だったら東条だろう、と思ったけど、東条はあまりに男鹿に似すぎてて(笑)意外性に欠けるっていう部分が強い。
って的を絞って行った結果、神崎が残ったわけです。や、他のキャラもいるだろうってツッコミはなしで。他のキャラってキャラ性が弱いというか。いまいちぱっとしないからやっぱり東邦神姫で考えちゃうわけだよ。
でも神崎って簡単に言っても、どうしてもパー子OR寧々っていう印象があまりに強くて書けないだろうって思ってました。
そんな中で書いた話だったりします。すごくまとまりないはずなのに、光太を通じてまとまってる印象があればいいなぁと。ひとめぼれなんかじゃないけど、好きに理由も時間も関係ないんだってことを実証してくれたような気がします。
不思議なもので、レディース(元)ヘッドとヤクザの若頭の話は一番、血のにおいがしませんでした。

あまり関係ないけど、アギエル編と同時進行で(こちらの方が後に書いたんですが)書いてました。だから余計に平和な空気になってたのかもしれないですね。

2012/03/31 19:16:41