いつでも真白は、俺に一直線だった。
たとえば、飛び降りる時とか。
「………………っ!」
暑さに喘ぐ。あの頃と違って、もう『あつい』の使い分けくらい出来るようになった。自転車もある。
俺は自己最速スピードで登校の準備を済ませて、まるで転校初日のように必死でペダルを踏んでいた。普通の登校時間にはまだ全然早い。だけど柊先輩はもうランニングをしているだろうし、俺が着く頃には木葉も来ているだろう。
だったら、真白も。真白だって、登校は早かった。そりゃそうだ、家にいたって一人きりなんだ。出来るだけ早く木葉たちに会いたいに決まってる。
誰だって、家に一人で『残りたく』はない。
俺は嘘つきだ。最低の野郎だ。あんだけ好き勝手言っておいて、いざ白野沢に戻ってきてみれば、迎えに行くどころか真白のことを全部忘れていたじゃないか。あついの漢字がわかったから何だ、しろのさわじゃなくて白野沢だってわかったから何だ。真白のことを忘れてるじゃねえか。
真白は、俺が来たから飛び降りた。
こんな簡単なことだったのに。
覚えてないなら、迎えに行けないなら、最初から助けなきゃよかったんだ。
いつも俺は、中途半端な優しさで真白を傷つけてばっかだ。
真白は俺が迎えに行かなければ、飛べない。泣けない。どこにも逃げ場がない。だからあんなにも縋っていたのに。いなくなるなと、泣き続けていたのに。
あの写真をいつ撮ったかも、思い出した。いきなりいなくなった真白と俺を捜しに来ていた雛乃さんに見つかって、それでも真白は泣き止むことなく俺にしがみついていて。もとより俺たちの写真を記念にと撮ろうとしていたらしい雛乃さんは、持っていたデジカメをその場で俺たちに向けた。真白が泣き止むまで待ってくれと言った俺の要望は見事に却下され、それがこうして今の俺を動かしているわけである。雛乃さんにはきっと、全部わかっていたんだろう。
やがて学校にたどり着くと、案の定柊先輩は、
「……いない?」
しんとしたグラウンドに、柊先輩の姿はない。時計を見上げるとまだ七時。さすがに早すぎたかと歯噛みをした。
ようやく落ち着きを少し取り戻して、荒い息を落ち着けるためにその場に停車する。とてもじゃないが教室に入る気にはならなくて、この場で真白を待つことにした。
「あつ……」
じりじりと俺を焦がす太陽。馬鹿じゃねーの、と侮蔑されてる気さえした。
その場に立ち続けて、どのくらい待っただろう。帽子を被れと強要する母親がいなくなったせいで、丸出しになった俺の頭が熱にやられる。目眩の中に、白い光。
……白?
「真白!」
「う、わっ!?」
暑さのせいでぼんやりしていた視界に入った光は、ただの幻覚だった。その場に現れたのは真白でなく、木葉。柊先輩と並列になって走ってきた木葉は、急な俺の大声に飛び退く。
そこに真白はいない。
「び、びっくりした……どしたの彰、何でこんな早いの? ていうか今、真白って」
「……色々、事情があってな。真白は?」
「え? 真白?」
予想外とでも言いたげな木葉の表情。柊先輩と顔を見合って、「ああ、そっか」と頷きあう。続いた木葉の苦笑いは、俺にとって嫌な予感でしかなかった。
全身を駆け巡る、直感。
「真白、お休みだよ。……今日、真白のお母さんの命日だから」
「黒柳は知らないよな。神崎、毎年この日は必ず休むんだよ」
グリップを握る手に、力がこもる。溶けそうな頭の中で、本当の本当に、最悪のことになってしまったことを悟る。
スラックスのポケットに突っ込んでいた写真を引きずり出す。ぐしゃぐしゃに折れ曲がってしまったそれは、それでも色褪せずにそこに残っていて。これを撮った次の夏、真白の母親は死んだんだろう。
「木葉。柊先輩」
「ん?」
「真白を一人にしないでくれて、ありがとうございました」
俺がいなくなったあと、真白に話しかけてくれたのは木葉だ。妹のように可愛がって、仲良くしてくれたのは柊先輩だ。母親が死んで、完全に拠り所をなくした真白が、今まで生きてこられたのは木葉たちのおかげだろう。
そして、俺と真白を引き合わせてくれたのも今の仲間だ。
木葉たちがいなければ俺は真白にまともに話しかけることも出来ず、真白も俺が迎えに来るまでずっと待っていただろう、結果、何も動かず何も変わらず、俺はこうして真白を思い出すこともなかった。
だから、やっぱり、守ることにしよう。真白も、木葉たちも、俺も。全部、今の世界を守るために、俺は真白を迎えに行く。
「彰!」
自転車に跨って走り出そうとした俺を、木葉が呼び止める。首だけで振り向くと、誰もが心を許してしまいそうな笑顔でピースサインを突き出していた。
「あたしたちが、ついてるからね!」
「……おう!」
それをスタート合図として、腰を浮かせ一気に漕ぎ出す。後ろから「真白の家は駅のほう!」と助言が聞こえて、礼としてスピードを上げた。
車輪を、回す。
きつく踏んで、力強く走りだす。真白を迎えに行くために。
軋んだ音が聞こえて、ゆっくりと回転する。止まっていた何かが、動き出す。
歯車が、回った。
「だああああああぁあああぁあああぁあぁああああっ!」
道をひた走りながら、どうしようもないごちゃごちゃの感情を吐き散らす。無意味な声となって出たそれを下らなく思いながら、すっきりと片付いていく心境に俺は満足してしまったいた。
ただでさえ暑さで干からびかけていた喉は、限界を訴えるようにきりきりと痛む。ふくらはぎも鈍い痛みが蔓延し始めて、早くも筋肉痛の予兆を醸し出す。
歯車は回るものでも、回されるものでもない。回すものだ。自分で今を作って、自分の足で回して。直視せずに後回しにしていた『過去』はようやく今、回り出す。
それと同時に、両親の死ともようやく向き合って。
俺は今、幸せか?
俺が自転車を停めたのは、あの日、真白が飛び降りたところだった。
何となく、真白がいるならばここだという確信があったのだ。
丘を上がって、村の全体が見渡せるその場に立つ。ここからなら駅も丸見えで、雛乃さんに何日の何時頃、俺がこの村に来るということを聞いていれば見つけることなんか簡単だったろう。
真白は俺の目に見えるところにはいない。的外れだったか、と十年近く前に来た場所で立ち尽くしかけた俺の視界に、記憶より更にぼろぼろとなった小屋。物置どころか、今じゃ空き家だ。壊れる機会を失って、潰れる寸前のような。
……まさか、と一歩踏み出す。触れただけで指先が茶色く汚れる扉を少しだけ横に引いてみると、あっさり開いてしまった。躊躇いながらも、扉を開いた先に靴がワンセットだけ残されていたのが見えてしまったから、とどまることはしなかった。
「………………」
人が一人ようやく入れるような玄関で靴を脱ぎ、驚くくらい小さいサイズのローファーと並べる。中から物音はしないが、気配はある。
これが、真白の家。
昔からずっと、今は一人で住んでいる、家。
婆ちゃんの家みたいに広くはないから、というより普通より遥かに狭いため、廊下はまっすぐに一本しかなかった。玄関から三歩で最奥までたどり着く廊下の先に、
「……彰……?」
真白は、一人でそこにいた。
物が少なすぎる部屋、息苦しささえ感じる狭さの中で、セーラー服姿の真白は何でもなさそうに座っていた。別に泣いているわけでも、ましてや笑っているわけでもなく、部屋の隅に無理やり設置されている仏壇をじっと見つめて。
仏壇の前に飾られている写真には、真白の母親。ぱっと見で母親だとわかるほど、その人も色素が薄かった。髪は漂白剤をかけたように限界まで薄いミルクティー色、肌は洗ったみたいな白。見るからに優しそうな笑顔の母親と向き合って、真白は泣きもしていなかった。
「彰、どうしてここにいるの?」
「……おまえこそ」
「わたしは……今日、お母さんの死んだ日だから。お墓参りとかされると気が引けるし、そんなお金があるなら生活費にって言って、お母さん、お墓作ってないから……特にすることはないし、学校行こうとしたんだけど」真白はそこで一回躊躇って、「……毎年、この日になると足が動かなくなっちゃう」緩い苦笑いを浮かべた。
やっぱり、救いようのない馬鹿だ。誰ってそりゃ、俺が。
毎年毎年、一人きりでこの部屋に籠もって、仏壇と見つめ合って。本当は泣きわめきたいんじゃないのか。一人でこの部屋にいることが寂しくて怖くて仕方ないんじゃないのか。そうしないのは、真白が不器用だからでも、母親の墓がないからでもなくて。
俺のせい。ずっとこうして苦しめてきた、俺の責任。
俺を責めもせず、泣きもしない真白に、俺は合い言葉のように呟いた。
「もういい。もう、一人で頑張るな。真白」
「……ま、」真白の目が見開かれる。「っし、ろ?」
今までに見たことがないくらい、真白らしい真白の表情。今までの『神崎』は、真白に似てはいたが真白ではなかった。俺が望んだ通りの、泣かない強い少女を装っていた。
名前を呼んだことで、泣くかな、と思ったけど、十年間泣かずにいた少女は強がりを身につけていた。意地とでもいうのか、それとも、俺の約束を忠実に守っているのか。それとももう、泣き方を忘れたのか。もし最後だったら、それは、……俺は、取り返しのつかないことをした。
真白は人間らしい表情で、人間らしい動きで、年相応ではない少女の顔で、あの頃とまったく同じ動きで、動揺を精一杯表現している。
「ましろ、って、え、だって彰、は……わたし、おぼえ、……わたし、迎えはもう、こない……ひとり、ぼっち、……だって、思って、」
「……一人じゃない。昔も言った。おまえは、生きるべき人間だし……俺がそばにいるから、生きる意味をなくさせはしない。忘れるな、思い出せ」
もっとも、すべてを忘れていたのは俺だけれど。
「彰、彰……彰、……彰? ほんとに、彰? わたしのこと、覚えてるの?」
「俺だよ、真白」
混乱と驚愕の狭間にいる真白を宥めながら、俺は別のことを考えていた。この崖の真下にあったソファやらは多分、真白が家の中から引きずり出したそれらを上から落としていたんだろう。小さな体で、後先考えず。
小さい頃は、それでよかった。でも今は。
今はもう、俺も真白も、飛べない。
俺があの時下にいなければ、あんな小さなソファやクッションは吸収剤なんかにはならなくて、真白は病院行きだっただろう。けれど真白はあの日あの時のまま時間が止まってしまっていて、それがわからない。
だから俺は、あの時の嘘を一つ、謝らなければいけない。
「真白、ごめん」
「……いいよ、彰。許すから……だって彰は、こうして迎えに来てくれた。やっぱり、わたしを助けてくれるのは彰だけなんだよ」
「違う」
縋るような真白の言葉を遮って、膝を畳に擦りながら近づいてきていた動きまで止める。真白はきょとんとした顔で俺を見て、まだ泣かない。
「俺はもう、おまえを助けられないんだよ。あの時俺は、迎えに来たらまた飛んでもいいみたいなことを言ったけど、あれはもう無理だ。……俺たちは、大人になりすぎた」
「………………っ」
でも、と続けようとした俺を拒絶するように、真白が不意に立ち上がった。驚きを隠せない俺を、混濁した表情で見つめる。
「真白……?」
「……な、んで……彰が、そんなこというの」
真白は小さい頃と同じ顔の歪め方をして、言葉を詰まらせた。それを無理やり声にすれば、今にも泣き出してしまいそうで。「泣いていいよ」の一言が言えないまま、真白の悲痛な表情に鳥肌を立たせる。
「わたしは約束守った! 泣かなかった! だったら、飛べる! だって、約束を守ったわたしを、彰は、助けてくれる!」
ぎりぎりの細さで繋がっていた何かが切れたように、真白は叫ぶ。薄氷を連想させる金切り声。
「待てって真白、俺の話を、」
「わたし、飛べるから! 彰、見てて!」
「っちょ……おい!」
廊下を駆けて、裸足のまま外へ出てしまう真白。俺もそれを追いかけて、スニーカーに無理やり足をねじ込んで外へ出た。あの頃は俺も真白も裸足だったのに、今裸足なのは真白だけ。
真白は柔らかな草を素足で踏み潰しながら、崖の近くへと駆けていく。下を覗き込んで、ソファなどがあることを確かめて。
「わたしは何度だって、飛んでみせる」
「ば、っ……やめろ!」
間髪入れず飛び出そうとした真白の腕を掴んで、何とか引き戻した。二人して地面に転がって、制服を土埃でコーティングしながら、俺は真白の腕をきつく掴む。白すぎて細すぎるその手を、地面に縫い付ける。
「何で、止めるの」真白は怒りと悲しみが混同した顔。
「おまえは飛べないんだよ! 俺がいようがおまえが強くなろうが、時間は勝手に進むし、俺もおまえももう小学生じゃない! もう、あの時とは違う! いつまでも変わらないままではいられないことくらい、わかれよ!」
「……わかんないよ、そんなの! だって、そんなの、そんなこと言ったら、わたしは、っ……なんのために……っ……」
瞳を濡らし、大きく彷徨わせながら真白は揺れる声で怒鳴る。俺はまたあの時みたいに、今度こそ俺が真白を泣かせるらしい。
でも、教えるべきなんだよ。俺があの頃のまま真白を止めてしまったんなら、動かすのも俺でなくちゃならない。俺にしか出来ない。自分の母親も俺も、戻ってくると信じて疑わなかった真白に。
もう、歯車は回ってしまっていること。
「おまえは今、おまえのために生きてる。誰のためでもなく、おまえの意志で、おまえが選んで、おまえが生きてるんだよ! 何のためにだとか、誰のためにだとか、そんな簡単に人が生きる理由を片付けられないって、昔も言っただろうが! 俺を待つためだろうか何だろうが、俺を待つっていう生き方に決めたのは、おまえ自身だろ!?」
「………………」
「いいか、真白! おまえはおまえのために生きてるし、そうじゃなきゃいけねえ!」
俺が惰性で生きてるみたいに。無感情でも何でも、両親が死んだこの世界ででも生きるって決めたように。世界を受け入れて、生きているように。
俺の独白を聞いていた真白は、
「……わたしは……幸せ、なのかなぁ……?」
泣いた。
瞬きを一つした刹那、真白の頬を雫が伝った。ようやく枷の外れた涙腺は、壊れたように涙を放出し続ける。相変わらず拭おうとしない真白は、涙のせいでぼやけて見えにくい瞳を細めた。
俺は十年分の涙をすべて出し切らせるように、追い打ちをかける。それが、残酷な真実だと知っていても。
真白の手首を解放して、そのまま立ち上がらせた。真正面で向かい合う。
「さあな。ただ、昔のおまえが幸せだろうと未来のおまえが幸せだろうと、今を生きてるのは今のおまえだ。いくら願ったって、もう時間は戻ってこねえし、幸せな未来が自分から来るはずがない。……おまえの母親も、もう二度と帰ってこねえんだよ」
俺の両親も。あの時俺たちのそばにいたはずの家族は、もうどこにもいないのだ。そんな世界を受け入れて、悲しみを受け入れて、それでも幸せを求めて足掻け――と、婆ちゃんは言っていた。
あの時は、濁した。だけど今ならはっきりと自分の答えが出た。
曖昧も無回答もなしで、俺の感情を。
「真白。俺の両親もな、つい最近死んだんだよ。だから俺は白野沢に来たし、こうやって真白に会いに来られた。俺はそれを、」
答えは、一つ。
「今現在、今ここにいる俺は、今を幸せだと思える」
そうだ。悲しいかどうかなんて、そんなのどうでもいい。俺は両親が死んだことを認めて、受け入れて、その上で今の生活が幸せで、崩したくないものだと思える。少なくとも、両親が死ぬ前の世界――たとえそれが、真白と一緒にいたあの三日間だとしても、そこに戻りたいとは思わない。
二度と会えない両親がいる代わりに、そうならなければ会うことすら敵わなかった人たちが白野沢にはいる。俺はそれを守りたいと願ったし、白野沢で回る歯車を止めようとも思わなかった。
だったらそれは、幸せってことでいいんだろう。
幸せと不幸が折り重なる世界で、俺は幸せでいることを選んだ。そこにいる真白が、不幸だと泣いていたとしても。
「真白、おまえはどうだ?」
さあ、ターンチェンジ。今度はおまえの番だよ、真白。おまえはあの頃の、幸せなのに泣いてばかりの生活に戻りたかったのか?
「おまえは今、幸せじゃないのかよ?」
母親のいないこの世界を。父親のいないこの世界を。飛べないこの世界を。満足に泣きわめくことすら出来なかったこの世界を。自分のことを覚えていない俺がいるこの世界を。誰も真白の痛みを知らないこの世界を。そんな世界を、受け入れないのか。
真白はぼろぼろと泣いたまま、唇だけを震わせていた。何かを喋ろうとするたび、涙にかき消されて。だから俺はそんな真白を、優しく、
「なあ。答えろよ、神崎真白!」待ってやらない。
俺の大声に顔を上げ直した真白は、空を見上げて涙を一回飛ばす。けれどすぐにまたその顔は涙でぐしゃぐしゃになって、けれど空へ響く声は真っ白く綺麗に。
「わたしは、今、幸せ!」
雲一つ無い青空へ、真白は叫ぶ。その声で雲が出来るんじゃないかってくらい、淀みなく。
「お母さんいないしお父さん行方不明のままだし彰いなかったし泣けないし飛べないし誰もわたしのことわかってくれないし、いやんなるくらいめちゃくちゃ苦しい世界だけど、でもやっぱり、彰が戻ってきてわたしのこと思い出してくれて、何も言わないわたしのことわかろうとしてくれるみんながいて、何より、白野沢のあるこの世界が! どう理由つけたって、わたしは今の世界が、大好きだよ! やばいくらい、幸せ! 消えてほしく、ないよ!」
「俺もそうだな、大好きだし幸せだ!」
言ってることもやってることも滅茶苦茶だし、こうやって言葉の羅列にしてみれば、やっぱり真白は到底恵まれてるとはいえない人生だ。でもそれらを全部覆す、最高にして唯一の幸せが、真白にも、俺にもある。
それは、白野沢にいること。
何もかもが上手くいく、と婆ちゃんが言い切るほど幸せな世界が、この白野沢には存在している。
真白はすっきりとした顔を正面に戻したけれど、涙は止まらない。むしろそれは量を増していて、
「でも、やっぱりっ……飛びたかったよおおおぉぉおぉおぉぉおおぉおおぉっ!」
心からの叫びを、偽ることなく叫んだ。ふらりと前に倒れかけた真白を、慌てて支える。俺に抱きつく形となった真白は、今とも昔とも似つかない、子供のような泣き声を上げた。
真白に取って『飛ぶ』ことの意味。それは、『いなくならないで』だ。
誰に向けた叫びなのかはわからない。母親か、父親か、もしくは俺か。かつて俺の目の前で飛んでみせたみたいに、真白は駄々をこねない代わりに『飛ぶ』ことで意思表示をしていたのだ。
だけれどそれももう出来なくなって、真白は飛べない。いなくなるな、と我儘を言うことすら出来ない。
あまりにも真白が報われない、と俺が顔を歪めたそのとき。
「まだ、飛べるよ!」
どこか離れたところから、よく通る力強い声が響いた。真白は泣き声を止めて、疑問符を浮かべた顔で俺を凝視してくる。二人で並んで崖下を覗き込んでみる、と。
そこには、木葉を初めとする全員が揃っていた。木葉も柊先輩も由鶴も一ノ瀬も夜宵も、雛乃さんまで。全員制服姿で、登校してからわざわざここへ引き返してくれたのか、全身汗で湿っているのがこの距離でもわかる。
「何で、ここに」真白が呆然と呟く。
「真白が飛べなくても! 彰が助けきれなくても! あたしたちがいるから、まだ飛べるんだよ! そのためにあたしたちはいるんだよ、真白! 同情なんかじゃなくて、みんな、本当に、ほんっとうに、心の底から、真白のことが大好き!」
珍しく真剣な表情で叫ぶ木葉の声は、圧倒的な距離があるにもかかわらず明瞭に響いていて。
何で木葉がそのことを知っているんだ、とメンバーの中で一際身長の高い人へ目を向けてみると、口元だけで笑いながら肩を軽く竦めていた。あの人か。……でも、雛乃さんの性格からして、真白のことを本当に全部喋ったとは思えない。多分、本当に重要なことは本人から言わせるつもりなんだろう。
「アンタたちがどっか行ったって伝えたらこいつら、HRほっぽってここ来たんだよ。ほんと後先考えないっつか、馬鹿だよね。それを許して、こんなとこまで付き添っちゃうアタシも大概馬鹿なんだけどさー」
大して声を張り上げてもいないのに、はっきりと届く雛乃さんの声。汗も掻いていなければ平気なふりをしているけれど、その肩の揺れが大きいことに気付いた。あの人も、急いでここに来てくれたのかな。
「黒柳も神崎も、どっちかが欠けたらそれはもう、雛乃クラスの完成じゃないんだよ! 休みの奴のところには見舞いに行く、それが友達だろ!?」と柊先輩。凄い肺活量で、空気が揺れている感覚に陥るような声。
「今まで神崎の休み、何となくスルーしちゃってたけどさー! それ、多分、俺たち間違ってた! 本当に心配してんなら、迎えに行ってあげるべきだったよね!」と不安定に揺れまくる声ながらに、由鶴。
「何もわかんないかもしれないです! 私なんか、なんの頼りにもならないかもしれないですけど、それでも、せんぱいたちは私の憧れで、大好きなせんぱいなんです! みんな、お二人のことが大好きなんです!」必死なのが見て取れる、泣きそうな顔の一ノ瀬。
「今宵泣かしてんじゃねえよ! あと、俺は今宵のためなら富士山からでも飛べるんだから、こんくらいで躊躇すんな!」まだ泣かせてないしおまえのことは知るかよな夜宵。
真白はそれらを複雑に見守っていたけど、涙はまだ止まっていない。木葉はそれを見て心底悔しそうに顔を歪ませ、枯れかけの声を絞り出す。
「真白! あたしたちが、いるから! 信じて! 真白は、飛んでいいんだよ! あたしたちはいなくなったりしないから! だから……真白……っ!」
木葉の切実な声に、真白が涙の量を増やす。本当、泣き虫直らないな。
……ああ、そうだな。俺が助けられなくても、クッションなんかに頼らなくても、真白にはこいつらがいるじゃないか。真白の不安の象徴でもあるのに、飛んでいいよと後押ししてくれている。
真白、おまえやっぱ幸せ者だよ。こんな奴ら、なかなか出逢えない。
「あ、きら……」
「真白、おまえやっぱ間違ってたんだよ。最初からさ、甘えとけばおまえはこんなに苦しまなくて済んだかもしれない。おまえの白さくらい、簡単に受け止めてくれるさ」
どうしていいかわからないというふうに泣き続ける真白の手を引いて、一旦後ろへと下がる。俺がまだ靴を履いたままだったので、靴も靴下も脱いで裸足になった。木葉とは比べものにならないくらい、本格的な自殺準備。
そう、自殺。
真白が最初から望んでいたことだ。それを今、俺は、仲間たちの手を借りて実行しようとしている。一人が誰より嫌いな真白のために、一緒に死んでやるよ。
俺は真白の手を握り、空中で離れたりすることがないようにきつく力を込めた。真白は不安そうに俺を伺ってくる。大丈夫だよ、あいつらがいれば心配することなんて何もない。あえて言うなら、暇で退屈な時間がなくなるってくらいで。
「真白、準備はいいか?」
「なんの……?」
「そりゃもちろん、」
真白の準備とか、本当はどうでもいいけど。
勝手に走り出して、真白の軽い体を引っ張って強制的に前進させる。真白は小さく悲鳴を上げながら、最後の最後で俺の手を固く握りしめた。
助走はたっぷり、気分も最高潮。
「死ぬ準備だ!」
崖の縁を蹴って、勢いよく空中へ飛び出した。怖さも迷いも一切ない。あの時真白は、こんな気持ちで飛んでいたんだろうか。必ず助けてくれる奴がいるっていう安心感は、泣きそうなくらいに嬉しい。
そうして俺たちは、十年を経て、再び二人で飛び降りた。
今度はあの時みたいにゲームじゃない。しっかりと、死ぬためにだ。
真白は目を細めて、けれど絶対に瞑らず前を見据えている。血が止まるほどに握られた俺の手が、真白の恐怖や緊張を如実に語っているけれど。
「真白!」
「な……っに!」
「これで、昔の不幸な自分とはさよならだからな! 泣き虫で弱いおまえは、もういない! 俺たちはあいつらと生きて、昔の俺たちだけが死ぬんだよ!」
過去を捨てろなんてことは言わない。母親の死も、父親の失踪も、全部真白が覚えて、受け止めなければいけないことだ。それをしっかりと現実として受け取った上で、今を幸せに生きなければいけない。
それはもちろん、俺もだ。悲しみこそいないくせに、無気力に惰性に何となくに生きていた今までをリセットして、両親のいない世界を、まっすぐに生きていく。新しい家族と一緒に。
「真白!」
「今度はなに!?」
「幸せになろうな! 二人で、一緒に!」
真白は目を丸くして、一瞬固まってから顔をぼっと赤くした。その表情の変化は今までに見たことがなくて、俺も驚く。紅白で縁起が良い、とか思ったりしてない。
真白は林檎色の顔のまま、心底面白そうに笑った。
「もう幸せだってば!」
そうして二人で、落ちた。木葉たちが作ってくれた腕のクッションへと落ちて、胴上げでもされるみたいに、俺たちはここへ戻ってきていた。
全員で受け止めてくれたおかげで、二人とも怪我はかすり傷一つない。お互いに髪はぼさぼさで、裸足で、なのに制服で。横になった状態で顔を見合わせて、何やってんだろ、何やってんだろうな、と吹き出してしまう。
でも俺は肩の荷が下りたみたいに妙にすっきりしていて、人生二回目の飛び降りはいい思い出となりそうだ。……色々おかしいけど。
「もー! 心配かけやがってー!」
俺たちを地面へ降ろした木葉は、全然怒ってなさそうにそれぞれ俺と真白にタックルした。真白はそれを苦笑で受け止めながら、まだ涙の残滓が残るその頬を、
「……あれ?」
再び涙で濡らし始めた。本人もびっくりのようで、目を瞬いている。
俺はそれが何の涙か何となくわかったので、真白の頭を軽く撫でた。昔の真白はもう死んで、今は、今の真白しかいない。だったら、やることは一つだろう。
真白は不安そうに瞳を揺らしていたけれど、やがて決心がついたのか、涙を拭いながら口を開いた。
「わたし、みんなにたくさん隠し事してた。お母さんが死んで悲しいこととか、お父さんがいないのわたしのせいだって思って苦しかったこととか……昔、彰にあって助けてもらって、でもその彰もいなくなって……どうしようもなかったこととか。ほんとは、いっぱい『助けて』って言いたかった。でも、怖くて。泣いたらまた、彰みたいにどっか行っちゃうんじゃないかって。だから言えなかった。でもわたし、ほんとは、」
そこで一区切り。息を吸い直して、涙と言葉を一斉に吐き出した。
「凄く弱虫で、泣き虫で、いなくなっちゃうんじゃないかって、怖くて仕方ないの。だから、……だからっ……これからは、わたしのこと、助けてください……っ」
「ん、わかった!」
「当たり前だろ?」
「りょーかい!」
「はいっ!」
「おっけー」
「わかってるよ」
真白の意気込みと裏腹に、あっさりすぎる承諾の木葉たち。でもそれは本当に当たり
前だと思っている顔で、それが今更なんだ、と不思議そうだ。
ちょっと驚いた顔でみんなを見ていた真白は、やがて泣き笑いに変わった。そうして俺を見てくるから、苦笑いで頷いておいた。本当、とことん不器用だ。最初からこうしていれば、真白は一度も飛び降りずに済んだだろうに。
「ていうか、あれー? 彰は言わないのー?」
「……俺はいいんだよ」昔約束したし。
「なにそれずるーい! ていうか、こうなった以上これから真白の独占禁止!」
「元々してねえよ!」
ばしっ、と容赦のない平手打ちが俺と木葉の後頭部に入った。続いて全員にも。犯人は、雛乃さん。
「何ですか、若さへの嫉妬ですか?」
「また叩かれたいのか? 叔母に叩かれる快感に目覚めた? ……いいから早く戻って授業すんぞ。他の子たち待たせてんだから」
そういえばそうだ。すっかり忘れていたけれど、本来ならば学校にいなければいけない時間帯だ。木葉たちもHRを抜け出してきたらしいし、考えれば凄いことをやらかしたものである。
それぞれの自転車に跨って、忙しなく学校へ向かう。もちろん、というか予想通り、俺が自転車に跨った瞬間、真白は後ろに飛び乗ってきた。……ていうか、
「彰、上に靴置いてきてる」
「おまえもな」
お互い裸足のままだった。それでもいいか、とペダルの凹凸が皮膚へ突き刺さる感覚を堪え、楽しそうにぶらぶらと足を振り子運動している真白を落とさないことに従事する。後輪に足巻き込まれても知らないからな。
「そういえば彼方、今日朝のランニングしてないねー」
「ああ……だから実はすこぶる体調が悪くてだな……うう、目眩が……」
「そういえばさ、何で兄ちゃんって今宵ちゃんの自転車買ってあげないの?」
「もし今宵が自転車で転んで怪我でもしてもしそれで今宵の細くて綺麗な足に痕なんて残ったらおまえもしそれで足切断とかそういうことになってもしそうならなくてももしもし今宵が一人で自転車乗れるようになったりしてもし勝手にどこか遊びに行ってもまま今宵が可愛すぎるあまりにもし誘拐でもされたら」
「おにいちゃんさ、もしかして私のこと馬鹿にしてる?」
くだらない会話は尽きることを知らない。どこまでも意味のない世界。理由なんてない世界。それでも世界は回っている。
これが、俺にとっての幸せな世界。
自転車を漕ぎながら思い出したのだが、そういえば俺は白野沢に来た理由を木葉たちにまだ話していないのだ。でも木葉たちは聞かずにいるし、むしろそんなことなど気にならないって雰囲気だ。
だから、今はまだいい。いつか完全に思いが風化されて、『記憶』から『思い出』に変わるまで。多分、俺の友人たちは、そんな些細なことを気にはしないだろうから。
他愛もない会話と、大切な移動手段である自転車と、楽しげな笑い声と、止まらない歯車と。すべてが綺麗に回って、今の白野沢を形成している。そこには幸せがあって、必ず上手くいくという不思議な成分が振りかけられていて。
幸せのために、自分の足で、歯車を回すのだ。
俺は、後ろにいる白い少女のぶんまで、幸せを求めて。
明日も幸せでありますようにと願いながら。