人の多さに自分まで酔って、白昼夢でも見ていたのか?夜重は立ち尽くしたまま自問する。思い返せば思い返すほど、先ほどのことは現実ではなかったような気がしていた。
それを確実に、かつ簡単に確かめる方法はある。どうしてそれを放棄しようか。
気付けば彼は人混みを掻き分けて進んでいた。足が動くのは無意識で、初めは何かの引力にただ引っ張られていただけのようにふらついていた足取りも、いつの間にか確実な目的でもあるかのように力強く地を蹴り、走り出していた。
暑くもないのに首筋に汗が伝った。街の喧騒のなかに錆び付いた看板が風に揺られ、ギイと耳障りな音を発したときだった。


「マジ、かよ・・・」


2ブロック分、あっという間に駆け抜けた彼は他の店舗と変わりない、何の特徴もない出店の前で足を止める。ちょうど古びた銅縁の看板を提げる店の前だった。
カラフルに彩られたテントの下には色とりどりの瑞々しい果物が並んでいる。漂うのはツンと鼻を擽る芳醇な香り。その元へ視線を移せば鮮やかな黄色や橙色が目に飛び込んできた。そしてその横に据えられた看板にはチョークでこう書かれている。『先日、フルーツジュースをはじめました!』


「おや、そこのカッコいいお兄さん。 良かったらうちのジュースを飲んでいかないかい? 果汁100パーセントだから栄養もたっぷりで疲れに効くよ。 なんせこの人混みだからねぇ」


顔を青ざめさせて呆然と立ちすくむ夜重を見て、果物屋の婦人は彼が人混みに酔ったものと勘違いしたらしい。感じの良い笑顔で問いかけてきた。


「何がいいかい?」
「え、あ・・・じゃ、蜜柑・・・。 一番安いカップで・・・」


頼りなさげな自分の声をどこか遠くで聞きながら彼は言う。


「オレンジジュースじゃなく蜜柑ジュースかい?」
「ああ。 やっぱない?」
「メニューにはないけど作れなくはないよ。 蜜柑もミキサーもあるからね!」


蜜柑ジュースがなかったことに、少しホッとした夜重。しかしそれも束の間、婦人はミキサーをドンと叩いて豪快に笑いながら作るなどと言い出した。


「いや、ないならないでいいんだけど・・、」
「いいっていいって! お兄さんカッコいいし作ってあげるよ! それにもし美味しいなら新作として出せるしね」


夜重としてはむしろ作らないで欲しかった。確かに蜜柑ジュースが大好きなハノンに買っていってやりたいという気持ちはある。けれど蜜柑ジュースの存在は同時にあの妖しげな魔女の存在をも肯定することになるからだ。
だが浮かない顔でいまだ若干呆け気味の夜重に構わず、婦人は楽しそうに蜜柑を切り、作業の手を休めることはない。鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気を漂わせ、おばさんがあと20歳くらい若ければねぇ、との常套句を並べる始末だ。


「目の保養になったお礼として一個大きなカップにしてあげようねー」


そこで漸く夜重はハッと顔を上げた。そして無愛想に顔を顰め、睨むような目つきで彼女を見やる。


「それだったら250ルミから150ルミに負けてくれよ、オバサン」


どうやら、彼はいつもの調子を取り戻したようだった。





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