「おはようハニー。ご飯にする? 朝食にする? それとも、ア」「ご飯で!」諸悪の根源は根本から断ち切った。
「せっかちだな。アタシは今、ご飯か朝食か朝飯かを訊こうとしただけなのに」
「全部同じじゃねえかとか、何でハニーなんだよとか、もうそういうつっこみはこの際すべて省きます。あの、雛乃さん」
「なあに、ボケ殺しの彰くん」
「俺の上から降りろ!」


 朝起きたら、叔母が俺の上に乗っかっていました。
「凄く不愉快です」
「何が? やっぱり都会人の朝食は稲じゃなくてイースト菌だった? 菌食うくらいなら米食えよ米! お米食えよー!」
「それじゃねえよ!」
 俺は昨日、風呂から出て髪も生乾きのまま、倒れ込むように眠りについた。布団をどう敷いたかも覚えていない。昼寝をしたにもかかわらず、朝までぐっすりだった。
 そして朝。息苦しさにいざ起きてみれば、トチ狂った叔母が自分の視界いっぱいにいて、呪いかと思った。仰向けに寝ていた俺の上に乗っかり、目を覚ますやいなや俺は本能的な恐怖から大声を上げるはめになったというわけだ。
 そして今、朝食を終え、俺と雛乃さんは洗面所にいた。雛乃さんは朝食前に洗顔等は済ませたらしく、寝癖のせいで、触ったら怪我をしそうな髪をドライヤーで整えている。どんな寝方をすればそんなイガグリみたいな頭になれるんだろう。
「どうして普通に起こせないんですかあんたって人は」
 ちなみに、朝ご飯の場に婆ちゃんはいなかった。雛乃さん曰く婆ちゃんは朝に弱いらしく、第一早く起きたところで特にすることもないので昼頃まで眠っているそうだ。
 というか、昨日は寝ていたので夕食を作る現場を見られなかったのだが、どうもこの家で食事を作っているのは雛乃さんらしい。てっきり婆ちゃんかと思っていた。よくわからない敗北感が生まれるのは何故だろう。
「暇を持て余している一男子高生の日常に、ちょっとした刺激をと思っているだけだ。これも一つの教育じゃねーの」
 若干のタイムラグがありつつも、先ほどの問いに答える雛乃さん。あんたの刺激はハバネロ並みだ。
「っていうのはまあ可愛らしい冗談で、実はお前の部屋に制服届けに行ってたんだよー。ハンガーにかかってるからあとで見とけ。で、起こそうとしたらお前に突っかかって転んだ」
「っていうのも?」
「冗談で、普通に起こすんじゃアタシのキャラが成り立たないかと思って」
 そんなことだろうと思った。要するに、普通じゃつまらないってことだろう。
 雛乃さんの隣で顔を洗い終えた俺は、フェイスタオルを手探りで見つけようとして右往左往する。どこにあるのか把握していないので、見つかるはずもない。それを見かねた雛乃さんが俺の手にタオルを握らせてくれた。
「どうも。……制服って、特殊なのじゃないですよね? 一人で着られなさそうだとか」
「田舎ナメてんのか。冬は普通の学ラン、今は夏だからシャツにスラックスのごく一般的な制服だっつの。はいおーわり」
 ドライヤーを置いて、雛乃さんがブラシで髪を梳く。さらさらと手触りのよさそうなワンレンヘアが完成していた。
「………………」
 改めて見れば、雛乃さんはやはり普通に美人だ。晒されている額はミルク色、くすみの一つもない。特にリップも塗っていなさそうなのに唇は艶やかな桜色で、涼やかな奥二重の目元は日本女性らしい。身長だって伸びやかで、一見はスレンダーなモデル体型。見た目だけで言えば大和撫子に近く、昨日も今日も化粧をまったくしていないすっぴん美人。
 これで性格が、さばさばとした強気女性や柔らかな物腰の清楚女性だったら完璧だというのに、実際の中身は、
「あ、枝毛見っけた。アタシとアンタ、枝毛を割く権限巡ってじゃんけんしようぜ」
「……枝毛は切りましょう」
 まるで小学生だ。
 この人に性格の改善を要求しても無駄であるとわかりきっているので、「お先に失礼します」と一言告げて洗面所を脱出。廊下に出てから溜息をつけば、朝の爽やかな空気が少し淀んだ幻覚を見た。
 ああ、でも。その性格の矯正が結婚に繋がる(かも)ということを文書にして提出すれば、もしかしたら直る……かもしれない。


 学ランを卒業してようやく憧れのブレザーに袖を通して一年ちょっと、再び学ランに逆戻り。誰が予想しただろう。中学三年間のおかげで着慣れた学ランは、あまり好きじゃない。今は夏服だからあまり関係ないが。
 糊がぱりぱりに効いた新品のシャツが、ひんやりと肌に触れるたび心地良い。ズボンに皺をつけないようつい動きが静かになってしまう。
 だがしかし、だ。学校にいる間は、あの叔母への対応から解放される。一人で落ち着く時間も設けられるのだろう。それを考えると胸が期待に膨らんだ。
「……そういや何時に出りゃいいんだろ」
 浮かれてばかりもいられない。登校時間も知らなければ、ここから学校までの正確なかかる時間もわからない。初日くらいは余裕を持って出たい願望がある。
 ちなみに、俺の部屋に時計はない。携帯があるからいいのだが、いかんせん使う用事もないので今日の朝、起きた時に時間を確認した以来触れてもいない。けれど婆ちゃんに「解約してくれ」と言えないのは、何となくまだこれで繋がれる何かがあると思っているのだろうか。東京でだって大して充実した使い方をしていたわけでもないのに。
 時計と雛乃さんを探して廊下をうろついていれば、婆ちゃんの部屋の前を通りかかったあたりで「彰かい?」と声がかかった。起きていたのか。
「はい?」
「ちょっと入っておいで」
 呼び寄せられるがまま、襖を開いて中へと入った。まだ布団にくるまっていた婆ちゃんは、顔だけをこちらに向けてちょいちょいと手招き。
「暇なら起こしてくれないか。一人じゃ起き上がるのも面倒でね」
「はい」
 手招きしていた手を取って、ゆっくりと起き上がる婆ちゃんの背を支える。婆ちゃんは上体を起こしたところで数度呻いて、とんとんと腰を叩く。
 長い息をついて少し落ち着いたらしく、「ありがとう」と呟いた。
「すっかり歳を喰ったねえ、私も」
「いつもなら昼まで寝てるって聞いたんですけど、起きて大丈夫なんですか? 体調とか」
「別にそんなんで日の出を拝んでないわけじゃないっての。暇だから寝てるだけさね。それに今日はヒナがばたばた走り回りもせずに大人しく出て行ったから、逆に気になって起きちまったよ」
「雛乃さんはもう出たんですか?」ていうかあの人、ニートじゃなかったのか。
「ヒナはもうとっくに行ったよ。あんたは行かなくていいのか?」
「何時に出ればいいのかわからなくて」
「……ヒナから聞いてないのかい?」
 婆ちゃんは目を丸くして、ゆっくりとした速度で首を傾げた。
 鏡あわせのように俺も首を傾げると、婆ちゃんは独り言のようにぼそりと口にした。

 ヒナは、あんたの通う学校の教師なんだけど。

「やってくれたなちくしょおぉおぉぉおおぉおお!」
 何を入れたらいいかもわからず筆記用具のみを入れたぺらぺらの鞄をひっつかみ、スニーカーに足をねじ込むのもそこそこに家から飛び出した。
 やられた! 完全にやられた!
 昨日玄関を通過したときに見た黒のスニーカーと、玄関先の日陰に置いてあった赤いフレームの自転車は消えてなくなっていた。一つ取り残されている黒フレームの自転車はきっと俺の、というかそれしかない。荒くそれをひっつかみ、鍵が刺さったままだったのでそのままスタンドを上げる。
昨日歩いて上がってきた道とは別に、いくらか舗装のされた細道が一本あったので迷わずそちらへと自転車を向ける。家からまっすぐということは、こちらしかないだろう。
 下り坂だったため、地面を蹴って自転車へ飛び乗り、サドルに尻が着地した途端に勢いよくペダルを踏みしめた。あ、サドルの高さ合ってない。足つかない。
 自転車が軽く浮遊するような感覚と共に、日陰を抜けて一気に加速。下るスピードとタイヤの回転速度はみるみるうちに上がり、それでも俺はペダルをきつく回し続けていた。
「なんっ、でっ……あんなの、が、教師なん、だよ……っ!」
 意味のない文句を吐きながら、サドルなんぞに座ってられるかと腰を上げて全力でペダルを漕ぐ。どうせ足は届かない。信号なんかもないから、止まる必要だってない。
 教師。あれが。ようやく解放されると思っていた場所へ、俺はあの人に会いにいくために全力で自転車を漕いでいる。新しい制服も汗でぐちゃぐちゃにして、がむしゃらにタイヤを回し続ける。
「……っ、……っ」
 誰もいない道を、一人きり、走り続けている。
 ペダルから足が何度も外れ、空回ったそれが脛に当たり、じんわりと痛みが広がっていく。息切れもして、汗もだらだらと額を伝っていた。
 別に教師の雛乃さんが先に出たからと行って、俺の遅刻が確定したわけではないのだが。わざわざ俺を放置してこっそり出て行ったということは、嫌な予感しかしない。
 新入りの自転車をじゃかじゃかうるさく働かせて、俺も自転車もすでに限界値は突破中だ。途中、横に逸れたあぜ道から柴犬が不思議そうに俺を見ていた。
 喉からは、枯れ果てた不協和音のようなものが、ぜえ、と漏れる。熱と共に揺らめく感情。何なんだよ、もう。
 ひいひい言いながら足をひたすら稼働していれば、体感で数十分したところでぽつぽつと家があるだけの一本道にようやく学校らしき建物が現れた。横に長く縦がない、『校舎』というより『学舎』とか『寺子屋』なんて呼び名が似合いそうな。
 申し訳程度に建てられた木の校門を、未だ緩まぬスピードで通過すれば自転車置き場はすぐに見つかった。数台停まっている中に、例の赤フレームもある。
 額の汗を腕で拭い、足が宙ぶらりんな自転車から慎重に降りた。サドルの高さを直す余裕は今なさそうなので、自転車の列を崩さないよう庇の下へ入れる。
「……とりあえずはおばさんの確保かな」漢字変換しなかったことに他意はない。
 自転車置き場の真横にあった玄関へ入ると、すのこの上に新品の上履きがワンセット放置されていた。しかも踵には『黒柳彰(ハート)』と所有者を向こうから指名するサイン。逆ナンかー、こんなところで遭遇するとは思わなかったなー。………………。
 教育委員会に訴えようかと半ば本気で考えたのだが、極力携帯の使用は控えると昨日決めたばかりだったし、第一『教師の叔母に悪戯書きされた上履きを放置されたんです』なんて言ってもまったく意味が通じなさそうだったから諦めた。
 仕方なく叔母のハートつき上履きへと足を突っ込んで、踵を踏んだまま廊下へ進む。どうでもいいけど、学校というものはいくら掃除をしようと空気を入れ換えようと、どこか埃が漂っているような感覚なのは何故だろう。
 まだ息が上がっているままに廊下に上がって左右を見渡したら、教室なるものはすぐに見つかった。『学習室』という札が下がっているが、多分そこで間違いないだろう。
 極力足音などを立てないよう教室に歩いて行ってみると、扉が薄いため中で喋っている人物の声が聞こえてきた。扉に耳を寄せてみると、憎むべき相手の声。
『というわけで、今日は前にも言った転校生が来るぞー。アタシの甥で、東京から越してきたから仲良くしてやってくれー』
 おお、本当に教職に就いている……などと感動しかけたのも一瞬、
『それにしても初日から遅刻とはいい度胸だな、都会の奴ってのはやっぱり無断遅刻無断欠席が当たり前なのかー。こえーなー』
「誰のせいだ!」つい怒りに任せて、声を上げた。
 扉、がらり。
 教室、ぽかん。
 雛乃さん、にやり。
 気付けば俺は、転校生+遅刻という立場も忘れて扉を勢いよく開いていた。
 小さな教室の中は静まりかえって、教卓の前に立つ諸悪の根源だけが笑いを堪えるのに頑張っていらっしゃいやがった。昨日と何ら変わらない服装、タンクトップがTシャツに、ビーサンが中履き用らしきスニーカーに変わったくらいだ。
 微妙な長さの髪は後ろで一纏めにされていて、多分風紀云々より自分が暑いだけなんだろうなあと妙に冷静な判断をする俺がいた。
 そんな雛乃さんの目線は俺を通り過ぎ、再び正面へ。
「……とまあ、こんなふうにはあはあ言いながら突然教室に飛び込み、理不尽な怒声を上げる変質者も近年増えている。ついにこの村にまで及んだようだから、十分気を付けてくれ」
「っていう間違ったことを教える教師もいるようなので、俺も気を付けますね!」
 いかん、声量調節が上手くいかない。予想よりボリュームが大きかった。
「変質者ではないというなら、身の潔白を証明するためにここに上がってきて弁護をしたらいいんじゃなーいのー?」
 不敵に笑いながら、スニーカーの爪先でとんとんと自分の足下を叩く雛乃さん。理不尽すぎる電波教師に恨み辛みを連ねたいのは山々だったが、今ここで掴みかかるわけにもいかない。そこまで冷静さを欠いてもないし。
「………………」
 まるでずっと前から用意していたほどスムーズな話題替え、ようやく本格的な『転校生の紹介モード』に入ることに、少し息が詰まった。
 まだぜえぜえとうるさい息を数秒止め、小刻みに繰り返していた呼吸を無理やりに一つへ纏める。長めの深呼吸を終えればいくらか息は落ち着いた。どくどくと血流をよくしている心臓も、どん、と胸の上から強く叩いて内側と外側から相殺。
 自転車でののふくらはぎ強制労働のせいか、はたまたそうでないのか、俺だけにわかる程度で膝は震えていた。ああ俺、緊張してる。
 雛乃さんの余裕げな笑みから目を離せない。少し左に眼球を動かせば、小さな教室はすべて見渡せてしまう。やっぱりクラスメートとの対面は、爽やかに始めたい。もう手遅れかもしれないなんて考えは捨てるんだ黒柳彰!
「ええと……ああ、名前書かなきゃいけないのか。チョーク……が、ない。あとでもらいに行かなきゃ……えーとなんだ、黒い柳の彰で黒柳彰。みんな覚えたー? 覚えたよねー。よっしオッケ」どこがだ。
 教卓の前にたどり着いて、机の節目を見つめる。
「どうも、黒柳彰です」
 とりあえずは雛乃さんに乗じて名乗りを上げた。さてここからどうしようか。
 顔上げろよ、と雛乃さんに小突かれて、ゆったりと顔を上げる。自分のコントロールではなしに、顔が熱暴走を始める。早々に退散しなければ、と早急に口を開いて、
「えーと……とりあえず、これからよろしくお願」       え?
 ――頭と目の前が、真っ白になった。
 そのままの、意味で。
「……おい、彰?」
 ぶつ切りになった俺の定型文をどう思ったのか、若干眉を寄せた雛乃さんが視界の端に現れる。けれどそれはぼやけて、消えた。俺の名前を呼んだ雛乃さんの声も、ハウリングのようにきんきんと鼓膜の近くでうるさいだけで。
 開け放った窓から吹き込む風は、様々な現象を巻き起こす。
 一つめとして、初夏の風を教室内に吹かせた。その風音は、例によって普通よりも大きく耳朶に響き渡る。二つめとして、アイボリーのカーテンを柔く膨らませた。窓際の生徒数名が、面倒そうにそれを払う。
 三つめ。アイボリーのカーテンを一人だけ避けず、まともにそれを食らった奴がいた。
 カーテンよりも白く、白く、白く。風に靡かれた髪が、カーテンからはみ出して毛先をぱたぱたと揺らしている。それはまるで、鳥の羽のようで。フラッシュバック。ホワイトアウト。何だろう、この感覚。
 風が収まって、落ち着いた布地の向こうにいたのは。
 昨日の飛び降り女だった。
 白く長い髪を風に流して。白い肌を輝かせて。白いセーラー服に身を包んで。白いオーラに囲まれて。
 とんでもなく白い、とんでもない美少女だった。
「………………」
 風に乱れた髪を手で梳き、少し伏せてからこちらに向け直した瞳は、まっすぐに俺を見ていた。
 瞬間、時が止まる。
 風も音も止んで、俺たちの視線が交差し合うのを待っていたかのようにお膳立てしてくれた錯覚。
「おい、彰って!」
 だがその錯覚も一瞬、肩を強く揺すぶられて我に返った。
 ちかちかする目で雛乃さんへと視線を戻せば、世界は急に現実味を帯びて俺の体を埃臭くさせる。沈殿し始めた体は、きちんと足の裏の感触を、地上だと認識する。
 雛乃さんは、眉間にたくさんの皺を刻んでいた。
「どうしたのよ、いきなり。そんなに驚くほど教室狭かった?」
「……ああ、いえ。……雛乃さんは、驚くくらい『現実です!』みたいな顔をしているなあと思って、その安定加減に浸っていたんですよ……」
「イカれた頭を治すには強烈な一発が一番だよな?」
 拳に息をかけた雛乃さんを見て、慌てて手を振る。今のは流石に俺が悪かった。頭が茹だった感覚だ。
 飛び降り女から目を引きはがし、落ち着いた色合いかつちょうど良い顔立ちの雛乃さんへと目を移す。
 これ以上クラスでの印象を悪くして堪るか。すでに取り戻せない感はあるが。
「ちょっと目にゴミが入っただけですよ。すいません」
「えー? どれ、見せてみ」
「もう大丈夫です。雛乃さんの顔見た衝撃でゴミも脱兎しましたから」
「おーいみんな、こいつだけはリンチしてもアタシが許すぞ。……早く席つけ。自由席」
 乱暴にどん、と背中を押されて生徒側の空間へと転がり出る。十数名ほどしか生徒たちは、一様に俺のことを不思議そうに凝視していた。そりゃ、これだけ不審な行動を取れば当たり前なのだが。
 いくらでもある空いてる席の中で、俺は古来よりベストポジションと盲信されている窓際の後列を選んだ。が、直後に後悔。カーテンがなければ紫外線がっつり、カーテンがあれば風でカーテンが俺に肉弾戦を挑んでくる。夏場にこれは面倒くさい。
 まあいいや。お得意の素早い諦念を発揮、ただでさえ衆目を集めている中で再び席替えなんていう勇者は目指さず、運の悪い己を呪う程度に留めた。
 さて。
 改めて教室内を見回すと、男女比はほぼ同じくらい。ぱっと見の分類では、三種類に別れていた。制服が二パターンと、私服の人らがちらほら。わかりやすい女子のほうとしては、シャツに紺色のリボンタイと紺色スカートという面々と、白セーラーに紺色ラインという違い。どういう分類なんだろうか。
「そんじゃま、HRは終わりにすっか。一時間目の準備とチョーク取ってくるから大人しく待機してるよーに」
 空気を一掃するようにばちんと手を叩いて、何のわだかまりもなさそうに教室を出て行ってしまう雛乃さん。一人孤立したような気分になって、焦った。
「え、ちょ、待っ……」
 雛乃さんを捕まえようと、慌てて立ち上がる。自分の気が済んだら俺は放置か。朝のこととか、今のこととか、すべて纏めて雛乃さんのせいにして言いようのない感情の捨て場にしてしまいたいのに。
 だが、雛乃さんを追いかけようとする俺の腕は、はっしと掴まれた。
「……あ……?」
「教室出たら怒られちゃうよー?」
 くりくりお目々と、きのこ型に膨らんだ焦げ茶の髪。第一印象は、リスだった。
 俺の隣に座っていた女子が、何の悪意もなさそうな笑顔で俺を引き留めていたのだ。何かを塗っているのか、ぴかぴかと光る透明な爪が柔く俺の手首に食い込んでいる。
「なんとなーく、言いたいこともわかるんだけどー。まま、今は新しいごがくゆーとの交流に興じませんかー?」ごがくゆー? ……ああ、ご学友か。
「………………」
 言いたいことは山ほどあった。女子一人の腕を振り払うくらいの力もある。ついでに言うと、俺の三つ前の席に座っている飛び降り女のことも気になって仕方ない。
 けれど、これ以上悪目立ちする度胸はなかった。飛び降り女に話しかける勇気もない。
 もしかしたら雛乃さんはここまで考えていたのかもしれない、なんて空恐ろしいことを、と震えながら、大人しく椅子に尻を落ち着けた。軋む背もたれに身を預けて、力なく息を吐く。
 俺が抵抗しない意志を見せると、女子の手はやわやわと外れて、脇腹をつついてきた。
「暇なら、お話しようよ。転校生くん」
「……こんにちは、黒柳彰です」
「あはは、徹子さんみたい! ていうか、さっき聞いたよー」徹子さん? ……ああ、黒柳の徹子さんか。
 リス系女子はぱちぱちと手を打ちながら、何が面白いのかころころと笑う。
 東京だったらあり得ないなれ合い。転校生は最初、腫れ物のように遠くから観察される雰囲気が漂うものだと思っていた中、いきなり――しかも女子に話しかけられるとは思わなかった。
「ねえねえ、あたしと会ったことある? 何か見たことある」
「……ナンパですか?」それに、俺に似た顔は死ぬほどいるだろうと自負している。
 可愛めの子で、童顔、小柄。ゆるふわ。小動物。天然。そんな雰囲気を全身から醸し出すしている。風船のように膨らんだ丸い頭がよく似合う。きっと、ナンパするよりされる派だろう。こんな辺鄙な村にナンパ野郎が彷徨いているかはともかくとして。
 女子は「そっかそっか」と適当に頷いて、話題を再び変える。一瞬たりとも動きがやまない女子である。
「くろやなぎあきらって、どう書くの? ひな先生の説明じゃわかんなかったー」そりゃそうだ。「はい、使っていいよ」
 カラフルなドット模様が描かれたシャーペンを俺に手渡し、机をとんとんと指先で叩く女子。書いて教えろと。
 読める程度には丁寧な字で名前の筆記を行い、それを見た女子がふむふむと頷く。掌に三回ほど書いて、ごくりと飲み込んだ。……それ、暗記力を高める効果はないだろ。
「あたしはね、木葉(ここのは)神(か)音(のん)。木の葉っぱって書いてここのは、神様の音って書いてかのん。あたしは頭悪いから口で言われただけじゃわからないけど、転校生くんなら脳内変換出来るよね?」
「ああ、まあ」
「あ、あと、変わってる名前だねってツッコミはなしで。生まれてこの方、一年に一回は絶対言われてるから、もうお腹いっぱい」
「変わった名前だね」
「十七回目ー。十七年目の一番は転校生くんでしたおめでと!」
 十七回目ってことは、そのまま素直に受け取って十七歳ということでいいんだろうか。とすると、俺と同い年か一つ上ということになる。
 ゆるふわ女子から少しだけ目を外して、その向こうにある教室の空気を掴もうと試みる。若干ざわついて、それぞれお喋りに興じている。驚嘆と怪訝の表情が蔓延していることからするに、やっぱり話題となっているのは、――俺、だろうな。普通に。
 それでも教室の空気が和らいでいることに安心した俺は、次に正面の飛び降り女に目をやろうとする。が、俺が集中していないのを知ってか知らずか、ゆるふわ女子がずいっと身を乗り出してきて、俺の視界を遮った。
「っていうか、転校生くんじゃおかしいよね? 呼び名。ええと、どうしよう。転校生くん、高二だってひな先生言ってたし、ええと……えーと、……あたし! も、いっしょ! だから、一緒にしよう!」
「……はい?」
 天然リス系ゆるふわガール改め、電波ちゃん疑惑浮上。
 いきなり自分の鼻先を指差して、語気荒く叫んだ。ゆるふわ女子は俺のほうを向いて、教室中に背を向けているからわからないのだろうが、周りにいる数人が驚いた表情でこちらを見ている。
「……もしかして、こっち側の人?」頭の横で人差し指をくるくる回してから、ぱっと拳を開く。
「ちーがーうーのー! 違う、聞いて! あたしくるくるぱーじゃないし! もう、騒いじゃった。……あのね。あたし、一緒なの。転校生くんと同じ、高二。ほら、セーラー服」
 つい、とセーラー服の上着を摘んでみせる。その拍子、日に焼けていない真っ白な横腹が見えたが、指摘したらますます俺の印象は悪くなりそうなので口を噤んだ。
 代わりに、別の質問を口に出す。
「セーラーだと何なんだ?」
「うん? 知らないの? 白セーラーがあたしたちで、紺のセーラーが中学生たち。あたしたちは夏もセーラーだけど、中学っ子たちは、夏服がああいうのなの。男の子たちはどっちも学ランだからわかりにくいんだけど……学ランのボタンが銀なのが中学生たちで、金が高校生かな? 夏服はほぼ一緒だからわかんないや」
「へえ……」
 思わず、飛び降り女にちらりと目が行った。つまりあいつは、高校生。
「私服の奴らいっけど……」
「あ、このがっこ、制服じゃなくて推奨服なの。私服登校もオッケーなんだけど、田舎にしては可愛い制服だから着てる子がほとんどだけどねー。あ、でも夏は暑いから私服が増えるかも」
「あ、へえ。私服いいんだ」
 だったら俺は私服でよかったんだけど、と少しだけ考える。婆ちゃんたちへの借金がまた増えた。
「そうそう。んで、話戻すけど、あたしと転校生くんは同じ学年でしょ? 立場は対等だと思うの。だから、呼び方も一緒にしよって言いたかったわけ。つまり黒柳なら木葉、彰なら神音、あっくんならのんちゃん。ちなみにあたしは最後の推奨!」
「却下で!」呼ばれるだけならともかく、俺がその呼び方をして誰が喜ぶんだ。
「俺は普通に木葉って呼びてえけど」
「あたしは彰って呼びたいけどー」
「………………」
「………………」
 早速意見が分裂した。
「神音でいいじゃんかー。ダメなのー?」むう、と膨れる。
「女子を呼び捨てっつーのは……なんつーか」
 呼び捨てどころか、女子とまともに会話をしたこともない甘酸っぱい学生生活を送ってきた俺であるからして。甘酸っぱいというかしょっぱい。
「あ、そうなの? んー……じゃあ、そのうち神音にしてくれればいいかな? あたしは彰、彰は木葉。これでおっけー。決まり決まりー!」
 了承の一言は出していないはずだったが、ほんわか女子のお花畑脳内ではすでに決定事項のようだった。手を掴まれ、ぶんぶんと振られる。
 ……まあ、いいや。
 ゆるふわ女子改め、木葉。頭のネジは緩んでるっぽいが、どこかの誰かと違って外れてはいない。普通に可愛く、普通に女子、普通の人間。この村に来てから初めて出会った、普通の人。
 だがそのとき、ガターン! とけたたましい音を張り上げて、一つの椅子が倒れた。一人の男子生徒が勢いよく立ち上がったせいで、後ろへとひっくり返ったのだ。ちなみにそれはちょうど、俺の斜め右前。木葉の前の席。
 木葉の髪色はムラなく綺麗な焦げ茶で、素人目にも天然茶髪とわかる。だが、未だ机を見つめてわなわなと震えているそいつの頭は所々黒髪が覗いていて、見るからに人工着色をしたライトブラウン。もしかして不良か、と少し身を強ばらせるが。
「お……」
「お?」
 小さく呻いたそいつの声を拾って、木葉がそれを繰り返す。
 ぶうん、と音がしそうなほどの勢いで振り返ったそいつは、勢いを殺さずに手を俺の机へと叩きつけてきた。悲鳴が上がりそうになる。
 だがそいつは、
「お……俺だって、彰って、呼びたいぃいいぃいぃいぃいいいぃい!」
「…………………………………………」
 ただの馬鹿だった。
 瞬時に頭が冷却されていく。何だろう、この形容しがたい苛立ちは。雛乃さんと似たものがあるけど、明らかに同じものではない。感情がもしボタンで割り振られているとするなら、他人の苛立ちボタンを自ら押しに来ているような。
 そいつはと言えば、肘から崩れ落ちては割れんばかりの勢いで机に頭突きをかまし、一人で悶えている。仰け反ったままの勢い、俺の前の空席に腰をぶつけて二次災害。
「い、痛い……」
「……何してんの」
 一人で暴れて一人で騒いでいるそいつは、俺が声をかけると素早く身を元に戻してきた。つまり俺の机に両腕を突いている状態で、
「俺、ユヅル! 神音とよろしくするってことは、俺ともよろしくするってことだから! そのへんよろしく! ていうか、これからよろしくな彰、末永くよろしく!」五回言った。
 それにしても、木葉に続いてまたも俺に声をかける奴がいたとは驚きだ。変人と思われて仕方のない登場の仕方をした正体不明の転校生に対して、自ら慣れ親しもうなんて俺なら思わない。
 ただし、この村で俺に関わる人物は何故か全員ネジが緩んでいる。
「よろしくよろしく、久々のお友達ー!」
 ユヅルは俺が口を挟む間もないくらい一方的に捲し立てて、強制的に熱い手との握手を交わされた。……え? これでもう俺とこいつの友人関係は成立なわけ?
 すると、
「ユヅルって誰だよ……正しくは天(あま)原(はら)さんちの由(ゆ)鶴(づる)ちゃんだろうが」
 ぼそり、と低い声が俺の耳にも届いた。
「ぬあああああああああああぁぁぁぁぁぁん!」
 その瞬間、ユヅルと名乗った奴は身をくねくねと捩って頬を染め、足をだんだんと床に叩きつける。今の悲鳴と動きは何だ。
「ねえ今の絶対夜(や)宵(よい)兄ちゃんでしょ! 何で!? 何でそういうこと言うの!? 今宵ちゃんにはいつも優しいじゃん! その優しさの一割でもいいから俺に分けてよ!」
 ユヅルは怒っているのか泣いているのかわからないような声で、一人の男子生徒に詰め寄る。
 扉側の中程に座っている、Tシャツにジーンズと私服着用で黒髪の男。遠目にも整った顔とわかって、少し長めの無造作ヘアすらサマになっている。まるでそれは大学生のような雰囲気で、同性から嫌われそうなタイプなのだが。
 っは、とわかりやすく鼻で笑い飛ばしたそいつは、嘲りの表情を形取ったままに大真面目な口調で告げた。
「俺以外の男は滅亡すればいい。なぜなら、妹が可愛いからだ」
 ――ああ……。
 ダメだこいつ、と瞬時に悟った。こいつもまた、この村にはなぜか多く発生しているらしい『関わると損をする』タイプの人間なんだろう。
 同性から嫌われるどころの話じゃなかった。
「ダメだって、それ! 完全に兄ちゃんの愛は歪んでる! 今宵ちゃんを大切に思うなら、なおさらちゃんと正しい恋愛をさせてあげようよ!」
「はは、兄ちゃんって呼ぶなよ。お義父さんって呼ばれたのと同じような感覚がして、お前を詰め込みたくなるじゃないか」
「爽やかな笑顔で何を言うの! っていうか、詰め込むって、ど、どこに!? 何に!? タンス!?それとも段ボール!?」
「そのくらいで済めばいいんだけどなー。……ちなみによ、コンテナって個人で買うといくらくらいするんだろうな?」
「あ、俺コンテナに詰められる。コンテナに詰められて貨物として遠い国に輸送される。グッバイ俺の人生……」
 胸に手を当て遠くを見つめ始めたユヅル、もとい由鶴。
 てゆーかさ、と木葉が冷静に間へ入る。
「どう頑張ったって、本名なんてすぐバレると思う。天原由鶴なんて、そこまで恥ずかしくないと思うよー?」
「俺にはトラウマがあるんだ……そう、小学校の時にゆーちゃんと呼ばれ続けた悪夢のような日々のなぁっ!」
「ああ、もう今言っちゃったからいいんじゃん? 気にしないの。ね、ゆーちゃん」
 そうですよゆーちゃん先輩、とユヅルの近くにいた女子中学生が笑顔を向ける。あだ名があるって愛されてる証拠なんだぜゆーちゃん、と肩を叩く男子に、どんなゆーちゃんでもゆーちゃんはゆーちゃんだから……と悪ノリして顔を歪める奴までいる。
「え……何なの、ねえ……俺怖いよ、何このみんなの……ほら……」
 あくまでも小動物な笑顔で言った木葉の『ゆーちゃん』は、瞬く間に教室中へ広がっていく。
 ゆーちゃん、ゆーちゃん、と一種の呪いみたいに繰り返される中、
「両親が女の子だった時の由鶴って名前しか考えてなかったらしくて、名字も相まって『女の子みたい』っていうコンプレックスらしいよ」と木葉が耳打ちしてくれた。
 教室中からの『ゆーちゃん』コールに耐えられなくなったのか、感極まった由鶴は顔を押さえて「もうやめてえぇええぇええぇえええ!」と教室を走り去っていった。
 三秒後。
「教師の目の前でボイコットとは偉くなったもんだな、由鶴お嬢様も」
「……俺は本当に何もやってないんです……信じてください……」
 雛乃さんに首根っこをひっ掴まれ、ずるずると引きずられながら帰ってきた。
 由鶴は乱暴に床へと投げ捨てられ、誰もその屍を助けようとはせずに、というか視界に入ってないような素振りで「はい一時間目始めるよー」という雛乃さんの号令と共に起立をしていた。
「ん……?」
 きりーつ、れーい、ちゃくせーき、という動作に紛れて、横目で木葉を伺えばちょうど木葉もこちらを見ていて、ばっちりと目が合ってしまう。
 木葉は照れたように笑って、またあとでお話しようね、と小声で囁いた。


 この学校の基本的な授業体形はこうだ。
 基本的にはすべて自習で、決められたカリキュラムを一学期間にきちんと済ませ、なおかつその内容を理解しているかの確認テストが学期末にあり、そこで評価が下る。教科書を開くも開かないもすべて自由、次の単元に進むのもすべて自分の判断。わからないところや応用問題のみ、教師や上級生が教えていく。
 だから授業が始まれば生徒たちはやいやいと何グループかに固まり、お互いに教え合う形で授業を受ける。
 ちなみに今は一時限目で、授業名は『数学』と大まかに纏められたものだった。だが俺はすでに前の学校でこの単元は終わらせており、「一緒に勉強しよー」と机を寄せてきた木葉にその旨を伝えれば「じゃああたしも今日はもう終わりー。明日いっぱいやるからいいやー」と教科書を投げ捨てた。
 そして今。
 雛乃さんは堂々と教卓で惰眠を貪っている。よく食うよく寝る、そりゃすくすくと育つだろう。成長期はとっくに過ぎているというのに。
 そんな無法地帯そのものな教室の中、俺は木葉を含む男女数名のグループと机を寄せ合うに至っていた。俺を含めて男子三人、女子が三人。まるで合コンである。まあ俺はそんなものに行った経験なんてないが。健全ライフ。楽しんでる。楽しんでるってば。
「いつもあたしが一緒にいる人たち。今日からは彰も一緒だから、一時間目は自己紹介しあおっかー」
 左右に三つずつ、合計六つがくっついた机の真ん中座っているのは木葉。その向かいに俺。俺の右隣には、
「ねえ、彰……俺って嫌われてるんだと思う? もしかして俺うざい? って掘り下げるのももしかしてうざい? 何でみんな倒れてる俺のことを見ないようにするの? 酷くない? 何で先生は俺のこと信じてくれないの? 差別だよね?」
「木葉先生」
「なんですかあきらくん!」幼げな口調で対応された。
「直ちに席替えをしてください。もうすぐ受験だと言うのに、これでは勉強に集中が出来ません」悪ノリしてみた。
「彰! ねえちょっと! やめてよ、俺だって少しは傷つくよ!」
 何か、鬱陶しいのがいた。男子高生が男子高生の腕に擦り寄ってくすんくすんと声を上げる様は実に気持ちが悪い。
 ので、正直に言ってやることにした。
「由鶴」
「はい」
「うざい」
「……はい……」
 まだ数言しか会話を交わしていないのに、すでに呼び捨て&うざい呼ばわりが出来る相手って凄いねー(棒読み)。
 由鶴の額を押してべりっと引きはがし、自分の椅子の上にまっすぐ座らせてから木葉に手で『どうぞ』のジェスチャーを送る。木葉はこくりと頷いて、目線を由鶴からその隣へ移した。
「ええと、こっちが唯一の中学生、一ノ瀬今宵ちゃん。一年生」
 木葉が次に手を向けたのは、自分の左隣にいるストレートロングの髪が清楚らしい、小柄な少女だった。中一というより、小学生に見えるくらいだ。
「よろしくお願いしますね、せんぱい」
 まだ幼さの残る声でそう頭を下げる、……えーと、一ノ瀬。肩からこぼれ落ちた髪を掬って耳にかけ、アーモンド型の瞳を横に潰して笑いかけてくる。これは何というか、素直に可愛い。
 中一ってこんなに子供ぽかったっけか。俺と二つしか変わらないのに、純情さがこれでもかとしみ出ている。ていうか、明らかに一ノ瀬が世間知らずというか、危なっかしいというか。俺の中学の時の同級生はこんなに可愛らしくなかった。
 年上ぶるわけでもないが、とりあえずは希少価値な少女に対して友好的な意志を見せておこうと一ノ瀬に向けて手を差し出す。
「これから色々とよろしくな、一ノ」
「何を色々とよろしくするんだ?」
 がしっ、でもぎゅっ、でもなく、めりっ。伸ばしかけた俺の手首が途中で何者かに捕獲された。というか、捕食っぽい。蛇に手首を丸呑みされてる気分だ。
 顔は固定したまま眼球だけを一ノ瀬のさらに向こう、木葉側の一番右端へと動かせば、そこには禍々しい目でこちらをぎらぎらと睨め付けている男がいた。ああもう、本当面倒くさい。
「あ、こっちは、うちの学校の名物でもある超シスコンの一ノ瀬夜宵。もうわかってるとは思うけど、今宵ちゃんのお兄ちゃん。夜宵は、最年長の高三」
 俺の手首がじわじわと蝕まれているのを視界からシャットアウトさせたらしい木葉は、何事もないかのようにほのぼのと紹介を続けていた。
 が、当の本人は何も見えない聞こえない伝わらない。
「色々って何だお前、俺の今宵に何を色々すんだ? 新参のくせしていきなり今宵に手出そうだなんて、簡単に許すと思うなよ?」
「何を言ってるのかちょっとよくわかんねーっすね。一ノ瀬に手出そうなんて気はこれぽっちも。さっきからずっと一ノ瀬を見てるような由鶴じゃあるまいし」
「……いやー、それにしても先生よく寝てるなー。起きててくれないと、理不尽すぎるいじめの証拠がなくなっちゃうなー。ちゃんと現場を見るのは教師としての義務……あっちょっごめんなさいごめん夜宵兄ちゃんていうか俺何で謝ってんのまるで俺がほんとに今宵ちゃんに何かしたみたいじゃん待て待て待って話聞いて夜宵兄ちゃん俺のことちょっとは信じて俺が何したの俺はそんなに悪いことしましたかねえ彰!」
 言いながらも由鶴は半泣きで教室を飛び出て行った。その後を細かく実況するのはあまりに惨たらしいものがあるので、ここからはダイジェストでお送りします。
 由鶴に続いて何か黒い影が追いかけて行った。そして色々と放送出来ないような音が十秒ほど連続して、破滅音だか破壊音が止んだ瞬間、窓の外から断末魔の叫びが聞こえてきた。校庭まで逃げ切れただけ喝采ものだ。
 ていうか、普通に受け流せばいいのに。馬鹿だろ。
 由鶴(かもしれない)の悲鳴を聞きつけてか、雛乃さんがびくっと肩を揺らして顔を上げる。寝起きそのものな顔のまま、
「……なに……?」
「生徒たちのじゃれ合いですよ、どうぞお気にせず」
「……ああそう……ならいいや……」
 再びぱたりと突っ伏す。時計の秒針が四分の一を過ぎるのも待たず、規則的な寝息が聞こえてきた。
「せんせえっ! せんせええええっ! お願い、いじめの実態から目を逸らさないで! 俺はここで生きてるから! 精一杯、今という時を、生きてる! そんな一つの命が、死んじゃう! 今ここで! 目の前で! 途絶えようとしてる! せんせ、……っ! むぐっ、…………」
 ずっと響いていた悲鳴がついに途絶えた。でも別にやかましくなくなったわけで、問題はない。由鶴によく似た声だったけど、俺は関係ない。俺は何もしていない。
「……はあ。すいません、ちょっと行ってきますね」
 一部始終を窓から眺めていたらしい一ノ瀬が、足のついていなかった椅子から飛び降りて教室を出て行く。きちんと靴を履き替えているのか、先ほどの二人の三倍くらいの時間がかかって、窓の外から声が聞こえてきた。
「こら、おにいちゃん!? 由鶴せんぱいあんまいじめないの!」
「今宵のためなら俺は、この手を血に染めても構わない」真顔で言うな、痛々しい。
「そんなことしたらあたし、おにいちゃん嫌いになるからね?」
「ごめんなさい」体感で一秒かからなかった。
「わかったら由鶴せんぱいを保健室に運んで、起きたらごめんなさいすること。ちゃんと起きるまで見てるんだよ、おにいちゃんのせいなんだから」
「今宵がそう望むなら」
 あ、やっぱ意識ないんだ。ていうか、一ノ瀬(兄)がマジのシスコンすぎてかなり気持ち悪い。何だこの従順ぶりは。兄と言うよりむしろ下僕っぽい。
 しばらくして一ノ瀬だけが教室に戻ってきた。まあ不慮の事故で一悶着あったようだが、面倒なのが一気に片付いて俺としては万々歳だ。偶然万歳。
「さて、ようやく落ち着いたねー。そんじゃ、最後」
 木葉が残りの一人に笑いかける。……遂に来たっぽい。
 ぶっちゃけ、今更驚くことでもないんだけど。集まる時に正面からがっつり見たし、ずっと前からちらちら視界に入ってきてはいたし。いくら目を逸らしていても、圧倒的な存在感を持って視界に入ってくる。
「彰、一番最初に固まっちゃったのって、この子見たからでしょー。まあ、そりゃびっくりするもん。私も、いっちばん最初はすっごいびっくりした」
 そう、ずっと俺の左隣に座っているのは――
「真白。……神崎、真白」
 口を開いたのは、木葉でなく、例の真白い飛び降り女だった。
 あれ、セリフとられたー、と木葉が暢気に笑っている。飛び降り女は無表情に近い、複雑な表情で目を伏せる。長い睫毛が、小さく震えていた。
 名は体を現すというが、ここまで見事にぴったりな奴もなかなかいないだろう。
 この風貌で、名前が真白――だ。
 伏せていた目を上げ、俺の目をまっすぐに見つめてきた。
 見れば見るほど、美少女。透き通りそうな肌に、絹のような白い髪。半袖の上着やスカートから伸びる細すぎる手足。触れたところから溶けそうな、氷像に似た儚さ。
 ……でも、違う。
 俺が本当に聞きたいのはそんなことではなくて。名前より先に、もっともっと先に、お前は俺に言うべきことがあるだろ。俺も、訊くべきことがあるだろ。
 何で、飛び降りたんですか。
 けれどそれは、本当に問い詰めるべきことなのか? スタート早々上手く行き始めているこの学校生活にヒビを入れかねない質問を、こいつにしていいのか? こいつが触れてこない限り、そこは俺が踏み入っていい領域なのか? 一瞬の間に、長く逡巡した。
 するとそいつは、突然確信に迫るようなことを言い出した。
「あなたは、わたしのことを、知っている?」
「――――」
 ……何言ってんだろう、こいつ。真顔で、馬鹿を言い過ぎだろ。お前は昨日、そうだまだ24時間も経ってねえ、お前はここで、この村で、飛び降りて俺を潰したじゃねえか。俺はともかく、お前が知らないはずはないんだ。お前は、……あれ?
 お前は、望んでない?
 ……この質問に隠された意図は?
 わたしはあなたを知っています。なぜなら、飛び降り現場にあなたがいたから。ならば、あなたはわたしを知っていますか。あの一瞬の出来事で、わたしの顔を覚えましたか。それならば、ならばどうか、
 忘れてください?
 乾いた笑いが唇から徐々に漏れ出していく。全部俺の杞憂でお節介か。じゃあ、困った時の切り札でも出しておく。
 ああ、そう。
 助けてほしくはなかったと。いつかもう一度やり直すから、昨日の失敗は俺の胸だけに閉まって何も言うなと。なるほど、わかったわかった。
 ……いいよ、応えてやる。
「いいや、知らない」
「そう? じゃあ、はじめまして。これからよろしく、彰」
 握ったら折れそうなほどか細い手が差し出される。頬を緩めて優しく笑って。何だ、こいつ笑えるんだ。
 こんだけ仲間もいて、そんだけ恵まれた容姿で、学校に通って人間と対話出来る程度には精神も普通で。
「ああ。よろしくな、神崎」
 なら、何で飛び降りたんだろうな。


 二限になると野郎二人組は保健室から帰ってきて、再び騒がしくなる。三限四限も同じような形式で、騒ぎながら、笑いながら授業を進行させて。
 神崎も普通に輪に溶け込んで、由鶴の一人騒ぎにくすくす笑って、一ノ瀬と一ノ瀬(兄)のやりとりを嬉しそうに見守って、木葉の話に相づちを打って。
 普通だった。普通の、女の子だった。
 背もたれのほうを前にして座った状態、窓際で由鶴と話す神崎をぼうっと眺めていた。日の光を浴びて、その白い髪は発光してるようにすら見える。
「ねーねー、彰ー」
「んあ、なに?」
 袖を引かれて、振り返る。木葉は一応教科書とノートを開いているが、シャーペンは筆箱に入ったまま取り出されていない。
「お弁当、一緒に食べる? よね?」
「あー……」
 弁当。無論そんなものを持ってきてはいない。
 俺も二限目の途中ほどから気がついたのだが、この学校に食堂や購買などというものがあるはずもないし、どうしようかと考えていたのである。給食の可能性に賭けてみたけど、見事に裏切られたようだ。
「悪いね、昼休みはこいつ借りてくよ」
「ぅ、えっ?」
 突如後ろから襟を引っ掴まれ、椅子からずり落ちそうになる。首を撫でて襟へと入ってきた指の感触に、ぞわりと鳥肌が立った。
「雛乃さん?」
 首を後ろに傾ければ、雛乃さんのまだ眠そうな顔が目に入る。乱暴に襟を引き上げられて、転がりそうになりながらも何とか立ち上がった。踵が床につかない身長差が悔しい。それと同時にチャイムが鳴る。
「はい、じゃあ解散。今日はままならない事情によりHRなし。飯食い終わった奴から順に帰っていいよー」
 雛乃さんは俺をずるずる引きずって教室を横断し「……ていうか自分で歩けますから!」廊下に出たところでようやく自立歩行を許された。
「何なんですか一体」
「お前今日弁当とかないだろ? だからこのまま帰って飯食う」
「教師がサボりですか?」
「この学校は四時間しか授業がないんだっての。昼飯食ったら終わり。アタシたちなんかはまだ近いほうだけど、何時間もかけて通ってきてる奴もいるし、家業手伝わなきゃいけない奴もいるから午後まで授業やってらんないんだよ」
 先行して歩く雛乃さんの一歩後ろについて、玄関で靴を履き替える。朝はここに上履きが放置されていたよなあ、しみじみ。
「ていうか、俺忘れてないですからね」
「え、何を? アタシとの思い出? お花畑で二人して歩きながら、五分くらいかけて手を繋いだこと? あの時はアタシもお前も初々しかった……」
「記憶を捏造するな!」あとお花畑があるのはあんたの頭の中だ。「そうじゃなくて、朝の一連のことですよ!」
「過ぎたことを気にしてると大人になれないぞ」
「だからあんたはずっと大人になれないんじゃないですかね」
「説明しよう、アタシの耳は自分の聞きたいことしか取り入れない優れものなのだ」
「……干物女」ぼそっ「うおぉっ!?」外履き用の黒スニーカーが吹っ飛んできた。というかぶん投げられた。先生、耳が取捨選択してくれません。自称なのに。
「まあ、アタシが超絶美少女なのは常識だからいいとして」
「どの次元の方と話しているんですか?」誰がそんな話をした。それに、せめて美女だとか美人にしてくれ。美『少女』て。
 靴を履き替えて玄関からから出ると、正午になって増した日差しが強く照る。めっぽう紫外線が苦手らしい雛乃さんは「溶けるー!」と騒いで自転車置き場の下へと逃げ込んでいた。
 お互い自分の自転車を庇の下から引き出す。サドルを直そうと思ったのに、雛乃さんがさっさと走り出してしまったので諦めて俺も跨った。
 少し早めに漕いで雛乃さんのすぐ後ろについたあたりで、加速の足を緩める。が、特に変な運転の仕方をしているわけでもないのに雛乃さんが妙にぐらついていて危険を感じたので、少し距離を取った。
「何で俺を置いて出て行ったんですか!」
 蛇行運転が続く雛乃さんと少し離れているため、自然と声が大きめとなる。
「新生活を面白みとスリル溢れるものにしてやろうかと思って」
「もうあなたの存在が一番面白くて危なっかしいので余計なことはしないでください」
「昼飯何食いたい? ピラフ以外なら何でもいいよ」
 ガン無視された。が、すでに慣れているので気にはしない。
「何でピラフだけ除外ですか」
「昨日食べたから」
「なるほど。だったら俺は、」
「そうめん」
「じゃあそれで」
 そうめんが良いなら俺に聞いたりしないで最初からそう言えばいいものを。まあ、どうせお任せって言うつもりだったけど。
 そこで一旦、会話が途切れる。だがそこに特有の息苦しさはなかった。昨日と今日で学んだが、雛乃さんとの沈黙は不思議と重くないのだ。――ただ単に、口を開けば聡明な美人面から頭のおかしな地球外生物になるからかもしれないが。
 けれど平和な時間に浸っている場合でもない。雛乃さんと言語を交わすという難易度の高いことを自分からしでかさなければいけない理由が俺にはある。それに、顔を見られない今のうちに済ませておきたい話題だった。
「雛乃さん。神崎真白について教えてくれますか」
「………………」
 聞こえていないのか聞こえた上で沈黙を通しているのか、一分待ってみても雛乃さんから返答はなかった。なので話の方向性を変えてみる。
「神崎の髪って、あれどういう構造してるんですか? 染めたにしても、あんな綺麗に染まりませんよね。第一ブリーチなんて、そんなことするタイプに見えませんし」
「……生まれつき、メラニン色素が少ないらしいよ。メラニン色素を作るためにはチロシナーゼっつー酵素が必要なんだけど、それもあんまなくて、まあつまり若白髪ってことなんだけどさ」
 数秒の間はあったものの、今度はきちんと返ってきた。……ていうか、教師っぽいこと言いすぎてて何か怖い。
「まあ、本人からすりゃいいもんでもないと思うよ。それのせいで母親も亡くしてるし」
「……神崎、母親いないんですか?」
「父親もいないよ。そっちは詳しくないから何とも言えないけど。母親と二人で住んでたけど、母親もメラニン色素少なめだったらしくてさ、皮膚癌で死んだんだよ。メラニン色素が少ないとなりやすいんだ、皮膚癌。だからむしろ、真白は嫌なんじゃないかね、白いのってさ」
 ……へえ、ふうん。
 何というか、感想に詰まる。可哀想だと同情するのが正しいのか、何だそんなことかと笑い飛ばすのが正しいのか、どれが答えかわからなかったから無言を貫いた。
「神崎の母親が死んだのって」
「もう何年も前じゃないかな。確かあいつがまだ小学生とかそのくらいだった時。まあ見た目以外は普通の子だよ。普段はそれを引きずってるようにも見えないし」
「今はここで一人暮らししてんですよね? 生活ってどうしてるんですか」
「父親の残した金と母親の保険金がまだ残ってるから、それで食いつないでるって聞いた。……父親のそれが遺産なのか、保険金なのか、はたまた慰謝料なのかはわからないけど、ね」
 雛乃さんの顔は見えない。低く弾んだ声だけが風に乗って流れてきて、ついでに蛇行運転はますます酷くなる。近づいたら巻き込まれそうだ。
「ていうか、何でそんなに真白気にすんの? 惚れた? まー色んな意味で目引く子だけど」
「………………」
 少し迷う。神崎が昨日飛び降りてきたことをこの人に伝えるべきか。
 雛乃さんは若干常識外れではあるものの、俺がそれを喋ったことを神崎本人に伝える真似はしないだろう。自分にとって、自分の周りにとって、不利益となるようなことはしない人というのは何となくわかっている。
「あれ、無言? てことはマジで惚れた?」
「いえ、そうじゃなくですね」
 脳裏に張り付くのは、色素の薄い神崎の瞳。どこか不安げに尋ねてきた、記憶の保持。れは神崎にとって抹消したいものであると、俺は受け入れた。
 俺の中で燻る感情や言葉を抑えつけて、仕舞い込む。
 代わりに、雛乃さんが黙らざるを得ない答えを導き出す。
「あえて言うなら、俺に似てるからですかね」
 そこからは、どちらも口を開かずにまっすぐ進んでいった。


 どうしてこうなった?
「そうめん出来たよーダーリンーかっこはぁとー」と雛乃さんに呼ばれて(スルースキルの成長が著しい)俺が居間へ向かうと、居間の机に置かれていたのは大皿に入れたそうめんと、めんつゆを入れた小皿。
 夏だなあ、なんてしみじみ思っていたら、
「あ、いけね。真白、箸持ってきて」
「ん」
 神崎がいた。しかもごく普通に。
 雛乃さんに箸を手渡して、ぺたりと座布団の上に座る神崎。その隣には婆ちゃんがいて、朝起きてから二度寝していたのか、若干瞼が重たげである。親子揃って昼間から惰眠を貪りすぎ。
「どういうことですか」
「何が?」
 台所で麦茶をコップに注いでいた雛乃さんに詰め寄ってみた。婆ちゃんと何事かを話して小さく笑っている神崎には聞こえない声量で。
「何で神崎がいるんですか」
「二日に一回は食いにくるよ。一人飯ばっかとか可哀想だから、アタシが前に誘ってからはずっと。毎日でもいいって言ってんだけど、それはさすがに悪いって言ってさー。ていうかなに、もしかして女子がいたら胸が破裂しそうでご飯なんて喉を通りません僕ちんって時期? 青春だねー」
「そうじゃねえ! 何であんたは毎回事後報告なんですか!」
「さー、でけたでけた。冷めないうちに頂きましょ、あなた」
「ああもうどこからつっこめばいいのかわからねえちくしょう! とりあえず茹だってるのはあんたの頭だ!」
 頭をかきむしりたくなったが、食事を作る場なので自重した。
 ててー、と年不相応にも軽やかに駆けていく雛乃さんを溜息で見送って、ふと目線を下げるとコップが二つ取り残されていた。
「……はあ」
 氷が入って水滴だらけとなったそれを手にすると、掌からじんわりと冷却されていく。水滴が俺の手に張り付く感覚が気持ちいい。現実逃避じゃないさ。
 だがそれに浸ってばかりもいられないので、水がぬるくなる前に居間へ戻る。じっと俺を見上げてくる神崎の前にコップを置いて、座布団の上に座った。
「ほんじゃ、いただき」
 雛乃さんの声に合わせて、他三人が手を合わせる。
 箸よりも先にテレビのリモコンを掴んだ雛乃さんが、適当にチャンネルを回してバラエティで固定した。長い髪をゴムでひとまとめにしていた神崎が、反射のようにそちらに目をやる。
「………………」
 その隙をついて、そうめんを一掴みしながら神崎を盗み見る。
 無造作に髪を括っていてさえ、その輝きが失われることはない。たとえばこれが雛乃さんだったら、駄目人間度数が上がるばかりなのになあ、はは。「のわぁあっ!」「おっと悪意が滑った」「堂々としてるなちくしょう!」きんきんに冷えたコップが頬にべちゃりとついた。空輸方法は雛乃さんの自前の手である。
「ていうかちょくちょく人の心情を読むのやめてもらえますか? 叔母チート説が有効になってしまうので」水滴を手の甲で拭う。
「目が語っていたんだよ、という大人の事情」
「なるほど」
 いや、何がだ?
 これ以上は収拾がつかなくなるから追求しないけど。はい撤収。
「彰」
 そうめんを汁にひたしたところで婆ちゃんからお声がかかったので、どうしようか一瞬迷う。汁から引き上げてしょっぱくならないようにした。
「ぼたぼた垂れてるよ。いいから食いな」
「どうも」ずぞぞぞ、と一気に吸い上げる。
「……で、学校はどうだった?」
「ひままでとひがいふぎてふこしほま」
「食ってからでいいっつの」
 咀嚼。ごくん。
「今までと違いすぎて少し驚きましたけど、楽しいとこだと思います」
「テンプレだねえ」
 くっくっく、と婆ちゃんが顔の皺を増量させて、嘲りに近い笑い声を上げる。何かの本で見たような文章を真似たのは、どうもお気に召さなかったらしい。
「友達は出来たか?」
「友達っていうか……木葉っていう奴に話しかけてもらいましたけど」
「ああ、木葉。じゃあ天原や一ノ瀬、柊も一緒だったわけか」
「柊?」
 初めて聞く名前だった。紹介された中にはいなかったはずだ。
「おや。真白、どういうことだい」
 大皿に箸を突っ込んで氷を掻き混ぜていた行儀の悪さには突っ込まず、俺から伝わった疑問の処理を一任する婆ちゃん。神崎は二秒ほど遅れて顔を上げた。
「彼方、今日休み」
「ほう」
 一つ頷いて、自分の役目を終えたとばかりに、再び氷とのお戯れに戻る神崎。雛乃さんにリモコンで小突かれるまで続行していた。
 どうやら柊彼方という女子がもう一人グループにいたらしい。今までのキャラ構成からするに、ううん、お嬢様系。それかツンデレ系。……いかん、俺の思考が神の意志によってねじ曲げられている。方向修正を図ろう。
「みんなのこと知ってるんですか?」
「知ってるも何も、真白がたまに連れてくるさ。ところで、ヒナはどうしてた?」
「寝てましたね」
 ぎろり、と婆ちゃんが正面の雛乃さんを睨む。雛乃さんはテレビに視線固定、ただのトークに面白いふり「あっははー」と乾いた笑い声を上げていた。
 前に視線を戻すと、ぼうっとテレビに目をやっていてそうめんをつゆに浸しっぱなしになっている神崎。どんどんと味が染みこんでいることだろう。隣も前も問題児だった。
「おい、こら。おい、神崎っ」
「へ?」
「それ、上げろって」
「どれ?」
「麺!」
 そこまで言ってようやく、神崎は慌てたように麺を引き上げた。だがすでにそれは茶色く変色していて、中までぎっちりとつゆが染みこんでいた。
「………………」神崎は考える。「………………」麺の先から汁が垂れる。「………………」たっぷり十秒は考え込んで、「こらこらこらっ」麺を大皿に戻そうとしていた。
「ん?」止めに入った俺を見て、ゆるりと首を傾げる。
「一度浸けたのを戻すな! ましてやみんなが食ってるものん中に!」
「だめ?」
「ダメだろ! ていうか垂れてる! 碗の中に戻せ!」
 戻そうとした状態のまま停止しているため、麺から滴った汁が机へとぽたぽた零れているのだ。神崎はそれをじっと見つめたまま動かない。ああもう!
 救援を求めて大人二人に目を向けてみたが、婆ちゃんは目を閉じて素知らぬふりで麺をすすっているし、雛乃さんは体ごとテレビに向いてわざとらしい笑い声を上げている。ダメだこいつら。
 仕方なく立ち上がって台所に駆け、台布巾を手にして引き返す。未だ汁の下降を許している神崎の手の下に布巾を置き、これ以上の被害は防いだ。はあ、と嘆息。
「……これどうしようか?」
 悪いとも思っていなさそうな笑顔、だんだんと乾いて水気を失った麺を掲げる。どうしようかではない。食え。……と、言ってしまいたいが。
「……わかった、こっち寄越せ。俺が食うから」
「ほんと?」
「これっきりだからな。次からよそ見すんな」
 何となく憚られて、結局請け負ってしまう。神崎への触れ方がわからないという本音。
 けれど、嬉しそうに頷く神崎を見て、自然と頬が緩んだ。
「じゃあ、はい」
「……はい?」
 何で箸を俺に差し出す?
「くち、開けて」
「………………」
 何を言ってるんだろう、この人。
「碗に、入れろ?」諭してみる。
「しょっぱくなるよ?」不思議そうにされた。
 神崎に羞恥の概念はないらしい。雛乃さんと婆ちゃんがいるどうこうも関係なく、今自分の手元にある麺を受け渡し方法の最良がこれであると信じているだけの顔だ。
 そうしている間にも麺は乾燥していき、すでにそうめんらしからぬ風貌になっている。見た目はただの茶色い糸だ。
 ごねても神崎は引いてくれなさそうであることを悟り、すべてを諦めた。座布団から少し尻を浮かせ、口を開く。この間が何より耐え難い。しょっぱいのではなく、甘酸っぱい。空気が、だが。
「………………」
 結果。まずいもんはまずい。
 つるっとした食感はなく、何だかぬるついた感触が舌の上を貼っている。味は言わずもがな塩分たっぷり、成人病に手招きされている気分だ。食べさせ方がどうであろうと、それが美少女であろうと、それはそれ、これはこれ。
「……若いっていいねー……」
 雛乃さんのじっとりとした視線と声は、見えない聞こえない。
 ちりんと鳴き声を上げる風鈴と、そうめんと共に投入されている氷が、夏の音を奏でていたからという理由をつけてみた。

第4回BLove小説・漫画コンテスト応募作品募集中!
テーマ「推しとの恋」
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