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『それじゃあ――ばいばい』
そう言って、彼女は手を振った。
新幹線にするかバスにするかは、最後まで迷った。
俺の住んでいた東京から目的地まで、新幹線なら二時間半。バスなら六時間。かかる時間を考慮するなら新幹線、料金を考慮するならバスだった。
運賃を払うのは俺ではなく、祖母。だから少し迷った。
けれど俺が決断するより早く、祖母の方から「新幹線にしろ」と電話が来たので、それを目一杯拒否する理由があるわけでもないのでただ頷いた。
正直、今から向かう母方の祖母の顔は全く覚えていない。ちなみに父親の方の祖父母は俺が生まれるとほぼ同時期に亡くなったらしく、遺影でしか見たことがない。だが、遺影を見ていたからこそ母方の祖母よりもその二人の顔は覚えていて、何とも複雑な気持ちになる。
十七年住んだ地元を離れることに大した感慨はなかった。入学したばかりの高校で執り行われた俺の送別会で泣く奴がいるでもなく、見送りに誰かが来るでもなく、何となく連んでいた奴らと手を振り合う程度で俺の十七年間積み重ねてきたものはいとも簡単に終わった。
そして今、新幹線に揺られている俺の目の前に座る人間は誰一人いない。
家族すらも。
住所と祖母の名前だけが書かれた小さなメモがポケットに入っている。
新幹線から降りたら電車に乗り換え、そこから更に車両が一つしかないようなローカル線へ。緑と海。それしかないような田舎が、俺の行き先だった。俺はこれから、そんな田舎にある、顔も覚えてないような祖母の家で暮らす。
一ヶ月前、両親が交通事故に遭って死んだのだ。
今思えば、そこそこ裕福な家庭だったんだろう。特筆するような趣味もなかった俺は、親から与えられる小遣いで十分事足りていて、まだバイトもしたことがなかった。そんな俺が一人で暮らせるはずもなく、このたび、俺を引き取ってもいいと唯一名乗り出てくれた祖母の元へ行くことになったというわけだ。
「あ、すんません。お茶一つ」
途中、気怠そうに回ってきたワゴン販売のお姉さんがいたから、それを呼び止めた。新幹線から電車に乗り換える時間などはぴったり計算してあるから、途中で売店に寄るよりこちらのほうが合理的である。
数種類合ったお茶の中から適当なものを選び、代金を払い終えてから少し、麦茶にすればよかったかと後悔が出たけれど気にしない。少し苦めの緑茶と共に、後悔は喉の奥へ流し込む。
気付かぬうちに乾いていたらしい喉を潤し、蓋を閉めた緑茶のペットボトルを窓際に置いた。そして再び窓の外へと暇潰しの種を求めるが、当たり前に面白いものは見当たらなくて、結局再びこれから先のことを考えてしまう。
スーパーやコンビニは車を出さなければ行けない、携帯の電波はぎりぎり届く、通える学校は探しまくってようやく一つ。俺が行くのはそんな田舎。俺は昔に両親と、一度だけ尋ねたことがある、と祖母から聞いた。
祖母の名前は烏丸(からすま)岬(みさき)というらしい。両親が死んだ時最初に電話をくれたのは祖母で、けれど俺はその時もその後も、結局今日まで涙の一つも出なかった。
住所と名前が書かれたメモは、葬式の時にもらった。両親の葬式とはいえまだ高校生と言うこともあり、一通り終わると共に帰された俺の一つだけの行き先。選択肢など、なかった。
遠ざかるワゴン販売の声も、旅行と思しき数人のおばさんグループの喧噪も、サラリーマンのノーパソが奏でるタイピング音も、目的地へと向かって俺たちを運ぶ新幹線の揺れ動く音も。すべてが俺の背景であるように、その人たちにとって俺は背景だ。
特別なことなんて何もなく、日常がひたすらに連鎖する。平日の昼間に男子高生が一人で新幹線に乗っていようと、それを指差して怪訝がる人もいない。すべては自分の人生に関わりのない、枠の外のことだからだろう。
当たり前も普通もそこにはなくて、けれどこれが当たり前で普通の日常。
ただ、どこかくすんだ景色が、当たり前のように、普通に流れていく。
ワゴン販売のお姉さん以外と話すこともなく、俺は新幹線を降り、携帯にメモしていた乗換案内と掲げられた電光掲示板を見比べる動作を繰り返して、電車に乗り換えて、それからも降りて。
俺は順調に目的地へと近づいていった。
初めてのローカル線は、俺に小さな感動を与えた。数人しか乗っていない電車は初めて見る光景で、自然光だけで車内を照らしているのも面白かった。
けれどその人たちも徐々に降りていき、最終的に乗っているのは俺だけになった。俺だけのために稼働し、俺だけのために鳴り響く車内アナウンス。景色はひたすらに田んぼと畑ばかり。どこまで行っても緑。人の姿すら見えない。
流れる景色の主体となる色が緑しかなくなってからしばらく経ち、飽き始めていた頃。一人だけの車内に、控えめな車内アナウンスが俺の降りるべき駅名を告げていた。
「よ、っと」
誰もいないのをいいことに、椅子を占領していたバッグを肩にかけ、席を立つ。
ほとんどの荷物は先に送ってあるのだが、その日のうちに使うような必要最低限の物だけは段ボールでなく直接持ってこいと祖母から言われたため、洗面用具や貴重品などはこちらに詰めた。段ボールをすぐに開封する手間を面倒がって今日のぶんの寝間着なども入れたため、存外重いのだ。
ゆったりと走る電車が駅へと滑り込み、またもや誰もいない小さな駅への扉を開く。
目の前に掲げられた看板の駅名は――白野(しらつけ)沢(ざわ)。
降りた瞬間、初夏の暑い風が俺の頬を撫でた。屋根の下にいてすらじわじわと汗をかくほどだったが、東京と違って蒸し蒸しとした暑さはない。
六月下旬。俺は白野沢村へと降り立った。
全長百メートルもない駅、そこから見渡す限りの緑。何もない村だった。
新鮮な空気を吸い込み、肺の空気を少しだけひんやりとしたものに入れ替える。冷房の効く新幹線で着ていたパーカはまだ腰に巻いていたが、もう必要はないと踏んで鞄の中へ押し込む。荷物がますます重くなった。
重さの増した鞄を投げだしたい衝動に駆られつつ、先ほどの二倍ほど遅くなった足取りで駅を出る。剥き出しの土しかない道に首を捻りたくなるあたり、俺は都会人なんだろうなあと自覚した。
駅の改札を出ると、自然でいっぱいのはずの視界に、どこか違和感を覚える箇所が目に入った。
違和感を追って首を捻る。それは右を向いたところにあり、そこは景色にそぐわずゴミが散らばっていた。都会のようにゴミ袋が散乱しているわけではなく、不法投棄場所のように綿のはみ出たミニソファや空気の抜けたゴムボートのようなものが無造作に捨ててある。
景観にそぐわないだとか、こんな田舎にも不法投棄をする奴はいるのかとか、それ以前の問題として。
このあたりに住宅はまったくないのに、なぜここに捨てられているかということ。
家どころか小屋の一つも目につきはしない。わざわざこんな遠くまで運んで捨てるのだろうか。家具もあるのに。
もしやこれは俺のように駅から出てきた新参者へ『軽々しく足を踏み入れてはならぬ!』などという忠告だろうか。そのうち長老らしき人物が出てきて、この村の呪われた歴史を長々と語り出すかもしれない。
「とかだったら面白いのにな」
俺はそこまでゲーム脳でもないし、中二特有の病を患っているわけでもない。神に選ばれし光の勇者だとか、運命に見放された堕天使だとか言う痛々しい時代はもう終わったのだ。ていうか出来れば思い出したくない。
第一俺はそんな忠告を出されればビビってすぐさま引き返すだろうから、それ以上のストーリー進行は期待出来ない。
日常を求めて逃げ出す俺に、非日常は、生まれない。
しかし実際問題、不可思議なゴミの数々は目の前にある。どうもこのゴミ置き場の由来が気になって、左右前後を見渡し終え、住宅がないことを確認した俺は少しそこに近づいた。
ゴミ置き場のその奥は絶壁になっていて、見上げれば崖があり、そこまでは結構な高さがある。どこを見てもひたすらにのどかで、長老や天使が出てくるような非日常は、
「…………………………えっ?」自覚出来るほど間抜けな声が出た。
あった。
ていうか、いた。
人間が。
長老でも天使でもなく、人間。
しかも、崖の上に立っているのではなく、そこからまさに落下してくる姿で。
……落ちてくる。ていうか、飛び降りてきた。
「え、え、え」
鳥? 違う。でも、白かった。何もかもが真っ白で、青空に浮かぶ白さは明らかに異色で、雲にしては美しすぎて、どんどん近づいてきて、俺は、俺は、……俺は?
「っちょ……ちょ、ちょ、待て、待て……待てって、言ってんだろう、っがあぁぁああぁあああぁあぁぁあああ!」
荷物かなぐり捨てて、走り出して、叫んで、ああここって舗装なんてされてない地面だから今頃俺の荷物土まみれじゃんとか思って、でも振り返ることは無理で。
人助け、なんて理由はむず痒くて堪らないから、言い訳を一つ上げておく。
こんなド田舎で飛び降りしたら、今から俺が住む自然が血とか内臓とか見るに堪えないもので汚れるから。だから、やめとけ。
はい、言い訳終わり。
「……っ……、っ!」
何かを叫ぼうとしたけど、砂利を踏んだような音しか出なかった。きゅ、と異質な音を、喉が奏でる。
俺は飛び降りをしたそいつの落下地点まで走って、受け止める形に腕を伸ばして。
格好よく受け止められて、俺はついに非日常へ踏み出してしまう。もしくは、ラブコメ路線一直線。
っていうシナリオが、俺の第一希望なんだけど。
「……っ、……っぐ……あ……っ!」
俺は光の勇者でも暗黒の堕天使でもなかったから、車に轢かれた蛙みたいな声出して、見事にそいつの下敷きになった。
しかも見事なまでに俺の腹部に全体重がのしかかり、五臓六腑をリバースしそうだ。とっさにそいつを抱えてしまったから受け身なんて取れるわけもなくて、後頭部をしたたか打ち付ける。意識が俺に離別を宣言しかけていた。
「……?」
俺の上できょとんとした顔のしたそいつは、女。長い髪がさらさらと俺の首にかかって擽ったい。長髪で、女で。視界がぼやけて、それ以上はわからなかった。
けれど一つだけ、朦朧とする俺の意識でも捕らえられたそいつの特徴。
「真……、…………白……」
そう、真っ白。何もかもが、人間とは思えぬ白。
もう意味がわからない。何で俺はこんな見知らぬ女なんかを助けたのか、何でこいつは飛び降りたのか、何でこいつがこんなにも白いのか。
白い絶望に、俺は包まれる。
ああ、意識飛ぶ。
今の俺はどうにかしてる。頭打ったからだろうが、それ以上におかしい。
俺の上に乗った女が、泣いているように見えたくらいには。
そんな、夏の始まり。