2011.09.20 Tue 12:43
早く戻りたい...


 早く戻りたいのに戻れない。
 昨日聞いた早乙女の話はなんだったのだろう。結局女の姿のまま城山と一緒に登校した。ため息が何度も洩れる。城山が宥めるように声を発する。
「神崎さん、もう少し様子を見ましょう」
 それしかないのだろうと神崎は思う。それしかあるわけもないのだ。くやしさに唇を噛むしかない。
 城山を見上げる視線は変わりはしないけれど、それは今まで以上に高くて、城山が屈んでくれないと三つ編みすら遠い蜃気楼のもやのように映る。それが面白くなかったので、とりあえず城山にロ―キックをしておいた。特に城山はいつものようにそれについては文句を垂れることもない。
 すべてが忌々しい。早乙女の元へ急いだ。涼しい顔をしているあの男にも腹が立って仕方がないのに、どうしても体調がよくないので暴れるわけにもいかない。石矢魔はバカばっかりだから1年から3年は全部同じクラスでオッケーというあんまりなクラス割についても今日はガマンしきれるか自信がない。
 職員室に向かったが、早乙女はいないとのことだった。あああああ、全部が神崎の邪魔をしているみたいだ。


2011.09.20 Tue 13:00
早く戻りたい(オガヨメ)


 男鹿がガキを背負って眠そうな顔をしながら登校してきた。その横にいるオガヨメを見てからハッと気付いた。そういえば早乙女があの女のことを言っていた。オガヨメのせいでそうなったかもしれないという話だったように思う。色々ありすぎて頭の中がごちゃごちゃになっているから詳しくは覚えていないが。
 もはや神崎に迷いはなかった。ダッシュで近づいてオガヨメの胸倉をつかんだ。
「何だ貴様は」
「神崎だ!どーしてくれんだ、女になっちまって戻らねぇだろうが」
「私は知らんが?」
「……っ」
 ヒゲエロ教師の言うことを100%信じたわけではない神崎は息をのむ。見たオガヨメの視線は憐みの色が浮かんでいた。挑発か?挑発なのか?と思ったけれど、どうすればいいかそればかりを考え、とりあえず「すまねぇな」と一言謝ってから手を離した。男鹿も神崎の方を見ている。
「あのヒゲの早乙女におめぇのせいじゃねぇかって話されたんだ。ヨーグルッチのつもりで別の飲み物を飲んだせいじゃねえかって」
「ふむ……。覚えはないが、もしかしたら魔界の飲み物を飲んだ可能性はあるな。今日帰ったら調べておく」
「頼むぜ!オガヨメ!!」
「あとな、私は男鹿嫁ではなくヒルダと――」
 言いかけた時にはもう神崎の姿は背中を向けていた。自分の話は済んだのでどうでもいいらしかった。ヒルダには覚えはなかったが、男が女になるなど、確かに早乙女の言うとおり魔界の何らかの物質としか思えない。ラミアに聞いてみよう、忘れなければ。
 互いが互いを、実はどうでもよく思っているのだった。


2011.09.20 Tue 14:29
姫川マジくたばれよ


「おお神崎、ってまんまじゃねーか。かわいいなぁおい、ククッ」
 昨日のことを思い出したのか姫川は教室に入ってきた神崎を見るや否や哂った。昨日のことを思い出す。女と見るやすぐにクドきにシフトしてきたふてえ野郎というのがこの姫川という男だ。女に困っているなどと全く聞いたこともないというのに他人をからかうのもほどほどにしろというのだ。
 昨日のことについては城山と大森には情けなくもべそかきながら伝えたので、たぶん教室にいるメンツではそこそこの人数が知っているのではないかと思う。
「てめぇは死ね」
「そんな顔で言われても怖くもなんともねーよ。なぁ今日俺とデートしねぇか?」
「マジきめえ」
「姫川、神崎さんが怖がっているから近寄るな」
「…怖がってねぇ〜よ!!!」
 すべてがおかしな方向にズレているような気がした。城山の顔面は届かないため胸元辺りに容赦なく掌底をカマしておく。
「怖がってねーんならいいだろ、デートの一つや二つ」
 さも当然のように姫川が言うものだから、姫川の下っ端がわいのわいのと吠え始めた。うぜえジャリ共を黙らせてやろうと立ち上がる。女になろうが実力は変わらないのだと見せ付けてやらねばならない。神崎が女になってしまったことで姫川の勢力が増す可能性は高かった。精一杯のドスを効かせていつものように神崎は言い放つ。
「気合いいれてやっからかかってこいよ、三下ども」



 その言葉でしん、としたが拍手するヤツがいた。乾いた拍手の音が耳にわずらわしい。イラついてそちらの方を見ると、手を叩いて笑っているのは姫川だった。
「神崎は神崎だな、けど今の声はよかったぜ。迫力はないが可愛かった」
 姫川、マジくたばれよ。神崎は途方に暮れながらそう思った。



2011.09.20 Tue 15:58
夏目という男について


 昨日のことを知らない男がいた。それは神崎一派であるはずの夏目である。長い髪をかきあげてのん気に笑っている。というか、この男も昨日神崎の服を捲し上げおなごの柔肌、否おつぱいを見せろと強引に腕力を行使し、確かに女性である神崎のその膨らんだふたつの胸を見下ろしたのだ。何より夏目自身元よりスケコマシな所があり、普通に女子に可愛いねとか言っているし、神崎の知る限り数人の、しかも何故かお嬢様学校の生徒を含む彼女と付き合った・別れたというような話があったように思う。要は顔もスタイルもいいのでモテるのだ。
「けど姫ちゃん、こーいうの好み?」
「…さてな。」
 会話してるんじゃなくて、俺の身を守れよ特に今、女なんだから。と神崎は思っていたが、どうにも夏目はそんな気などさらさらないようだった。神崎組のとこに名前入ってる意味ねえし。
「デート断られたばっかだ」
「アレマ。かわいそ、神崎君デートぐらいしてあげたら?折角の姫ちゃんの誘いなんだし」
 恐ろしいことに同意し結託した。とりあえず夏目の言うことには無視したほうが良さそうだ。ブスイなるケダモノが増えたことについては、上手く躱すことでやっていくしかないのだ。


2011.09.21 Wed 00:41
CWに行きます


「あっ待ってください神崎さん」
立ち上がった神崎の後に続く城山のいつもどおりの背中と、それにまったく見合うことができないほどにちいさくなってしまった神崎の細い背中と。怒涛のように過ぎゆく朝のホームルームの時間を経て、クラスのゴロツキどもはなんとなく落ち着かぬ気持ちでそれを見ていた。
神崎が女になった。だからといって神崎組の勢力は変わりはしない。ただ単に女になったという以外に何も変わりはしない。凄む様子も城山と夏目をパシリにする様子もこれまでとまったく変わらない。だが違和感はあった。
神崎の後に続く城山と神崎も共にウッ、とその場で立ち止まる。どうすべきか迷ってしまう。いやな汗が流れる。答えは二択だった。
そこは便所の分かれ道。つまりは女子便所と男子便所への道が広がっているのである。だが神崎は己が今どんな立場であるのか考え、足を止めてしまう。女子便所に足を踏み入れるのはまずいような気がした。だが、と思う。男子便所に行けば立ち小便ができない身体である以上、個室に籠もるしかない立場なのだ。それはどうなのか。というか、神崎本人としては構いはしないが個室から出てきた神崎を見て他の男子はどう思うか、ということもある。
城山に向けてどうしよう?と聞いたが答えらしい答えは得られなかった。彼もまた答えに窮している。そもそもこんなことを考えなければならない人生など、人間に生まれた以上はあり得ないはずであるのに。もはや、悪魔に魅入られてしまったとしか思えない所業。
「神崎さんは、やっぱり女子のほうに…!」
唐突に城山が言うものだから神崎も面食らった。急になんですか、といった感じで。その表情を見て何事もないように城山は返す。
「今日は多い日でしょう」
ひどく恥ずかしくなって、確かにそうであると泣きそうな思いを抱えながら女子便所からも男子便所からも逆走する。しかも全速力で城山にも追いつけないように頑張って。
神崎はこの身体である以上、近くの駄菓子屋の共用便所を使うことを決意したのだった。


2011.09.24 Sat 00:11
核心を突く男


 帰ろうとしたところ、神崎がクソ忌々しいと思っていたリーゼントが声を掛けてきた。相手としてみれば何という気もなかったのだろうと思う。驚いた眼をしていたから。

「ノーブラでうろつく女なんて危なくて見てらんねぇしな」
 どうして。という表情で女=神崎が見ている。そして金には不自由ない男のことを理解し初めてのばされた手を取った。べつに好き・嫌いとかそういうことじゃなくて、単純に言葉どおりの思いが口にした姫川にはあったのだ。見てわかるのだ。そんな女をどうこう、いや手籠にしようとする男がいることもしっているから声をかけた。相手が可愛いとか可愛くないとか、そんなことは後付けに過ぎない事を付け加えておく。


2011.09.24 Sat 20:04
店ごと買ってやろうか。


「好きなの、選べよ」
 姫川が言った。女のランジェリー類が売っている店に平気で入れるリーゼント頭。やっぱりキモいと神崎は感じる。女性モノの下着に囲まれて思わずウッと息をのむ。場違いじゃないのに場違いだと思う。レースとかスケスケとかいう言葉が頭に浮かんでどこを見ればいいか分からないで視線を泳がせている。
「……べつに、いらねえし」
「そーいやぁサイズも分かんねぇじゃねえか。おいソコの姉ちゃん。カノジョのサイズ測ってやって」
 もはや勝手に話は進められた。店員の女を殴るわけにもいかず、別室に連れていかれてバスト・ウエスト・ヒップ、いわゆるスリーサイズを測られる。言われたけどもう「ああそうかい」ぐらいのもので返答のしようがない。店員の女が「どれになさいます?」と言うから言葉に詰まった。姫川の方を見たらにやにやと笑っている。
「サイズの合うヤツ全種類、買うか?」
「ばっ……いらねぇよ!」
 この店には下着だけじゃない。服もアクセサリーだってあるのだ。しかしそれを買う財力だって姫川には有り余るほどにあることは知っていたけれど、生涯女として生きることになったとしても、それでも神崎にはこんなモノは必要ない。だから慌てて要らないと打ち消した。
「じゃあ、店ごと買ってやろうか。」
 さも当たり前のように姫川が言うから神崎は溜息を吐いた。思った言葉は口をついて出ていた。
「…あのなぁ、そうやって女クドいてんだろオメーはいつも」
「そうお前が思うんならきっと、お前も口説かれてるんだろうな。今、オレに」
 なんてことを言うヤツなんだ。
「バァカ。」
 そう言った神崎から目を反らした顔はいつものように笑みを張りつけた余裕の表情だった。適当にブラジャーとパンティを束にして持って、服も適当に引っ掴む。その数は半端な数ではない。それを手渡しながら店員に軽く言い放つ。
「それの、サイズが合うヤツくれ。金ならある」
「はっ、はいっ!」
 店員が慌てて店の裏に消えた。普通の感覚のない男だったのだ。あああ、そんなにいらないしどうすればいいのか分からない。神崎は頭を抱えた。


2011.09.24 Sat 22:19
危機管理は同級生が


 なんとか姫川の暴走というべきか分からない衝動買いにも似た金遣いを半分くらいに抑え込んで、それでも山のような買い物袋を抱える姫川と神崎の姿があった。すべて神崎への贈り物である女物の服の類。主に下着類が多い。こんなに買ってどうするんだと文句を垂れる神崎の手を強引に引っ張って店の外から街へと繰り出す。
「どこ行くんだよ、手ェ離せ!」
 気付けば姫川に引っ張られるままに歩くしかない。ずんずんと歩く速度はひどく早くていつの間にか神崎の息はすっかり上がってしまっていた。やがて繁華街を過ぎた先にそびえるマンションがあった。立派なマンションのオートロックは姫川の指紋で開くらしい。まったくこのお坊ちゃん野郎、と神崎が悪態吐くのも姫川は慣れたもので気にする素振りも見せない。
 辿り着いた一室の中に乱雑に買い物袋を投げ入れた。
「面倒臭ェヤツだなお前は。着替えてこいって言ったって嫌だって言うし。なら、うちに来て着替えろって言うしかないだろ」
「あ? またこのマンションは姫川財閥の持ち物ですよってネタかぁ?ああ?」
「違う。ここのマンションは俺の好みで借りたからここだけだ」
 高校生が好き勝手にマンション借りてんじゃねえよとブツブツ言いながら、それでも重い荷物を下ろしたくて、かつ、歩かされた疲れもあるのでフラフラと神崎は部屋に上がる。必要のないバリアフリーの造りになっている住みやすい空間。疲れたのでとりあえず冷蔵庫を見る。
「…やっぱり盗賊かなんかみてぇだなお前」
 後ろから聞こえてきた姫川の呆れ声についてはシカトを決め込むことにした。そしてやはり思った通りに特にめぼしいものの入っていない冷蔵庫を閉める。大きく息を吐きながらリビングにある大きなソファに殿様のように寄り掛かって寝転がるみたいに脱力しながら座った。
「何なんだよテメェ。俺は服なんていらねぇって言ったろ」
「いいから着ろよ。くれてやるから」
 姫川の意図が分からない。少しの間脱力してから向き合った。フランスパン頭を睨みつけてやったが、姫川の余裕の笑みは崩すことができないらしい。姫川が急にくいくいと顔を動かすのでそちらの方を見てみると、別の部屋へと通じるドアがあった。そこで着替えてこいと命令しているらしい。命令などクソくらえだと思った。「けっ」と吐き捨てるように言えばそこらじゅうに散らばった買い物の袋を睨みつけた。そのせいで姫川が立ち上がって神崎の方へ向ってきていることに気づくのが少し遅れてしまった。
 不意に神崎のいる所が影で暗くなったので見上げたら姫川の姿があった。相手が急に両腕を掴んでそのまま、力づくでソファに縫い付けるように押しつけた。姫川の顔が近い。何してやがる、それは咄嗟に神崎が口にした言葉だったが、マンションの一室でしかも壁も厚いらしいそこでは何の意味もない言葉だった。だが神崎の予想に反して姫川はそこで見下ろしているだけだった。一点をじぃっと。
「言ったろ。乳首、透けてんだよお前。せめてブラジャーぐらい着けてこいよ」
 ソファに押しつけたまま乳首の浮いた服を見下ろしてにやにやとヤラシイ笑みを浮かべた姫川がそうアドバイスした。ハッとして神崎は自分の身体を見てはすぐに姫川を押しのけて逃げ出すようにして前へとつんのめっていった。図星だったのだと時間差でやっと気付いたらしい。袋を何個か、姫川の言った部屋に投げ入れてから黙ったまま部屋にこもってしまった。袋を開ける音がするから、きっと神崎はどれを着ようか悩んでいるのだろう。姫川はさっきまで神崎がいたソファに一人でどっかりと座りテレビの電源を入れ煙草を咥えて、彼女が出るまで待つだけだった。


2011.09.24 Sat 22:43
つけれない


 ようやくドアが開いたのは数十分以上経ってからのことだった。姫川は別に気にもしていなかった。女が服を選ぶのには二時間も待つことだって付き合うこともあったからだ。だが、相手が女だと思えばこそそれを許せると思って生きてきたのだ。だから大した時間ではない。
 がらりと大きな音を立てて開いたドアの方を見る。泣きそうなほどに歪んだ表情をした神崎と、手にした数枚のブラジャーと。何をしているんだこいつは、それしか感じなかった。姫川はブラジャーで興奮するほどガキでもウブでもない。ただ見て分かったのは神崎の憔悴しきった様子だった。髪の毛は乱れているし、服だって着乱れている。この数十分という時間をいったい彼、否、彼女は何をしていたというのか。全く理解に苦しむばかりである。姫川は冷たい視線を向けた。
「何してんだお前は」
「姫川、どーしよう……」
「何がだよ」
「つけれない」
 元より男である彼は、現在の彼女は、ああ面倒くさいから神崎は、ブラジャーなんてものを着けることができるような器用さを持っていなかった。ピアスだったらいくらでも着けれるのに。
 神崎はそれを姫川に着けてほしいとねだっているようにしか見えない。だから姫川はソファの上で少しだけズレて座り直す。隣に座るように促した。
「しゃ〜ねぇからつけてやるよ」
 内心、役得だと知っていた。黙っておこう。


2011.09.24 Sat 23:58
ヤだ。


 ブラジャーを着けるくらい別に構わないと思っていたけれど、姫川から逃れようとする神崎の態度たるや今までの比ではない。嫌がることは分かるとしても、どうしてここまでの嫌悪感を丸出しにしているのか。まったく分からず姫川は途方にくれた表情で神崎に問う。まるでほんとうに心まで女になってしまったのかと思うほどにめんどくせえな、と感じながら。
「そこまで嫌がるのは何でだよ?」
「…っ」
 言葉を発することはないが息をのんだ。もう一息だ、と姫川は思う。神崎の無防備な肩を掴んで離してやらない。掴まれると同時くらいに反射的に見上げてきた。変わらず泣き出しそうな表情をしている。どうして神崎はそれ程までに困った様子なのか。
「ヤに、決まってんだろ…!俺、昨日の朝の前まで男だったんだぞ。その、女みてえにムダ毛処理とかしてねーし。ボーボーなんだよ、そんなの、見られたくねえし…っ!」
 そんなことで嫌々していたのか、と思わず姫川は笑ってしまう。思っていたよりも神崎は女になっているのかもしれないと思った。掴んだ肩を寄せた。相手が嫌だと言うのは分かっているけど、否、だからこそ言いたくなるのかもしれない。
「んなこと、分かってるってーの」
 神崎の、困ったような下がった眉毛が少しだけ緩んだ。そのように姫川の目には映った。女のムダ毛処理をするのは初体験だったが、してみたいとも思った。己の悪趣味に、姫川は少しだけ自嘲の笑みを浮かべたがそんなことに今の神崎が気づくはずもない。


2011.09.25 Sun 22:05
否定を超越した何か


「剃ってやるよ」
言われた言葉は悪夢かと思った。だがそれは夢ではないと、現実に両手を大きくてかたい手で握り込まれて一纏めにされたから、認めないわけにはいかない。ソファに縫いつけられるみたいに頭の上に両手は上げさせられて、目の前にはヌメっとしてモサっとした姫川の余裕の笑みがあった。
てめえ死ねよ。喉元まで出掛かったけど出るにまで至らなかった言葉。それは姫川が実力行使で来ようとしたからだ。神崎の肌を守る布を捲し上げて剥ぎ取ろうとする。神崎は瞬時に抵抗した。しっかりと相手の顎先に蹴りをヒットさせた。手応えはあった。
だが、これ以上の抵抗は殆どできないだろうと感じていた。そのぐらい体力は消耗していたし、それだけ女は弱いのだと感じる。ぜぇはぁと肩を怒らせて息を吐く様なんて、もう残り体力はありませんと言っているようなものだ。こんな姿を誰にも見せたくはないのに!
「女相手に、本気になれるワケねぇだろ」
姫川が急に神崎から身体を離して諦めたようにそう言う。だから堪らず神崎はほぅっと息を吐いて脱力した。そういえば邦枝に言いよって負けたとか、フェミニスト伝説とスケコマシ伝説はよく聞く珍しくもない話。実際にマンションには女を連れ込んでいるという話だって姫川自身も何度も口にしている。しかも嘘くささが感じられないくらいにサラッと流すように。
「今のお前だって女なんだから俺は、」
舐めた口聞くな。そう思い睨みつけた神崎にのしかかるみたいにして姫川は強引に神崎の、いつもよりも数倍も華奢な身体を抱き寄せた。姫川の体温を感じながら、今の言葉の続きは?なんて場違いな事を思う。それと同時に舐めた口聞くな。という思いは強まっている。あと、体温は落ち着くとか、逆に落ち着かないとか。あと、こいつなに?とか、疲れた。とか、人は同時にいろんなことを思うことで身体の動きをフリーズさせてしまうんだきっと。


2011.09.25 Sun 22:47
フタコト


 それはまるで呪いの言葉。

「離せ」
「好きだ」
「離せ」
「好きだ」
「…ッ、離せ!」
「好きだ、はじめチャン」


2011.09.28 Wed 00:05
また。何度でも。


 取り敢えず、放たれたのは蹴り。電光石火の強さはなかったけれど、はっしと掴まれた足の先にまるで愛の告白みたいな言葉を吐いた口が笑っている。忌々しい野郎だと神崎は感じる。兎にも角にも口だけは達者な男だと思う。確かに昨日はその好きだという言葉にほだされてしまうぐらいに動揺してしまったけれど、今日の神崎はこんな状況であっても昨日のことを受けて冷静であった。
「またかよ」
 もはや呆れを示した声色に相手は引くだろうとか、もしくは笑うだろうとか思っていたら目の前の腐れリーゼントはさらに笑みを深めた。実に楽しそうに。どうしてだろうかと思ったが、それを聞くと負けるような気がしたのでスルー。どうせ口を開こうとしているのだし。
「何度でも言ってやるけど?」
 ズイ、と寄せた顔がぶつかる前に邪魔くさいフランスパンが神崎の額にわしゃりと触れた。まっすぐに睨みつけてやる。姫川の笑みが何であるか分かった。坊ちゃん野郎が思うことは珍しいものを欲しがるという、赤子みたいな無垢な思い。それは愛でも恋でも何でもないのだ。そして前述の感情は関係あるはずもないのだが。単純な興味について食いつく程に神崎もガキではないのである。
「くだらねぇ」
 だから突き放すように神崎は言う。お前の言う言葉になんて全く興味ないんだよ、それを口せずとも理解してもらおうと思って。鼻を鳴らして笑ってやる。だがつと、まるで当たり前みたいに胸に触れた手の僅かな重みを感じて慌てて胸に触る手を引っ掴んだ。してやったりな笑みを浮かべた銀髪リーゼント。超かっこわりいし、それをポリシーとか言ってる姫川にヒける。そう感じながら見たら例の笑顔だ。忌々しさはさらにアップした。
「でも、はじめチャンはドキドキしてんだ?」
 とりあえずコイツ殴ります。
 構えた拳を振りかぶって、ハイそう来るんだろうねと言わんばかりに軽く避けた笑みが腹立たしい。と同時に素早く神崎に向けられた姫川の腕の動きには殴られると思い身構えたのだが、わしゃりと撫でられた短髪へ送られる感触のせいで視線を上げるしかなかった。どうして姫川が神崎の頭を撫でているのだろう。ぼんやりとその様子に身を任せていた。だがそれも片手で数える程に短い数秒という時間だったから、相手の様子は目に見えて変わっているというようなものでもなんでもなかった。
「姫川、てめぇどこまで人をおちょくるつもりだよ。アァ?」
「だってぇ、はじめチャンが意外にかわいいから―――」
 言葉の途中で頭を撫でる手を振り払った。姫川については不快で堪らない時が時折あるのだ。それが今、この時も含まれるのだ。


2011.09.29 Thu 09:47
いっときのさよなら


「帰る」
 急に水っぽい声を出しながら神崎が背を向けた。もう姫川とは一瞬でも同じ空気を吸いたくないと唇を噛んでいた。姫川からはどんな表情をしているのか分からないが、おおよその想像はつく。ただ、散らかした服はどうする、とだけ声を掛けてきた。追ってくるつもりはないらしかった。元よりそんなものは要らないのだ。振り向くことなく神崎は言い捨てる。
「テメーが買ったんだろ。知らねえよ」
 そりゃそうだ。神崎の言い分も分かるが姫川は神崎、お前に買ったんだからお前のモノだという主張と、神崎のまったく逆の主張。別に構いはしないが簡単には相容れない。今のこの状態はまるで水と油である。
「神崎」
 普段通りの呼び方をすると、玄関で靴を穿く足がぴたと止まる。一応聞いてはいるようなので姫川は勝手に喋った。どうせ返事は期待していない。
「明日もデートしようぜ」
「…っ」
 おちょくりやがって。と言わずとも分かるほどに勢いよくドアを殴るみたいに閉めて帰ってしまう。どうせクラスも一緒なのだ。会わないでいることは、学校に来ないということだ。単位の関係もあるのでまったく来ないということもないだろう。女になった神崎の様子を思い浮かべて薄く笑った。ふと灰皿を見たらフィルターを残した煙草がすべて灰になってしまっていた。


2011.11.29 Tue 23:52
近いのに、遠い


慌てて帰った。だが、近くまで来てどうすればいいのか分からない。女になってしまっている。昨日はそれを言わずに城山の家に泊まった。咎める内容の電話もメールも入ってはいなかったが、女になったことは学校の連中しか知らない。組の連中にも分かってはいない。こんな姿を晒すわけにはいかない。
だが、ここまで来てしまった。近いけれどあえて遠目と言うべき、今の神崎自身にはあまりに遠いそこを見上げてごくり、と小さく喉を鳴らした。こんな思いをするのはまかり間違って不倫でもしてしまった時以外に考えられないような状況。自分住む家を見て居心地悪く感じる、なんて。
早くも空は夕闇色に、色えんぴつの藤色になりつつあった。空は綺麗であるのに気分は忌々しい。空を見て綺麗だなあと言ってしまうくらい簡単に、「ただいま」と帰れればきっと今の気分など綿埃ほどに気にならないものであるはずなのに。そう思うほど意識してしまう。いつもどおりの神崎一であれば何も気にすることなどないのに!



2011.11.30 Wed 00:11
夕闇と下僕


だんだんと空の色は闇色に近づいていく。顔をあげるたびにそれに気づくくらいに変化は分かりやすいものだ。神崎が見つめる自分の家にもまた、数カ所見える窓からてんでばらばらに光が灯り出す。それを見ても足がすくむ。目と鼻の先という場所に自分が住み、育った家がある。昨日まではここから学校にも通ったはずだ。だが、今日は家族と喧嘩をしたわけでもないのにひどく帰宅を躊躇われる。踏み出した足は何度も何度も、無意味だろうと思われるほどに引っ込められる。
「かんざ、」
「……ッ、だはあぁッッッ!!?」
低い男の声と同時に神崎の肩を軽く叩く霊のようなものの存在があった。だから相手が明らかに神崎、と呼ぶべきところを悲鳴で掻き消した。
高いその神崎の悲鳴は辺りには響いたけれど、立派な家々が立ち並ぶこの古き良き時代の持ち家群にはきっと殆ど届かない。壁もしっかりしているし、塀もある家ならば余計だ。防音すら施す家もあったほどである。と考えればある意味ではこの地域、犯罪が起こりやすい場所とも言えるではないだろうか? それを咎めるより先に、神崎は己が発した女でしかあり得ない声色に嫌悪しつつ、声の先を見て申し訳なく思った。



「……城山………」
城山も呆けたような、ぼんやりした表情を浮かべていた。まさか、神崎が女としか言いようのない叫びをあげるはずもないと思っていたはずである。確かに女である神崎のことを知っている一人ではあるのだが。
おかしな時間が流れた。それはきっと数秒という時間だろう。けれど、どう接すれば良いのか困る城山と、思わず叫んでしまった神崎との目に見えないぐちぐちとした葛藤のようなものなのだろうが。


2012.01.09 Mon 22:09
夕闇と下僕2


「探してたんですよ」
やがてかけられた声は神崎に向けてあまりにも優しい意味を持っていた。その温度差にぼんやりとした眼差しを向けたまま動けずに見上げたままで特に言葉も発せないでいる。神崎というのはそういう不器用な男、もとい、男?である。そんなところも城山は解っている。
「どこに行ったのか、って…」
ぼんやりしたままの神崎を心配に思い、失礼しますと一言だけ低く告げて半ば強引に神崎の細くなってしまった腕を握る。そして神崎のそばにいつものように着いた。いつもよりも一回り以上も小さい体は神崎が神崎でないように思えた。確かに神崎で間違いないのだが。けれど、見つかって良かったと本当に嬉しく思う。女になってしまったことでまかり間違ってどこかに消えてしまうおそれもあったからだ。ここにいる。それだけでとても有難いとすら城山は健気にも感じた。
「大丈夫ですか」
「ん……ああ、」
城山が安心していることなどどうでもいい。冷静になってみれば自宅の近くでうろついているのも危ないような気がして気が急く。目が泳いでしまう。どこか一点を見つめるなんて落ち着いた行動はできそうもなかった。ちらと目上げると城山と目が合った。城山はいつも神崎の様子を金魚のフンにみたいにくっついて見ているのだ。
「そんな、慌てなくてもいいです。だって、言ったじゃないですか。戻らなくても、俺が一緒に神崎さんの親父さんの所に事情を説明に行く、って」
確かにそんなような言葉を昨日聞いたと思う。だが、神崎は目と鼻の先にある自分が十八年間住んで来た家を睨みつけながら思ってしまう。城山はいとも簡単にいうけれど、口にするだけなら簡単に決まっている。神崎の親父といえば神崎組の組長その人。跡取りが女になったなどと、そして確かに息子として育てたはずの一が娘となっていた姿を見て、それを認めてしまった瞬間にどうなってしまうのかなどと子供である当の神崎一でさえ不安に思う。だから城山にそれを背負わせるわけにはいかない、そう思った。
「てめぇ、ナメんじゃねぇ」
「………はい?」
神崎の、意外にも怒気を含んではいるが声変わりのしない高い声色が城山の耳を刺激する。城山が視線を下げたと同時に、
「ぐゎ…っ、ぷ!」
城山が顔面に打撃をうけて後ずさった。冷たい視線を投げかけてくる神崎と目が合う。理由がわからない。今から神崎の父に事情を話に行くのだ。きっと神崎は知られたくはないのだろうが、同居の家族にいつまでも心配をかけるわけにもいかず、かつ、隠しきれるわけでもない。それを今の神崎がどうすれば理解してくれるか、そればかり考えた。答えはないまま神崎の蹴りが目の前をかすめる。蹴りの速さは小柄になったことでいくらか高まっているかもしれない。とはいえどこのまま引き下がるわけにもいかない。だから呼ぶ。
「神崎さん!」と。


2012.03.19 Mon 23:24
夕闇と下僕3


城山が食らった打撃の衝撃は、ひどく薄っぺらいぐらいに思えるものだったから仰け反りながらもどう反応するべきか、むしろ弱いことで反応にひどく困ってしまう。きっと神崎は自分が弱くなったことで激しくショックを受けてしまうだろうし、その後の神崎がどうなってしまうのかなど城山には検討もつかない。否、城山としては考えたくもない。だからといってされるがままにしているわけにはいかない。
「神崎さん、俺は今、一緒に行きたいんです」
そう強く告げて、神崎の小さくなってしまった手を強引に引いて神崎宅の玄関の戸を開く。ガラガラガラ、と音高く開くと見慣れた広くて長い廊下が神崎たちを待っていた。冷たい廊下がいつまでも続けばいいとさえ神崎は思った。逃げられない城山の手からぐいぐい引っ張られながら、わずかに逃げようと抵抗しつつ腰を引いてもなんの意味もない。ただ城山は神崎の抵抗を無視してずんずんと近づいている。神崎の親父である、組長の側へと。