13.


 痛みを感じていないかのように、神崎の攻撃を食らって頬の片側を腫れさせた顔をしていても青髪の男はニヤリと嗤ってみせる。その嗤いはひどく薄気味悪い。そして、どこかで見たような笑みだと神崎は相手から気の遠くなりそうな強い拳を食らいながら思っていた。食らった瞬間に記憶が短く飛ぶ。その後に気がついた時には身体は地面スレスレに倒れてしまいそうになっているし、頭もぐらぐらとしてまともなことなど考えられないような痛みを放っている。それでも倒れてしまえばもっとダメージは深刻なものになっているのが本能的に解っているから、慌てて自分の腕や手の平をエサにして倒れ込む前に起き上がる。目の前の青髪がひどく残酷な獣のように映る。痛みも疲れも感じない獣。そんなイキモノなどこの世にいるはずがないのに。疲れを感じていないのを裏付ける素早い動きと、弱らない力に勝ち目など無いと神崎が諦めに目を閉じかける。
「おぉらぁ〜〜〜ッッ、死ねッ。死・ね・ッ!!!」
 地にひれ伏す前に容赦なく神崎を蹴りまくろうと構えられた青髪の足が見えて、咄嗟の判断だった。素早く神崎はゴロゴロと転がり、うまく寧々の部屋から出口への道を目指す。カッコワルイとか今はそんな状況ではない。この部屋の中にいるのはまずい。入口付近でふらつく頭を押さえながら立ち上がり、すぐさま寧々の部屋から外へとドアを蹴りあげて元気な姿を見せつけながら出ていく。決着はついていないと男は追って来るはずだ。アパートの階段を下りて、青髪の登場を待つ。神崎としては単純に寧々の部屋をあれ以上メチャクチャにしたくないと思ったのだ。
「だ、だいじょぶ、じゃ、ないッス…よね?」
「ん、」見た先には由加がいて、由加に教えるようにアパートに向けてアゴをしゃくってやる。相手は今すぐ神崎を追って来るはずだからだ。
「や。私は最初から今まで、逃げながら隠れながら、見てたから知ってるッスけど……神崎先輩マジパネぇッス!やっぱ、」
 来ない。
 寧々のアパートの出入り口を見つめ続けて一分とか、二分くらい経ったように思われる。詳細な時間は腕時計もない神崎には不明だが、どうやら神崎の思惑はすっかり外れて、あの部屋の中では神崎はただ逃げた弱虫野郎になっている確率が1000%を超えているのではないか。そう瞬時に勝手に想像したためイライラが募り、失い掛けてきた力が湧くような心持であった。もちろん体力の回復など微々たるものであったのだが。
 もう一度、戦場に男は戻る。仲間と、己を守る闘いだ。そう信じて。


********



「何だ。尻尾巻いて逃げたんじゃねえのか、カンザキ君」
「テメェの女の家、壊したくねえんなら降りてこいよ」
「ヤ、だね。」
 青髪が強引に寧々の唇を吸うように奪う。寧々の顰められた表情に、それを望んでいるわけではないということを悟った。疲れを知らない青髪は、手のつけられない野獣になっている。
「カス野郎。頭も青いけどケツっぺたも青いんじゃねえか、アァ?」
 言葉が言い終わる前に神崎は動いていた。素早く二人の目の前に足を踏み出し、寧々の横を掠めるように振り抜かれた拳が、小気味良い音を立てて青髪の胸元にヒットした。よろめく相手と後ずさる寧々と、神崎は間を置かずして男の腕を引っ掴む。どうやら本当に彫っているらしいタトゥーの痕を見下ろしながらプロレスよろしく腕を捻る。相手の腕をもっと近くでよく見てやろうと思ったのだ。青とか緑とか赤とかに狭い範囲ながらも彩られた腕は人間のものではないように見える。もちろん神崎は刺青の類など見慣れていたのだけれど、彼自身はそれを彫ってはいなかったから。
「お、おお…やっぱ、あるじゃ、ねぇか…。カス野郎はカスらしくラリッてるってかァ」
 腕を捻りながら相手を投げ飛ばしてやる。もはや寧々の部屋がどうこうなるのは構いやしない。相手はヤク中の正気でない男だ。先に寧々が言った『自首』の意味をようやく理解した。タトゥーの柄に隠れて密かに存在するクスリを打った後のある筋肉のついた腕がひどく哀れに見えた。確かにヤクザはクスリともつながってはいる。けれどもヤクザはクスリをやることはしない。それは近い将来、身を滅ぼすものだということを知っているからだ。クスリにハマッてしまったものは破門となるぐらいにご法度の世界だ。それを知らない者か、それを知らないうちに手を出してしまった者がクスリの虜になる。不快感のない世界を求めて逃げてゆくソイツラはひどく弱く儚いイキモノだ。
「大森ッ、チェーンでコイツ縛れ!」
「無理。そのぐらいでなんとかなるんなら、アタシがなんとかしてるって」
「違ェ! 俺ごとグルグル巻きにしやがれ…ッ!!」
 神崎の言葉に思わず寧々は息を呑む。そもそもこの男が言う意味がまったく分からないではないか。二人がグルグル巻きになったからといって、どうなるというのだ。神崎もサトシもばかやろうだ。おおばかやろうだ。そう思っているうちに催促の低い声が聞こえる。
「す巻きンなって、ぶん殴ってやる…! ヤクが切れたら痛みも哀しみも、ぜんぶ思い出すだろ」
 もちろん苦しめたいだけではないことは、神崎の真っ直ぐな瞳が寧々に物語っている。
 寧々としては甘いのかもしれないが、そこまですることはないのではないか、と思う。確かにクスリの現行犯逮捕くらいのことは必要だとは思う。けれどその前に形が分からなくなるかもしれない程に神崎に殴らせることは人情として憚られる。なにより奪われてしまったチェーンは今手元にない。きっとサトシが隠したのだろうと腫れた顔をした青髪の男を見つめる。動こうとしない寧々を見て神崎は解っているというような顔をして片眉だけを上げてにやりとして見せる。
「死ね、って言いながら殺すこともできねえこたァ知ってら」
 腕を極めながらの神崎の拳は効いただろう。殴る直前に放された腕は重力のとおりに神崎から遠ざかっていく。にぶい音が聞こえるかと思ったけれど、それ以上に殴り付けた音が鋭くて腕が折れたかどうかは音では判別不能。ただ、苦しげに腕を押さえている青髪を見ればもしかしたら折れた可能性もあると感じた。憎しみに歪んだ瞳が神崎を憎々しく睨みつけた。その目を真正面から捉えたとて特に感慨にふけることはない。ただ、相手のことを見下ろしただけだ。どうせクスリの効き目で相手はすぐに復活する。
 先程、神崎が極めた腕が思った通り可笑しな方向に曲がっていたけれど、ぞれについて痛みを訴えるでもなく、まるで自分の意思でこうやって曲げてますよと言わんばかりに骨を武器にするように殴りかかって来た。読めない動きではなかったけれど、その早さにはすぐに到達しないから神崎は骨の痛みをガツンと感じた。ヤク中を馬鹿にしていたわけではない。記憶の中のヤク中よりも素早い回復だったから驚いただけ。年齢と常の体力の違いかもしれないけれど、相手は何食わぬ顔を不機嫌に歪めて目の前に立っている。聞いてもいないのに青髪は冷たく静かに告げる。
「俺、ケンカに負けたこととかって、ないから」
 俺、ケンカに負けたことあるかって、聞いてないから。
「あと俺、マジオマエ殺すから。」
 だから俺、マジ聞いてないから。

「お前、死ぬから。」
 俺、死なねえから。あと、何回も同じこと言うヤツ、馬鹿だから。



「やっぱイイわ、俺がイワす」
 それが寧々に向かっての言葉ということが寧々にだけ分かればいいと思った。確かに寧々には伝わっていたのだと思う。小さく寧々は頷いて、部屋の端へと移動していく。音もなくソロソロと移動していくのは、青髪が急に爆発しないためだろうと想像に難くない。いくらラリッているからと言っても相手は正気がまったくないわけではない。冷たく神崎が告げた言葉の意味を理解できない訳ではない。ただ単に黙っていただけだ。意味を知って、あとは拳が強さとか弱さとかいうものを確かにするだけだろう。
 ぶらりとだらしなく下がった手を気にすることなくゆうらり、と空気に溶け込むように男は近づいてくる。もちろんそんな様子は想定済みだ。相手は正気ではない。だからといって狂気に染まり切っているわけでもない。今は一番脆く、そして強い状況なのだ。近くにいる女が守るべき存在であるならば目の前の男は火事場のナントカを出し切る可能性もある。相手をヤク中であると侮ることなかれ、そう思いながら向き直る。
「俺が、イワすぜ。」



 それが開始の合図だった。
 相手の拳は見えた。一撃目は不意打ち気味に入る可能性もあるので遅めに放ってくる可能性もあるが、決まる可能性は極めて高い。これは野球のセオリーだ。しかし野球だけに留まらない男の世界の一部の姿でもある。先制攻撃を放つ方が有利か不利か、それは先制攻撃が当たるか当たらないかで大いに違う答えになる。本来ならば当たったならば、当たった方が有利になるというポイントの話をする。しかし事実上は真逆だということを思い知る時が、八百長という名の実力勝負の中で感じることになる。そして今行われているのは実力勝負の中途であるということ。そして神崎は八百長をする気などないということ。だが、この闘いがセオリーに敵わないであろうことは、相手が正気でないことからも伺える。
「ほ〜〜ぉ、やるじゃねえか。マグレかい?」
 拳を振るよりも神崎は足技を使う方が元より得意である。牽制気味に出す攻撃ならばむしろ、ジャブよりもミドルの方が早い可能性もある程に得意だと自負している。相手のスピードをさらに見てやろうと挑発気味にニヤリと嗤って待つ。相手は拳か蹴りを放ってくると思えば、部屋に置いてあったCDを拾って投げ付けてきた。これがヤク中の戦法でも戦略でもない、闘争本能に則ったなにか、であることには間違いないであろう。ただ、この部屋にあるものは寧々の持ち物であることに胸が痛む。だからといって胸を温めることが瞬時にできるわけではない。むしろ、相手を鎮めることが寧々の持ち物を守ることにつながると信じて投げ付けられたものを受け取る。
「言ってんだろ。狭ェトコでうだうだしてんのは、合わねんだよ!テメェみてえな小物と違ってなア」
 相手の目のきらめきを目にしてからすぐ、寧々の部屋の外へ逃げられるようにドアの外に立つ。そんな神崎を見て追い詰められたハイエナかなにかのように思った青髪は冷たくバカにしたように近づいてくる。その様子を見れば自分が弱いイキモノのように思われていることはアルイミ武器であると気付く。そう、なんのスポーツでも一緒だ。強ければ他からマークされ負ける。しかし強いとしても、強いと認識されなければマークされずに己の実力を発揮することができる。それこそが最強の武器なのだと。
 目が爛々と輝いているのは正気の割合が減ってきているからだ、と神崎は思う。やはりヤク中の相手には持久戦に持ち込むしかないのだ。常人では出し得ない力を出す可能性がある。しかし研ぎ澄まされた感覚はよくクスリが効いた時間の他にない。ついでにそれは長続きはしない。何故ならばクスリには耐薬性があるからである。身体が弱く普段から風邪やぜんそくといった薬を常用する者は他の人よりも耐薬性がある。耐薬性……つまり薬に耐性を付けてしまったことを指す。それは望んでなった結果などではなく、持病を持つ者に多い性質と言える。要は、病院という文字の遠い者の方が薬に対する耐性はひどく弱いということ。&薬=病気を消すもの ということでないということ。そうでないと青髪のような男の説明がつかないだろう。そう、薬が及ぼすことは改善以外の他の悪影響も有り得るということ。
 部屋を出ようとしている神崎を追いかけるように、急に駆け寄ってくる。それを見越した神崎の動きは早かった。既に靴を履いていたし、アパートの階段では捕まりたくない。背を向けるのは普通ならば有り得ないことであるが、階段を無理なく早く降りるためにそうすることを選んだ。青髪がいくら早かろうと間合いが離れている以上、捕まるわけはないからだ。そう思いながら背を向けて数歩、カンカン、と安っぽい階段の金属音が止まる。そうであるはずはないのに、神崎の背中には確かに衝撃が走った。どうやら青髪が放った蹴りらしい。あの間合いを詰めるには素早く飛び蹴りかなにかをしたとしか思えない。しかし咄嗟のことで振り向くことすら敵わない神崎はそのまま階段を音高らかにガダガダとずり落ちてゆく。神崎を呼ぶ声が上から聞こえた気がしたが、もしかしたらそうであればいいな、と思ったゆえの幻聴かもしれない。
 起き上がろうとした時に見えたのはGパンの足が仁王立ちしているらしいこと。青髪がGパンだったかどうかなんて分からないけれど、この足が男のものだということは判別できた。危機を感じて素早く起き上がろうとしたが遅かった。ほんのコンマ数秒前までは佇んでいた足が今は音を立てて激しく神崎の身体を蹴ってくる。それは一発や二発といったカワイイものではない。転がっているものがある限り、ただ邪魔なサッカーボールを蹴るかのように繰り返される行為。悪意はあるのだろうが、それは蹴る側にしては意味の深いものではなく『すべき行為』だとでも主張するかのように。
 堪らず、力を絞って神崎はゴロゴロと情けなくも地面を転がる。逃げるため、立ち上がるための行為だ。間合いを離してから片膝をつきつつ立ち上がる。青髪はニヤニヤと冷たい笑みを放ったままで余裕ムードを醸し出していた。弱い、とでも思っているのだろう。自分は最強だ、と。神崎はどうすべきか頭を回転させた。しかしすぐに回転するような頭ではない。先程まで蹴られていて錆ついている、ということにしておくことにする。脳内で考えるなら誰がどう思おうと罪ではないのだ、勝手に思わせてくれ。などと阿呆なことを考えながら神崎は構える。静かに近寄る青髪が揺れていたからだ。いざ立ち上がってみればひどく脇腹が痛んだ。きっと、青髪に蹴られた箇所の一部の骨にヒビが入っている可能性もあると感じる。だからといって今すぐどうこうできる状態ではない。少し上げた視線に寧々と由加の姿が映った。だからこそ、余計にヒビぐらいでどうこう言ってはいられない、と思うのだ。
 ズキリ、痛んだのは一瞬。神崎が駆けだした瞬間に痛みは空へ溶けた。急に駆け寄る神崎にはさすがに青髪も対処できず、目を見開いたところでボディーへ拳を一撃、頬へ拳を一撃、少し間を置いて…後ろ回し蹴りを一撃。パァン、と破裂するみたいな音が道に響いてのけ反って倒れた青髪男が一人。暗くなった空とぼんやり浮かぶ街灯の下に倒れる男の姿はひどく不憫で情けないものに映る。神崎は構えた格好のまま青髪を見下ろしている。神崎が見た限り、クスリの力というのはこんなものでは枯渇することはないはずだ。決して気を抜ける相手ではない。だからといって寝た相手を蹴りまくる趣味はない。冷たく伸びたらしい相手の様子を見やるだけだ。もし今こうして体力回復を計っているのだとしたらかなりの策士だろうと思いながら、相手の様子を探るために少しだけ屈む。

「……ッ! 浅ェ、か…」
 神崎がすんでのところで避けた青髪の攻撃は空を切る。やはり、と神崎は冷静に思う―――浅いのは相手の読みではなく、ただ単に裏をかく気力の問題のような気がした。それについて論じる暇はこの状況にはまったくない、だから無視することにする―――。寝ていた体勢からの攻撃で風圧を強く感じる程の衝撃、それはひどく危険な領域であることに間違いない。やはり相手のクスリの効果は持続しているのだ。神崎は自分に分が悪いことを知って息を呑んだ。相手には知られないよう、静かにごくり、とちいさく。


11.08.22

神崎VS寧々元カレ編 です。
終わらなかったのは自分のせいです(笑)ま、しゃ〜〜ない、バトルマニアだから。


麻薬と闘いを絡ませてます。
青髪のサトシ君もそう弱いわけではないけど、たぶん普通のヒトレベルなんでしょうね。神崎とやってるわけだから。しかもケンカブランクある神崎とやってんだし。

しかしこの神崎大学生編はひどく神崎がアホなケンカをしてばっかりいるという(笑)
自分のためにケンカするのはどうやら止めたらしい。
自分の仲間のためなら、自分の地位を落としてもケンカする。
中学生レベルのまま変わってねえな、この男(笑)そんな彼が神崎らしい気がするって思うのはアッシだけすかい??

とりあえずまだ神崎がどうなるか思考錯誤しながら書いています。
もう少し続きますが、15くらいで終われば丁度いいかな、と思うけど、本当は20くらいまで続くような気がしているネギより。


11.8.25追記
最後の青髪のサトシ君が放ったのはモハメド・アリの伝説の攻撃ですかね??とか思う。

2011/08/22 23:49:00