「お前、確か弱いクセにイキがってたバカ男だったよねえ?」
 ここは聖石矢魔の教室だったはずだ。だから悪魔野学園の生徒がいるのはおかしい。それ以上に何か違和感がある。全て言葉にしろと言われてもできないが、隔離でもされてしまったかのような閉塞感がそこにはあった。放課後ではあったが、そもそもさっきまで教室に馬鹿どもが残っていたはずだ。だが今はいない。確かに城山はパシリをさせているから隣にいないのは分かるとして、他にも数名残っていたはずだったのだが。
 明らかに挑発としか取れない言葉のあと、言い返す間もなく急に襲って来た鋭い痛みが神崎の体を右から左、果ては脳天から足の爪先までをも貫くように身体中を駆け巡った。悲鳴も上げることができないくらいにあっという間に倒れ込む。だが、気は失っていない。女がジャリジャリと音を立てて近寄ってくるのを感じることができるくらいの意識もまだある。
 だからといって五体満足とは言いづらい状況に他ならない。相手の細い足が神崎の投げ出された手をギュッギュ、とまるで煙草を踏み消すくらいの軽くも強い勢いで踏み躙る。と同時に頭上からは女の笑い声が響いて来た。
「イキがるヤツって嫌いなんだよねぇー、アタシ。だからいたぶってあげよっかなぁー? このアギエル様が」
 っていうか、なんで俺なんだよ!と声を上げずにツッコんだ。そもそもこの女に挑んだのは邦枝ではなかったか。そして姫川だってそうしていたはずだ。なのに、どうしてここでこうして攻撃されているのは神崎なのだろう? 邦枝はいい勝負をしていたのだからまぁここまで一方的にやられないとしても、姫川なら実力的には神崎よりきっと弱い(と神崎は信じて疑わない)のだし、別にあいつでもよかったのではないか? と何度も何度も神崎の脳裏にはこの状況に対する不満と不安、あとは姫川に対する怒りにも似た気持ちばかりがふつふつと湧き上がっていた。
 悪魔野学園のヤツらになんて負けるつもりはなかったが、名前通り悪魔的な強さを持った、しかもこんなヒョロヒョロの女なんかに負ける日がくるとは…。黙ったまま強く唇を噛む。体はいつものように自由になってくれない。何より痛み通り越して熱いのだ。
覗き込んで来たアギエルのギラつく瞳と目があった。ひどく不快だ。そう思ったがそらせない。ガンつけで負けることはすべてに負けることを示してるのだ。だから倒れた格好のままながらも神崎はアギエルから目を逸らすことはしない。ただ真っすぐに睨み返すだけである。「ふぅん…」と小さく頷くとアギエルは神崎から目を逸らした。ガンつけ勝負は勝った! と内心激しく喜んでいたが相も変わらず体は横たわったまま熱を伝えて来て、全くいうことを聞いてくれない。いつになったら自分らしい体に戻るのか。それともまた入院生活に戻ってしまうのか。後者のほうが正しいような気がしたが考えたくないと思った。
 恐る恐る口を開いてみた。声が出るかもしれない、なんとなくそう思えたから。言い換えれば今までは声を出す力もないのではないか、と内心怖かったのだ。もちろん、その思いを拭い去った訳ではない。ただ、自分の力が戻りつつあるような、そんな気がなんとなくしたというだけのことだ。
「てめぇ……、チョーシコイてんじゃねぇぞ?クソガキがあ」
 精一杯凄んだつもりであったが、それは思っていたよりももっと弱々しくよれよれとした声色であると己の耳に届いた。ただ、誰かから聞いたのだが自分に聞こえる声と他人が聞く声はだいぶ違うものであるということ。それを聞いたからと言って神崎の今の言葉が撤回されるわけでも何でもないのだが。そんなことを何処か遠くの国で起こったニュースかのように感じていた。まるで他人のことのように。
 そして見返して来たアギエルの目はギラギラと光っており、口元はまるで楽しみを見つけた悪魔の如くにたりと音もなく歪んだ。女が笑う姿で怯んだ、などと神崎は口が裂けても誰にも言うつもりはない。だが、確かに女がにたりと笑うと同時にぞくりとしたものが背筋を走り、やっと開いた口がまたおとなしくなってしまった。それは認めねばならない事実なのだろう。
「強がり、なんて……笑える。いつまでもつのか、見せてよね」
 軽い調子で言われた言葉が本気なんて神崎でなくとも誰もが信じたくないと思っていても敢えて口にしていない言葉。むしろ、口にする必要なんてない言葉だと思っていた。何故ならそれは強がり、などという言葉は強い者には要らないからだ。言葉通り、弱いから強がるのだ。強ければ強がる必要は皆無。ただ売られた喧嘩を買うだけで事足りるかのしれない。
 石矢魔最強と言われ続けそれに興味を示さない男・東条をぼんやり思い出す。だがしっかりと思い出す前にグサリと刺さるようにアギエルの長めの爪が神崎の額に食い込んで来た。アギエルの顔は間近。ケケケと冷たく笑っている。
 ギリギリとまるで音でも立てているかのように爪は食い込んでくる。悪魔野学園の名の通りこいつは悪魔なのではないか、と今更な思いを抱えながら神崎はその爪を感じていく。それから逃れたいと思いながらもそこから逃れること敵わずにただされるがままに。ここまであの爪は長かったろうか? と是非を問う暇は与えられないままに神崎の痛みは別の方向へと色を変えていく。
 神崎の頬に残る痛みは消えぬままに感じる優しいふわりとした感触。確かにそれはアギエルが神崎の短い髪を優しく撫でる感触だった。優しく撫でながらも女は冷たい笑みを抑えることができないように尖った笑みを神崎に向けていた。そのギャップが逆に気持ち悪く、そして怖いと背筋を凍らせた。それは神崎自身も全く口にはしなかったけれど。
 アギエルと目が合うと途端にどこか遠い国にでもすいこまれてしまうかのような感覚に陥る。それは決して不快ではない。むしろ、他人には言えないくらい心地良い感覚のように思えた。だが、そういう感覚を彷徨っている間の確かな記憶というものは全く口にすることも、形にすることもできない何かの様に思えて仕方ない。



 アギエルの目しか見えない。
 ただ、強い視線が射抜くように見つめてきた。そんな印象しかないのにもっと見ていたいと思うのは心の弱さ、のようなものだろうかと神崎はぼんやりと感じる。だが答えはどこにもない。それが逆に不思議で気持ちが悪いとすら思った。
 ぐじゅり。
 神崎の古傷をアギエルの爪が抉りほじくる。苦痛の叫びはほとんど吐息に近いものだったから悪魔的に面白さは半減していた。ぐりぐりと抉る深い傷跡は痛みよりもきっと神崎の思いを呼び起こすものだろうと思い直す。彼は何かに耐えるようにキツく口を噤んだままだったから。
 ただ、頬が燃えるように熱い。
 どこか遠い胸の奥底にあった恐怖と驚愕の気持ちが懐かしく湧いてくる。それはこの傷をつけられた時のことを彷彿とさせる。思い出したくない思い出が神崎の目に宿る。こんな気持ちのままでは、恐怖に溺れる。こいつに負ける。昔の、負けた自分に戻ってしまう。ここから逃げ出したいとようやく思った。
 歯を食いしばったまま体を動かす。動こうと思えば人間できるものだ。間近なアギエルの顔面に強烈な頭突きを見舞ってやった。急な行動だったため女も読めなかったらしく、フラつきながら鼻を押さえている。鼻血くらいは出すかもしれない。所詮はその程度であるが、してやったりな気持ちでいっぱいである。胸が少しだけスッとした。
「動かねえヤツを痛ぶるなんざぁ、趣味の悪りぃアマだな……。やられてばっかだと思うなよ? 土星辺りにトばしてやんぜ」
 一度動き出せば体は思っていたよりも軽やかだ。だが体の痛みのような熱のようなものはそこに固まって置いてあるようだ。
 少しの間、アギエルは鼻をいじっていたようだったが鼻血が出ていないことを確認してはようやく手を離した。あげた視線はゾッとするほど残忍な笑みをたたえていた。
「…決めた」
 どうやら神崎と会話をする気はないらしい。フラついたままユラユラとアギエルが近寄ってくる。おぼつかない足取りというよりは行き場所を撹乱させるような足取りといったほうが正しいようなものだ。後ろにはいつかの六騎生のメガネから立ち昇る黒いオーラのようなものが見えた。あれ? 見たことあったよな…、と神崎が思った途端、その黒いもやが神崎の体をぐるりと取り巻いた。気体だと思ったら物体?! 急で意外な展開に咄嗟に言葉も出ない。ただその場に音高らかに叩きつけられた。
「本気出してないアタシに一発くれたぐらいでイキがるとか、マジ追い詰めまくって楽しんじゃおっかなー。って」
 非常に歪んだ黒い笑みを張り付けて笑うアギエルの姿を見ると、本当に趣味の悪いヤツというものはいるのだなとアルイミ感心し、アルイミ引きながら神崎は露骨に嫌な顔をした。そしたらグイッと強く耳から唇につながるピアスチェーンが引っ張られる。無知ゆえの無謀な行動。そして普通、以上に痛いのですが。
 黒いもやを腕で振り千切る。神崎はピアスチェーンを引っ張られるとキレて通常の3倍強くなるのだ。
 という設定が出たにもかかわらず全く活かしきれていなかったため、ここで活かすべく神崎は怒りの咆哮を上げながらアギエルの横っ面を何の躊躇いもなくぶっ叩いた。なす術もなく女は教室の端にまで吹き飛んだ。ガシャガシャと共に倒れゆく机と椅子が哀れである。
「ヘェ……、意外」
 完璧に雑魚扱いしていた神崎が魔力から逃れたのは意外だった。思っていたよりも痛めつけ甲斐があると感じたアギエルは楽しくて目を細める。だが人間如きが悪魔である彼女らには敵うはずがないのだ。せいぜい楽しめればそれでいい、と。そして今、期待してなかった雑魚が思っていたよりも足掻いてくれそうだということ。それが実に楽しそうだと思ったということ。
 要は、神崎がいつもよりずっと強くなったとしても何の意味もないくらいに楽しんでいる女がいるということ。

 神崎としては、女を痛ぶるような趣味は持ち合わせていない。そもそも女というのは体も小さく細いし筋肉も少なく、力だって普通なら弱い。そんな相手と闘って勝つことに何の意味があるのか。だから姫川のような姑息な手段を好むヤツのことは信じられなかった。新人類、宇宙生命体、そんなふうに呼んでもいいとさえ思うほどに理解できない。その思いは変わらない。神崎は硬派なフェアプレイを好む。チートプレイは体に合わないのだ。
 だが、今回ばかりは違う。相手と神崎の力の差は歴然としていた。それは神崎がキレたからといって軽く埋まるようなものではない。それが分かっているからこそ、神崎は目の前にいる悪魔のように笑む女を倒したいと本気で思ったのだった。
 だが再び黒いもやが神崎を捕らえる。それは予期せぬことだったから、神崎も目を見開いたまま少し動かなかった。そして先のように身を捩りながらもやから逃れようとした。だが、二度目はない。ギリギリと食い込むようにもやが神崎の肌に食らいつく。まるで生き物のようだ。さっき巻きついていた物とは何かが違っている。
 神崎が締め付けるそれを掴んで引き剥がそうとするが、そこで締め付けているはずのそれは存在していないみたいに神崎自身の肌を感じさせる。自分の肌に触れて、それでも締め付けを受けている気分というのは狐に包まれたよなものである。気のせいと思ってまた手を延ばし直してみるけれど、全く苦しさは変わらない。
 どうすれば今の状態から逃れられるか分からないままに、そのもやから逃れたいがために足掻いてみる。ジタバタしてるなんてあまりにかっこ悪いけれど、そのもやが首筋をするすると何度か撫でたものだから神崎と言えど咄嗟に生命の危機を感じたためである。
「いみ、ないよ」
 挑発気味に声が聞こえた。ぐっ、と首をつかんだのはきっと黒いもや。もやみたいな、なんだかわけのわからないものに負けるなんて嫌だ、だから何とか目を開けて女の姿を睨みつけた。もやを操る女がいるなんて誰かに言ったら、仲間らに言ったらきっと笑われてしまうんだろう。けれどこれは嘘じゃない、夢じゃない、現実だ。現実だから苦しくて痛くて熱い。
 遠目の女の姿とフラッシュバック。あとはよく分からない。ただぐわん、ぐわんという音でもないしイメージと言うにはあまりに現実味を帯びた目に見えない何か。そんな中で何度か呼吸ができないかのような感覚に陥る。夢すら見る余裕がない。夢を見るのは眠っているから、余裕があるから。そんなことを再認識する。
「ぐ、おぅああああああああああっ!」
 神崎の野太い声が辺りを濃い闇色に染めたはずなのに、あまりにも無関心にしんとした教室の中に神崎とアギエルはいた。
雄叫びの後に、もやは神崎から離れていたけれどただ地面に膝を付き苦しさに喘ぐ神崎の姿だけがそこにあった。神崎が視線を上げた先にはまたアギエルが何食わぬ顔顔でいて「まぁしゃーないよね」とケラケラ笑いながら神崎の短髪を引っ掴む。そのまま神崎の顔を乱雑に間近に寄せる。アギエルと神崎の顔は近い。僅かに鼻と鼻が触れたかもしれない、というくらいに。
 髪を掴まれたままアギエルの与える力の加減でどうこうなるというのはあまりに面白くないけれど、なってしまった以上、仕方ないとしか言えない。ただ神崎から見えるのは数分ほど前から変わらない相手の残忍そうな冷たい笑みである。そして頬のいつかの傷がひどく熱い。ずい、と半ば強引に引き寄せられた顔はアギエルと神崎の視線望まなくとも合わせさせてくれる高さだ。忌々しいと思いながらも顔をそらす力も殆どなくてただされるがままに、してやったりな顔をしたアギエルのニンマリ顔が神崎の目に嫌味に映る。だから、痛みを通り越したこの今の感覚の中、睨み返してやることぐらいが精一杯の神崎ができること。その反抗的な目を見て冷たくアギエルがメガネを光らせ「なに」と短くごく当たり前くらいの声色で言う。それは躊躇われるくらいに疑問符すら聞こえないイントネーションだから神崎も聞き流そうとした。けれどアギエルの射抜くような目と目が合ってしまったから、
「てめぇこそ、んなコトして意味ねぇぇっつうの。クソが」
 言い終わるか終わらないかの瞬間にぐじゅり、と音がした。神崎の間近だったけれどそれは見えなかった。何故だかというのは頬の痛みからよく理解できた。近すぎて見えなかったのだ。ただ頬の熱と痛みはこれまでの比ではないことは確か。だが目の前の女の表情は全く変わる様子もない。こんな女如きにからかわれているのかと思うと苛立ちもするのだろうが、この女と神崎との力の差はあまりに歴然としていて怒りも湧いてこないといったくらい。
「ふぅん……、でも開いてる、キズ。こーゆうのってさ、あんたらは塞がるまでかなーぁり時間かかるんでしょ?」
 言葉にされると痛みは今まで以上に確かに存在するものとなって感触を研ぎ澄ます。あの時、傷をつけられた時の記憶がありありと蘇る。あの時の神崎は今よりも確かに弱かった。だからこんな傷を負った。そうならぬために隠れてケンカに向けて身体を鍛えたり、神崎勢と呼ばれる勢力図を伸ばしたりしていた。そして今、石矢魔統一に最も近い男として恥じることなく名を馳せるまでになったのだ。なのに、どうして悪魔野学園如きザコ学校の、しかも女に負けなくてはならないのか。頬の傷がじわりじわりと負けた時の記憶を呼び覚ますと同時に、それを繰り返したくないと強く強く思う。だからアギエルを睨みつける視線は計らずとも厳しいものとなっている。だが、どうしてこの身体はセメントにでも固められてしまったかのように動かないのだろう。理由など知りたいとは思わない。この身体がただいつものように動けばいいのだから動かない理由も、動く理由も何も必要ないのだ。
 何も口にしていないはずなのに、アギエルは冷たく、実に愉しそうなサディスティックな笑みを浮かべ長い爪をぐりりと頬の傷にさらに深くめり込ませた。痛みというより不気味さに背筋には寒いものが走る。
「思い出したくないことがあるみたいねぇ?…なら、一緒に見るぅ?」
 なにを?と言う前に脳裏に映る。鼓膜ってなんだっけ、水晶体って何? とにかくそんなものは関係なしに神崎の目、だろうか、脳内だろうか、見えないはずの、見えるわけがないはずのものが映る。忘れてしまいたくもあり、忘れてしまいたくはない。だが、捨て去ってしまいたい記憶の映像。



 這いつくばる地面。冷たい人工的なテラスのような足元の風景。神崎自身の血だと分かるぬらついた赤黒い液体が視界に映り込む。ひどく不快である。
 変わらず身体は動かない。否、まったく動かないというわけではない。けれども不自由なぎしぎしというような擬態語が実にしっくりくるぐらいの動きしかしてくれない。地面ばかりをみているわけにはいかず、神崎はぎしぎしと音の鳴りそうな重い身体を何とか起こす。
 だが、そこにはアギエルの姿はなくて、中学時代の神崎の先輩であった男のにやけ面がそこにはあった。男の手元には尖った光が見える。冷たい光が。よく目を凝らすとそれはバタフライナイフだった。折りたたみができるから持ち歩いても銃刀法違反にはならない程度の代物だ。殺傷能力は低いと聞いていたが、この頬の傷を見てそれを言えるのだろうかと神崎は感じる。それは切りつけられたことのない者が口にする机上の理論だ。
「ワビ入れたら、許してやっても構わねえんだぜ?」
 目の前の男はチャリチャリと金属音を鳴らしながら神崎にナイフを見せつけた。そこで許しを乞うほど女々しくも弱くもない。当時と同じように神崎は重い足を一歩踏み出し、男の目の前で唾を吐き捨てた。挑発にはやはりこれが一番だ。頭の良し悪しに関係なくすぐにカッとなる。
「二度め、とかねえし」
 それが記憶の中とは違っていた。重い身体でも構わない。倒れこむように男にパンチ。同時に神崎も男と一緒に倒れこんだ。ただ男がクッションになってはくれなかったようだ。倒れた床は見慣れたもので今で見ていた白昼夢みたいなふわっと感が全くないひんやりとした冷たい床だった。さっき見たはずの血のこぼれる地面ではないらしい。アギエルの華奢な足元が目に入る。
 まぼろしかよ、ちくしょう。せめてあの野郎を殴れたかどうかくらいは見たかったがそれすらかなわない。どうなるか分かっている過去の記憶なんかには負けたくないと神崎は思って殴りかかったのだ。前にビビッてできなかったことを白昼夢みたいな中で今。
「……へぇ、…思ったより、やるじゃん」
 感情のこもらない声色が降って来た。時間差で華奢な足が神崎の手をぐりっと強く踏みつける。思わず呻きをあげるがそれは反射なのだから仕方ないと分かってはいるけれど、それでもかっこ悪いと思ってしまう。構えることができたのなら声なんて出さないで強く唇を噛んで押さえ込んだのに。なんてかっこ悪い、かっこ悪すぎるだろう。とグリグリグリとヒール靴で踏みつける足を目に映しながらどうすることもできずに思った。
 思うだけなら誰でもできる。抑え切れない悲痛の呻きがただ耳障りだ。自分の声があまりに情けなくその場を支配する。聞きたくない。けど耳を塞ぐ暇なんてない。
 教室の向こう側からカツン、カツンと乾いた足音が聞こえる。きっと学校の教師だと感じた。このトチ狂った女を見れば追い出してくれもするだろう。声を出そうと顔をあげる。そこには教師ではないが、遥か昔に見知った顔の男の姿があった。すん、と近くで鼻を鳴らす不快な音。アギエルが笑ったのだ。おかしいことなどあるものかと睨みつけてやろうと思ったが、あり得ない訪問者の姿のほうが神崎の視線を外させない。見たいのではなく、見てしまうのだ。
「…な、なんで……」
 助けを求めるなんてものじゃない。情けない声しか出せない。黒髪にスーツの男。冷たい目はどこか神崎に類似するものがある。この男にはきっと一生かかっても追いつかない、神崎はそういった思いを胸に持っていた。いるわけない。二度と顔を見るはずもない。どうして、なのにどうして神崎には彼が誰であるか、分かってしまうのだろう? だいぶ前に、ガキの頃に見たその顔と違っているはずなのに彼が誰であるか、瞬時に理解してしまった。だからこそ神崎は息を呑んで見つめていたのだ。
「…決まってんだろ。血≠チてヤツが俺らを離さねえのさ」
 どくん。
 心臓の音と血流の音が強く激しく、同時に神崎の脊髄を通って脳内を侵す。
 神崎が胸の何処かで問いかけた答えは彼が答えた。聞いてもいないのに、まるで這いつくばる男を目下に見やりながら、さも当たり前のように答えを告げた。
 目の前の男の言葉に血の流れがバカみたいに逆流したかのような錯覚。物理的にあり得ない感覚。確かに聞こえる激しくも痛々しい程の動悸。この音の一つ一つが血の動きを司っている。無心の内に。
 血で離れられない。それはある意味で運命的なものであるとでもいうのだろうか。そう思えるくらいに神々しい言葉のようにも響き、かつ、選べない足枷のようにも思えた。ただ血でのつながりというだけならばこの胸の動悸を理解できるのかと殴りつけたくてでも問い質したくてたまらない。別に彼に罪があるわけではないけれど。

 彼のことを思い出してしまう。
 同じ親を持つ血を分けた兄弟。彼の名は神崎零といった。
 神崎一少年は勉強は苦手であった。兄の背中を見ていて、勉強はおもしろくもなんともないと知っていた。だから勉強が学ぶものであることに気づいて絶望した。まったく学びたいなどと思えもしなかった。学ぶことで誰かに尊敬の目で見られるとかそんなことを考える前に思考回路は停止状態、それだけ学ぶことに興味なんて持てなかった、ただそれだけのことだ。結論からいえば、勉強?だからなに?はあ? である。
 だが同じ血を持ち産まれた零少年はあまりに勉強を毛嫌いせず、そこそこに扱った。むろん、天才少年などというくくりではなかったが、興味のある勉学には己から進んで挑んだ。そのため、社会科の授業は上から数えても片手が余るほどの順位にいたことを、一少年は疎ましく思っていた。否、疎ましく思いながらも誇れていたし、複雑な思いを抱えていた。という表現が正しいか。
 勉強だけじゃない、多岐に渡って零少年は一少年よりもずぅっと高い箇所を歩いているような気がして。それでも零は弟を見捨てようとはしない。手を貸すつもりもないらしいが、すぐ近くで立ち止まってくれるぐらいの気遣いが彼にはあったように思う。だが零少年と一少年は分かり合えない。それは数年先に社会に出てゆく零少年、否、零が家業という名の枷を半ば強引に振り切って行方をくらませた。詳しいことは一には分からない。それを理解するほど社会とか法律とか、そういった堅苦しいものを理解できていないからだ。ただ分かるのは現組長である一と零の父親が唇を噛んで黙ったまま拳を握って何かを考えていたということ。それが何であるなどと一には感知し得ない問題だ。

 だからこそ神崎は兄に問うてみたかった。しかし、何を問いかけるべきか、その大事な言葉が浮かぶ前に頬の傷がひどく痛む。血が滲んでいるだろう。アギエルが笑いながらそこをほじくるようにしている今この状況ではまともな思考なんてできるわけがない。



 その時、不意にパシン、といえ何かガラスのようなものが割れる音ともに神崎零の姿が消えた。それはあまりに急であったから、幻でも見ていたのではないかと思うほどに。そして同時に教室のドアから城山がひどく慌てた表情で神崎に近寄ってきた。いつものように神崎を気遣う言葉を口にしているけれど何を言っているのか理解できるほど今の状況が普通なわけではなくて、ただぼんやりと城山に抱きかかえられるような格好になるまでぼやっとしていた。だが城山の体温を感じているうちに冷静になっていく。脳みそが冷えたと感じた神崎は城山に言葉をかける前に彼をのけるようにしながら立ち上がりアギエルを見やる。真っ正面に目にしてみれば自分よりも小さいガキだとしか思えない。けれど今回のことを踏まえてこいつには気をつけなければならないと本能がどくどくと血潮を通して教えてくれる。だから殴りかかったりしない。
「まぼろし祭りが通じるなんて甘ぇんだよ、出直して来いやぁガキがあ!」
 憎々しそうに顔を歪めて笑うアギエルの様子にはぞくりと冷たいものが走ったけれど、城山は神崎が飛びかかったりしないようにがっちりと両肩を抑えたままでいたから平静でいられた。他人の体温というものがどれだけ意味があるのか初めて知ったように神崎は思った。もちろんそれについて口になどするつもりもないが。
「次元破ってくるなんて、お前人間? ま、いいけど……今回は引いてやるよ」
 何を言っているのか意味を理解できたのなら城山も神崎もきっと人外な存在ならそれができたろうに、2人はただの人間であったからアギエルが言った意味を理解しないうちに通常の教室にいた。そこにはドアのあたりに夏目の姿もあって、目をパチクリさせている。そこにいないはずの彼らがここにいて、それをどう説明しても誰にもきっと理解してもらえない。けれど確かに夏目は見てしまったのだし、見てから数回目をこすった。それでも事実は変わらない。つまりは、急に現れた神崎と城山の姿を目撃してしまった危篤な人間と言えよう。そしてそこにはさっきまで神崎らが見ていたアギエルの姿はない。だが夢ではないことを触感で夏目は分かっている。結局、



「帰ろっか? アレ……、傷痛まない?」
 じくじくと滲む頬の抉られた傷が血を滲ませていたがために夏目は当たり前のように声をかけた。返って来たのは「うっせ」という神崎からの強がりだったから夏目は気にしてやらないことにした。気にして欲しい時は神崎から何らかのアプローチがあるはずだ、そう思って。というよりむしろ、城山がぼんやりしたままなかなかいつものように神崎さん神崎さんが始まらないことのほうが気がかりだったりもするのだが。



  アギエル



 本当にあんな女がいたのかすら記憶の混同であったりする可能性もあったけれど、神崎から見れば城山が途方にくれた表情をしているし、城山から見れば神崎が今の状況に慌てた様子なのだから2人で同じ何かを見ていたことは確かだと分かった。何より傷はそこに痛みを伴ってあるのだから事実に違いないことは確かだ。
 どうせ見るならいい夢がいいに決まってるのに、痛みを伴った夢を見たなんてお笑い種だ。だからこそ確かにアギエルはいると神崎は思う。再び会いたくはないけれど、それでも彼女は確かに存在してしまったことを思ってしまう。
「ねぇ、神崎君。今日どこにいたの」
「教室に決まってんだろ馬鹿野郎」
 お互いにしこりの残りそうな答えを覆ることができそうにない事実を口にしながら神崎、夏目、城山らは帰路に着くのだった。


いたくない居たくない痛くない


title:悩みの種

12/01/13

三日連チャンで午前出勤なネギでございます。
帰りが夜十時くらいなので何をする時間もない感じです。うーをーーー、とか言葉にならない思いを抱えています。
もはや仕事ばっかりで金を使うヒマもありません。使える金も微々たるものなんですけどね…(笑)

この文章は 産卵神崎 として書き始めたものでした。しかし神崎は産卵しませんし、決着すらついていない…そんな内容になってしまいました(笑)。当初とは大分変わった感じです。
産卵序章のつもりで書きましたがどうなるかはまったく分かってません。うまく逃げ切れたというだけの話ですからアギエルに再び狙われる話を書けばいいだけですし。
もしそんな話を書いてしまえるのならやっぱり産卵を希望したい気持ちでいっぱいなままのネギでありんす。おやすみい。
2012/01/13 01:12:45