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「彰、降りるよ」
「ああうん」
席に置いていた小さなリュックをしょって、電車を降りる。お母さんとお父さんが俺の下車を待っていて、俺は急ぎ気味にその地へ降り立った。
小学校の夏休みを使って、俺はお母さんの実家――つまり、ばあちゃんの家へ来ていた。
何県かはわからない。俺が住んでいるところからはかなり遠くて、俺は初めてここへ来た。お母さんたちもそんな頻繁には来ないらしい。
とにかく一番に思ったのは、あついこと。……こういう時に使う『あつい』はどの漢字だっけ。熱い? 暑い? まあ、いいや。夏休み明けの小テストまでに覚えておけば。
誰もいない小さな駅は、静かだった。涼しい風が、額の一番上に溜まった汗を吹き飛ばしてくれる。屋根からぶら下がった看板を見てみるけど、駅の名前は読めない。しろのさわ、だろうか。本当の読み方は英語で書かれているからわからない。わざわざお母さんたちにきくことでもなさそうだったから、しろのさわということにしといた。
「彰、おいで」
ボストンバッグを持ったお母さんに手招かれて、駅の出口へ向かう。途中、電車の中で脱いでいた帽子を被り直す。本当は帽子が好きではないけれど、倒れてしまうから、と被らないと怒られてしまう。ねっちゅっしょーってやつだ。
学校のは被ってないけど。本当は学校に来る時も帰る時も被らなきゃだけど、先生とさようならをするまでしか被ってない。したあとは防災ずきんの中に突っ込んでから帰ってる。だって、冬はあつくないからいらないし、夏はあついからいらない。帽子を被る意味は何度も説明された気がするけど、忘れた。
「お茶いる?」
「いる」
お母さんが俺のリュックの中からお茶のペットボトルを取り出して、手渡してくれる。俺がしょっていた体温のせいで少しぬるくなっていた。
学校でプール開きがあったころ、お母さんが「お婆ちゃんに会いに行こうか」と俺に言ってきた。夏休みの予定は10日ぶんも埋まっていなくて、どうせひまだったから「いいよ」って頷いた。お父さんはちょっとだけ嫌がった。でもお母さんはそれを無視して、「お母さんの妹には気をつけるのよ」って言った。どういう意味なんだろ。
しろのさわはわかりやすいくらいに『田舎』で、本に出てくるみたいな『お母さんの実家』って感じだった。同級生のおばあちゃんの家は、普通に都会にあったりするし、一緒に住んでたりする。今時珍しいのかもしれない。
ちなみに、お父さんのおばあちゃんやおじいちゃんはもういない。おばあちゃんは俺が生まれる前に死んでしまったらしくて、おじいちゃんのほうのお葬式には幼稚園の時出たけど、あんま覚えてない。
結構歩くよって言われたから、あんまり時間を感じないようにぼーっと歩く。あとどれくらいだろうとか考えると、時間が長く感じることを俺は知ってる。
おばあちゃんにも、お母さんの妹にも初めて会う。はじめましてが苦手な俺は、ちょっと緊張。でも、新しい場所にちょっとわくわくしてるのもある。何かが変わるかもしれないって期待したりもしちゃってる。
夏休みに、田舎のばあちゃんの家に来るって、なかなかないんじゃないかって。
「………………」
それにしても、遠いし、あつい。あとどのくらいで着くんだろう。
……あ、考えちゃった。
おばあちゃんの家は、日焼けでもしたみたいな木の家だった。俺が住んでいるところには到底なさそうな、古い家。江戸時代とかにありそうだ。
「挨拶するんだぞ」
笑い方がぎこちないお父さんは俺の肩を叩くけど、「あなたもね」とお母さんに言われてた。
お母さんは玄関の横にあるインターホンを押そうとして、やめた。お邪魔しますもなしに扉を開けて、中へ入ってしまう。どうしようって思うのは俺とお父さんだけで、お母さんはさっさと靴を脱いで廊下に上がった。ていうか今、鍵しまってなかった。いいのかな。
三人で廊下に上がって、迷路みたいな家をお母さんだけが迷わず進んでいく。お母さんが昔はここに住んでいたって考えると、何か変な感じがした。
お母さんが一つの部屋に入っていくので、俺もそれに続く。中を覗き込んでみると、凄く背の大きいお姉さんが目の前にいてびっくりした。
「奈美ねーじゃん。来てたの?」
「たった今ね」
前髪はなくて、髪は肩くらいまでのショートカットのお姉さん。おかっぱの前髪なし版だ。前髪は全部横に流れちゃってるらしい。服はTシャツにジャージで、部屋着みたいなかっこだ。
お母さんのことを奈美ねーって呼ぶってことは、これがお母さんの妹。だけど背が高すぎて、俺のことは視界に入ってないみたいだった。
「インターホンくらい鳴らしてくれれば、アタシが甲斐甲斐しく扉を開けてやったのに」
「来客があたしたちだってわかったら、どうせ出迎えになんて来ないでしょ。あと、あたしの息子の前で変なこと言うんじゃないわよ」
「息子?」
そこでようやく目線を下げて、俺の存在に気付く。見下ろされてるみたいでいい気はしない。
「こんにちは」とにかく、挨拶。
お母さんの妹は俺をまじまじと見て、いきなりわざとらしい仕草で口元に手を当てた。ふるふる震えて、目を見開く。
「彰……? アンタ、彰なの!? あの時捨てた、アタシの子供……っ」
「早々に黙らないとあんたの婚期を全力で潰すわよ」お母さんが小さく呟いた。
「……っていうのはまー冗談で。アタシは雛乃。叔母さん以外なら何でも好きなふーに呼んでくれてよろしくてよ。お姉さんとか」
わかりやすい冗談交じりに、ひなのさんが俺の頭を撫でる。お母さんとは似ても似つかない性格の人だ。もし俺が本当にこの人の子供だったら、もうちょっと面白い性格だったのかもしれない。
「ヒナ、お母さんは?」
「買い物行ってる」
「行く時間伝えたのに家出るあたり、変わってないわね」
お母さんは荷物を降ろして、畳の上に座る。その部屋は俺たちの住んでいる家的に言えばリビングだけど、リビングって感じじゃない。けど正しい言葉がわからないから、とりあえずリビング。
俺もリュックを降ろして座ろうとしたところで、インターホンが鳴った。警報音みたいで、ちょっとびっくり。
「お母さん?」
お母さんが、お母さんかどうかをひなのさんに訊いてる。変な光景だった。
ひなのさんはちょっと考えていたけれど、思い当たったみたいに苦そうな顔になる。嫌な客なんだろうか。
「今日は先客がいるって言うの忘れてたな」
「誰?」
「や、ちょっと」
お母さんの質問を受け流して、ひなのさんがゆっくりと玄関へ向かう。あくまで走ったり急いだりはせず、むしろ、何で自分がそんなことしなきゃいけないんだよみたいな雰囲気。
長い廊下の割に、すぐにひなのさんは戻ってきた。
一人の女の子を連れて。
「………………」
目が醒めるくらい、真っ白い少女だった。
洗濯機に入れられたみたいに真っ白い髪、生まれて初めて外に出たんじゃないかってくらい真っ白い肌、一瞬何も着てないみたいに見えた真っ白いワンピース。
晴れと曇りの空の中間みたいな、微妙な色をした透明な目が、俺をじっと見つめた。
ひなのさんは白い女の子の肩に手を置いて、さっきまでの明け透けな笑顔をちょっとだけ濁らせて笑った。
「この子、昼間は母親が働きに出てるからさ、よくここに飯食いに来るんだ。近くに住んでる子で、名前は真白。ごめん、奈美ねーたちが来るの真白に言い忘れてたアタシの顔に免じて、今日は一緒に飯食わせてやってくんない?」
日本語がおかしいことはよくわかった。つまみ食いをしてしまったから、責任持って自分が全部食べるって言ってるみたいな矛盾。
お母さんとお父さんは困ったみたいにお互いを見ていた。この女の子の見た目とか、そのほかにも色々、訊きたいことはいっぱいあるけど訊けないんだろう。女の子は自分が今、この場を混乱させてることに気付いているのかいないのか、ぼーっと畳と見つめ合っていた。
お母さんとお父さんは一言か二言だけ小声で会話をしていたけど、それ以上は女の子の前で出来ないと思ったのか、作り笑顔を俺に向けた。
「彰、真白ちゃんと遊んできなさい。すぐにお昼ご飯作るから、外には出ないでね」
「………………うん」
色々言いたいことはあったけど、面倒くさいから頷いておいた。ここで『いやだ』なんて言って困らせるのも、その後説き伏せられるのもわかってたし。
女の子は知らない人から自分の名前が出たことで、ようやく顔を上げる。居心地が悪かったからとかじゃなくて、立ってるのが暇だったから畳の編み目を見てたって感じだ。目開けたまま寝る人ってこんななのかって考えた。
きょろりと周りを見る女の子。今まで耳には入っていたけど脳には届いてなかったらしいお母さんの言葉を反芻して、状況を理解したらしい。
「あきら?」
舌を噛みそうな喋り方で、俺のお母さんが呼んだ俺の名前を繰り返す。俺が正しいかどうかを言う前に、「彰」と疑問系をなくして口調もしっかりさせて、勝手に自己完結してしまった。合ってるし、別に間違っててもいいけど。
女の子はさっさと廊下へと出て行く。俺もそれを追って、リビングから少し離れたところまで進んでようやく女の子が俺のほうを向いた。
「わたし、真白」
「え、と……俺は彰。黒柳彰。東京に住んでる」薄暗い廊下の中で、自己紹介。
「真白でいいよ。彰」
初めて会う、しかもクラスメートの誰とも似てない綺麗さを持つ女の子を呼び捨てするのはちょっと気が引けたけど、名字がわからないから仕方ない。それに、名前と見た目がそっくりで、覚えやすい。お母さんは、こういう子に育つってわかってたのかな。
「彰は、どうしてここに来たの?」
「お母さんのおばあちゃんの家だから」
「お母さんのお婆ちゃん……ひいお婆ちゃん?」
「……お母さんの、お母さんの家」
そっか、と真白が頷く。訊いておいて、そこまで興味はなかったって目が言ってる。何か不思議な子。
でも真白は微笑みをふっと消して、素足をすり合わせる。
「……わたし、邪魔だったかな」
いきなりだった。
「……なんで?」
「彰のお母さんたちも、ひなのも、困ってた。わたし来ちゃいけなかったよね」
……わかってたんだ。よく言えば自分の世界で生きてて、悪く言えば空気が読めない子なのかなって思ってただけに、ちょっと意外。あの場で自分まで落ち込んでしまえばますます空気が重くなるって、わかってたのかも。愛想笑いも元気なふりも、逆に気を遣っちゃうって知ってて、何も考えてないふり、とか。
普通そんなこと、とっさに思いつくかな。それはかなり、『そういう』状況に慣れてないと、無理なんじゃないかな。
「そんなことないと思う」これだけじゃ綺麗事かなって思ったから、付け足した。「少なくとも俺は、いやじゃない」
「………………」
真白はびっくりしたみたいに俺を見てる。飴玉みたいなひとみはころころと動いて、そんなに俺変なこと言ったかなって心配になる。
そしたら真白は、いきなり泣き出した。
……えっ?
本当に何の前触れもなく、眉を寄せることもなく、涙だけが勝手に溢れ出したって表現するのが正しいみたいに。でも確かにそれは真白の意志みたいで、びっくりはせず頬を手で拭う。
「わたし、ほんとに邪魔じゃないかな。ひなのも、みさきも、お母さんも、凄く優しい。わたしのこと、怒ったりしないの。だから、わかんない」
「みさき……」消去法で、おばあちゃんかな。消去法って言葉は漫画で覚えた。
「彰は、わたしのこといやじゃないの? ……わたしのこと、変って思わない?」
変。……正直、思った。こんな真っ白い髪を俺は見たことがなかったし、それに、中身もちょっと変だ。びっくりの連続で、変とかおかしいって思わないほうが変だ。
でも、ここで俺が変って言ったら、真白はどうなっちゃうんだろう。どうなっちゃうかはわからないけど、これだけはわかる。
もっと泣いてしまう。
「変じゃない。真白は真白だろ。邪魔なんか、そんなこと、ないよ」
女の子を泣かすなって、お父さんに言われてたから。真白のつるつるな頬が、涙でべたべたになってたから。あとはえーっと……まあ、こんなもんで。言い訳しないと恥ずかしかったから、適当に理由を挙げてみた。
俺、漫画やアニメの主人公でもないのになあって、ちょっとあつくなった頬を爪で掻く。クラスにいる、漫画のセリフばっか言ってる奴を冷めた目で見てたのに、今は俺だ。
でも真白はそれでちょっと泣き止んで、でもまた泣いた。今度は顔をぐちゃぐちゃにして、目を真っ赤にして。
「彰ー?」
お母さんが俺を呼ぶ声。ただ単に呼び寄せるって呼び方じゃなくて、何してるのっていう呼び方。さっきまで無音で泣いていた真白の泣き声が聞こえたのかもしれない。
それからこちらに向かってくる足音が聞こえて、まずいって思った。俺が泣かしたって思われるのもいやだったし、第一、さっきまでみんなに心配をかけまいとしていた真白の心遣いが無駄になる気がする。それは、なんか、やだ。
「真白、行くぞ!」
「わ、えっ? ど、どこに?」
「わかんない!」
とりあえず、真白の手を引いてリビングと逆のほうに走ってく。角を曲がればすぐにリビングからは見えなくなるけど、どこに行くどころか、俺はこの家からどう出ればいいのかもわからない。
角を折れたところで俺は安心してしまって、足を止め……ようとしたら、俺を追い抜かした真白がさらに走る。いきなり立場が逆転して、俺も引きずられるみたいに着いていく。っていうか、そうしないと本当に引きずられる。
「どこ行くんだよ!」
「わかんない!」
俺と同じ返事をして、まだ泣いたままの真白が不器用に笑う。廊下から縁側に出て、靴も履いてないのに真白は縁側から外に降りてしまった。お母さんの言いつけを破ったこととか、裸足のまま外に出たこととか、うわーって思うこといっぱいあったけど、真白が笑ってくれたからいいやって思うことにした。
「わたし、お腹すいてないからご飯いらない! 彰は?」
「……俺もいらない!」
本当は、家で朝ご飯を食べて以来何も食べてないからお腹はぺこぺこだったけど、今更戻るのも、足が汚れているからどうかな。ちょっと嘘。
足の汚れより、真白の涙より、何より。
こういうのちょっと、特別なんじゃないかなって思う。夏休みに田舎のばあちゃんの家に来て、可愛い女の子と家から脱走って、なかなかない。そりゃわくわくもどきどきもする。
だから、いいや。
……あ、でも、帽子被ってない。
真白が一番に俺を連れていったのは、川だった。
低い橋がかかっていて、そんなに深くはない。夏休み前、生活指導の先生から川で遊んじゃ行けないって話あったから、最初はちゅうちょしたけど、お母さんとの約束を破って、しかも知らない土地を歩いている時点で少なくともいい子ではないから、川に入るのも今更だった。
ちなみにここまでは歩きで来た。俺はもちろん真白も自転車がなくて、二人して裸足のままぺたぺた歩いて来たのだ。
途中で誰かに見つかったら笑われるか怒られるかするかなって思ったけど、知らないお兄さんに「怪我すんぞ」って頭をぽんぽんされただけだった。真白に「誰?」って訊いたら「知らない」って言われた。しろのさわの人たちは、知らない人たちでも仲良しらしい。
俺たちが川に入るのとちょうど入れ違い、先に遊んでいたらしい子たちが大騒ぎしながら川から出て行く。元気な男女のグループで、ああいう子たちが今も将来もクラスの中心にいるんだろう。と他人事に見守っていたら、一番目立っていた女の子がいきなり振り向いて、結構遠いところからぶんぶんと手を振ってきた。
「やっぱり真白ちゃんだ! 真白ちゃーん、やほー!」
真白はそれに小さく手を振り返す。大きく手を振っている女子は、リスを人にしたらこんな感じなんだろうなって雰囲気。髪の色もリスっぽい。
女子は俺がいることに気付いて首を傾げたけど、それについて言及する前に他の人たちにつつかれて体の向きを戻した。「ばいばい!」と後ろ走りしながら、またいい笑顔で手を振る。
「あれは?」
「小学校でクラス一緒だけど、話したことはあんまない。変わった名字で、えと……名前は、なんか、名前も面白くて……ピアノみたいな名前だった」まったくわからない。ていうか、向こうは覚えてるのに真白は名字も名前も覚えてないのか。
「俺と一緒のとこ、見られていいの?」
「なんで?」
きょとんとした顔。本当に意味がわかってないって感じだ。
俺はここの人間じゃないし、ましてや、男女二人きりで遊んでるってなったらクラスで色々言われたりしないんだろうか。……って言っても、真白はわからなそう。
それどころか、
「別に、彰とならいいよ」
「………………」こういうことを、言うし。
学校が始まる頃俺がいるわけでもないから別に気にしないって意味なんだろうとはわかってても、それなりに心臓がうるさくなったりはする。
ワンピースの裾もズボンの裾も、川の奥まで入ってしまうと簡単に濡れてしまうから、俺も真白も浅いところしか歩かない。途中で手頃な岩を見つけて、真白は座ってしまった。俺のぶんはないので、立ったまま。
「真白のお母さん、何の仕事してんの?」
「わかんない。電車乗って行ってる」
「お父さんは?」
何となく訊いただけだった。だけど真白は黙り込んで、爪先で川の水を弾く。それだけで、俺多分訊いちゃいけないこと訊いたんだなってわかった。
「お父さんは、わたしとお母さん置いてどっか行っちゃった。だからお母さん、一日も休まないでお仕事してる」
「……ごめん」
「ううん、平気。あのね、わたしが変だから、お父さんはどっか行っちゃったの。お父さんは髪白くないのに、お母さんも白くないのに、違う人の血が入ってるんじゃなかって、喧嘩して、いなくなっちゃったの。お母さんは気にしなくていいよって言うけど、それは絶対、どうしたってわたしのせい」
真白の足の爪は綺麗に整っている。真白がやってるのか、お母さんがやってるのか。何となく、お母さんなんだろうなって思った。本当に何となくだけど。
「わたし、何でこんなふうに生まれてきちゃったんだろう。お母さんを悲しませることしか出来なくて、わたし、いらない子なのに。何で生まれてきちゃったんだろ」
それは、悲しみでも皮肉でもなくて、純粋な疑問だった。自分が生きていることが不思議で堪らないって顔をして、白い髪を鬱陶しそうに払う。
真白がさっき泣いた理由が、わかった。
きっと今まで、真白は泣く場所がなかったんだ。頑張ってるお母さんの前では泣けなくて、他人である自分に優しくしてくれるひなのさんやばあちゃんの前でも泣けなくて、クラスメートの前では俺だって泣けない。
誰よりも他人で、誰よりも知らない俺だから、真白は泣けた。
誰にも訊けなかった自分の存在の意味を、俺に訊ける。
俺は真白のことを知らない。たくさん知る時間も、あんまりない。だからこそ、今考えなくちゃいけない。
真白が、泣けるように。
「生きるために、生まれてきた。はっきりとした理由なんて、俺にも真白にも、誰にもない。ただ、生きるから生まれるし、生まれるから生きる」
人のために生まれてきたとか、選ばれた人間だとか、そんなのはアニメとゲームの中だけの話。俺たちはただ何となく生まれて、何となく生きる。幸せも不幸せもごちゃごちゃになった世界で、何とか幸せを見つけようともがいてる。
だからある意味、生きるって、人生ゲームと同じなんじゃないかな。俺たちは死ぬまで暇つぶしを続けていて、どれくらい暇をつぶせるか、どれくらい楽しめるか。どれだけ幸せを見つけられるか、自分をコマにして遊んでる。ゴールにたどり着いたとき持っているお金で勝敗を決めるみたいに、どのくらい幸せだったかを決めて。
「いきるため……」
今度は、いきなり泣き出した。真白は意外にも泣き虫らしくて、でもそれでいいやって思う。
だって、まだおこさまですから。俺も、真白も。
「わたし、生きてていいのかな。生きる意味、あるのかな」
「いいに決まってる!」
おこさまなのに。俺も真白も同じなのに。何で真白ばかり、苦しんでるんだろう。人より白く生まれて、人よりちょっと運が悪かっただけなのに。それが、悔しかった。真白がそう思わざるを得ない生き方をしてきたってことが、ただただ、いやだった。
どうにかして、真白を助けたかった。
優しい嘘はついてもいいんだよって、学校の先生から習った。人を幸せにする嘘は、優しい心なんだよって言ってた。俺は優しくなくていいけど、真白は、優しくされていてほしい。
絶望は絶望でも、優しくて、白い絶望にいてほしかった。
「俺が、おまえに、生きる意味をやるから! だって、俺は、」
「俺は……っ、」
「おまえが、好きだから!」
嘘、かなぁ? 優しい、かなぁ?
優しい嘘じゃなくて、酷い真実かも。
いつだって真実は、残酷だから。
まあ、どっちでもいいや。
「俺はおまえが好きだ! だから、死んだら悲しむし、いやだ! だから生きろ! 苦しいなら、俺がそばにいる! だからおまえも、俺を好きになれ! そしたらもっと、もっともっと生きる意味ができて、俺もおまえも、生きる意味が出来るから!」
夏の太陽の下で怒鳴り散らして、頭がくらくらした。酸素も足りなくて、肩で息をする。何やってんだろって自分で自分に呆れながら、やっぱ帽子は大切なんだなって思った。
真白は瞬き以外を忘れてしまったように、目を限界まで丸くして俺を見上げていた。まあ、初対面の相手にいきなりこんなこと言われれば誰だってびっくり、っていうか引くと思う。一時間も一緒にいないのに、好き好き喚いて、俺完全に変な人。
でも真白は、硬直状態が解けるとすぐに微笑んだ。兎みたいに目を赤くして、嬉しそうに、泣きながら笑む。
「うん、わたしも彰すきだよ。彰のために、生きる」
ここまではよかった。
けれど、次の一言で、俺の嘘が、酷い嘘だったことに気付く。
「だから、ずっとそばにいて」
当たり前に、その約束は守られなかった。
「彰、彰……やだよ、彰……っ」
「………………」
また泣かせた。
俺がしろのさわにいた三日間ずっと遊んでいた真白の泣き顔は、もう十回以上見た。それでも慣れないし、慣れたくない。
真白は本当に、ちょっとのことでも泣いた。
お母さんのこと、お父さんのこと、自分のこと、俺のこと、白さのこと、学校のこと、家のこと、怪我のこと、暑さのこと、冷たさのこと、ご飯のこと。駄々を捏ねられず、お母さんたちの前ですら泣こうとしない俺のぶんまでもらってくみたいに、泣いた。
俺と真白は色んなところに行った。ひまわり畑も行ったし、原っぱにも行ったし、駄菓子屋にも行った。あ、駄菓子屋は、見るからに運動が得意そうな女の子がレジをしているのが新鮮でおもしろかった。
でもやっぱり、俺は真白の前からいなくなる。
「何で帰るの、彰、わたしのそばにいるって言ったのに……! 生きる意味になるって、言ってくれた……」
お母さんたちが荷物を纏めている間、俺はあらかじめ真白を外へ連れ出していた。放っておけばみんなの前でもこうして泣き出しかねなかったし、実際そうなったし。
きつく俺の服を握りしめる真白に、俺の心臓はずきずき痛む。やっぱ嘘はよくない。優しい嘘なんてない。嘘も真実も、全部残酷だ。
「……真白、」
「やっぱわたし、いらない子なの?」
小さく震える真白は、消えそうな声で囁いた。俺は何も言えなくて、嘘も本当のことも言えなくて、何が正しいのかわからなくて。
「真白!」
俺の無言をどう捉えたか、真白はいきなり走り出してしまう。俺は無意識に、けれど全力で真白を追いかけた。真白は道を疾走して、どこかへ向かっている。相変わらず俺の予想を裏切る真白は、予想外すぎる運動神経で俺を追いつかせない。
どう答えれば正しかった? いなくならないよって嘘をついたとしても、俺はあと数時間後には電車に乗ってしまう。あれは嘘だった、ほんとは帰らなきゃいけなかった、って本当のことを言ったとして、誰が喜ぶ? だったら、間違ってたとしたら最初から。真白と手を繋いだときから、間違ってた。
俺だって、本当は、いやだ。
だけどそんなことは言えない。くだらないことで、どうしようもないことで、いやだと喚きたくない。だって、どうにもならないから。
なのにそんなことで大泣きする真白のことを、俺は、少し煩わしく思った。悔しさも少しある。何もしてやれない感情と、何も出来ない感情。俺にどうしろって言うんだよ。
やがて真白がたどり着いたのは、一つの丘のような場所だった。他より高くなっている場所で、奥には崖のようなものも見える。薄汚れた小屋もある。物置かなにかだろうか。
「彰」
名前を呼ばれて、よそ見をしていた目をまっすぐ戻す。丘の終点に立った真白はやっぱり泣いていて、だけど吹っ切れたみたいな笑顔だった。
「彰、ゲームしようか」
「……は?」
「わたしが勝ったら、一つ言うことを聞いてもらう。わたしが負けたら、一つ言うことを聞いてもらう」
「何、言って、」
「彰」
遮るようにして、真白は笑う。いきなりすぎる展開に、俺は動揺を隠せない。
ぱっと開かれた手。ひらりと振られた手。にこりと上げられた口端。ゆっくりと形を作る唇。嫌な予感がした。凄く、嫌な、
……予感が、当たった。
「それじゃあ――ばいばい」
真白は何でもなさそうに微笑んで、切り立った崖に向けて体を傾かせた。後ろへどんどん、重力に逆らわず落ちていく。
吹き抜けた風が、真白の髪をぶわりと広がらせた。
「ま、しろ、?」
待て。
状況が、掴めない。
真白が、
真白、
飛び降りた。
ましろ……真白?
待て待て待て冗談じゃない何でいきなり飛び降りなんだよおまえが白く生まれてきたからか今更そんなことで飛び降りんのか馬鹿やってんじゃねえよだって俺はおまえのためにおまえは俺のために生きるって約束して約束破ってんじゃねえでもあれそうだ先に約束破ったのも嘘ついたのも俺ででもそれは真白を助けたくて助けるってなんだ?
いなくならないで。
ああ、そっか。今、俺、真白と同じ気持ち。
「真白……真白、真白真白、真白……っ」
気付けば、俺は真白を追いかけて飛び降りていた。
目を閉じたまま落下していた真白の髪を掴んで、無理に引き寄せて、でも絹みたいに柔らかい髪は指をあっさりと通り抜けて、何でこんなにさらさらなんだよとか思って、
俺も落ちた。
落ちる。落ちている。落ちた。
「彰」
俺に気付いて、真白は微笑む。後悔も動揺も一切なしに。
俺は真白の手を必死でたぐり寄せて、握り潰さん勢いで絡ませる。掴み合った手は冷たく、ゆっくりと燃え広がるように凍るような熱を帯びる。低温火傷しそう。
「来てくれた」
「うん」
「なんで?」
「そばにいるって、約束したから」
繋いだ手を離さないまま、真白の細い腰をぐっと引き寄せる。その細さに罪悪感を感じて手を離しかけたけど、すぐにまた掴み直した。
落ちる落ちる。ぐんぐん落ちてく。ゆっくりに感じるのに、風が刃物みたいに痛い。
生きる意味をやめる代わりに、俺は真白の死ぬ理由になるのかな。それは、……それは、やだなぁ。だって、真白には生きてほしいから。俺なんかのために死んでほしくないから。
だから俺は、真白を抱えたまま体を回転させた。真白は俺の上にして、地面と直接ぶつかるのは俺になるように。俺を犠牲に、真白は生きてほしい。そんで、もう二度と飛び降りとか考えないように。
遺言は、ひとつだけ。
真白が幸せになりますように。
「ごめんね、彰」
真白は俺に抱きついて、耳元で囁く。
いいよ。許す。だって俺は結局、真白の前からいなくなる。おあいこ。
だから、
……………………………………………………降参するから、助けて。
真白の気持ち、わかったから。
「いなくならないで」
――ばふん、ってほこりが飛んだ。柔らかくて汚い何かが、俺を包む。
……あれ?
「わたしの勝ちだよ、彰」
真白が俺の上に乗って、風のおかげで涙は飛んだらしく、にこにこ微笑んでいた。勝ちって、え、……ていうか、俺。
俺、生きてる。
「………………」
「彰、大丈夫?」
真白が俺の上から降りて、心配そうに顔を覗き込んでくる。そこは紛れもなく地面で、真白は立ってる。でも、俺も生きてる。真白は俺の背を支えて、起こしてくれる。
「ここ、わたしの秘密の場所。飛ぶとね、すっきりするんだよ」
状況把握のために、周りを見てみる。そこは、ゴミ置き場みたいになってた。俺が落ちたのは一人がけのソファで、布地はぼろぼろに破れて綿も抜けかけ。それを補強するように浮き輪やクッションが大量に置いてあって、何とか俺と真白ぶんの衝撃を吸収してくれたみたいだ。
つまり俺はここに落ちて、真白はそれを知っていて、つまり俺は、つまり。何の意味もない飛び降りを、した。最初から、俺がいなくても助かってた。
「彰はわたしを助けてくれる。だからわたしは飛べるの」
これが、ゲームか。俺が真白を助けるために、飛び出したかどうか。そして俺は、まんまと真白の思い通りに動いてしまった。
乾いた笑い声が、勝手に上がる。
これで、『帰るな』って言われたら俺は、ばあちゃんちの子になるのかな。それもいいかもしれない。誰も悲しまずに済む。……あ、お母さんたち、悲しんでくれるのかな。もし俺が帰らないでここに残ったら。
いつだって、悲しむのは残された人間。
だから俺は真白を追いかけた。それは真白を助けるつもりで、そうじゃなかった。俺は自分が残るのが嫌で、真白を救うふりして、真白を悲しめるつもりだった。すでにお父さんに『残された』真白なのに。
ほら、真白。
俺をここに『残せ』ばいい。
そうしたら、真白は『残らない』から。
「いつか絶対、迎えに来て」
「……えっ?」
予想外の、お願いだった。
「大丈夫だよ。わたしは残らない。悲しまない。だってわたしは、『待ってる』だけだから。彰は消えない。わたしがいる限り、彰はいなくならない」
真白は俺の手を取って、力強く握る。その目は濡れていて、今にも泣き出しそうだ。けど、泣かない。見栄がどうとかではなく、今から俺がいなくなることを理解して納得して受け入れて、そのために泣かないでいる。
俺が『残らない』ために。
自分を『残さない』ために。
俺と真白、どちらも幸せになるために。
明日を、生きるために。
「いつか、絶対迎えに来るから。だからそれまでは、飛ばずに、泣かないで待ってろ」
「うん。約束だからね、彰」
そうして真白は、最後の最後で、やっぱり泣いた。