「ありがとうね、さっき」
授業が終わって途端に騒がしくなった教室で、多分唯一、及川くんは涼しげな顔をしている。隣の席だというのに、そういえばほとんど話したことなかったな、と思いながらも、手を振って「いやいやそんな」と答えた。
「俺これ終わる気がしないんだけど」
「まだ夏休み入ってもいないよ及川くん、大丈夫だよ」
「そうだけどさあ」
プリントの束のはじっこを、持ち上げては落とし、持ち上げては落とし、ぱらぱらと音を立てて遊んでいる。かわいいこともするんだな、及川くんって。こういうところに、みんなやられるんだろう。ギャップってやつだ。
「バレー部だったっけ」
「そうだよ、みょうじさんは、帰宅部だっけ?」
「うん、エース」
ボケてみたところ、肩を揺らして笑ってくれた。歯並び、きれい、歯も白いし、すごい、隙がない、この人。
「みょうじさんてこんなキャラだっけ」
「そうだよ知らなかったの? 及川くん時代に乗り遅れてる」
「まじで」
「まじです。わたしが最先端」
こうなったときの悪い癖で、何も考えずに口を動かす、及川くんはそれに反応してけたけた笑う。「あーあ、もったいないことしたな、早く絡んどけばよかった。もうすぐ夏休みになっちゃうじゃん」何とはなしにくちびるを尖らせてそう言う及川くんに、ちょっと、ちょっとだけ、どきりとした。こういう中途半端な無防備さも、きっと、彼の武器だ。
「いいじゃん少なくともあと半年以上はクラスメイトだべ? 話そうと思えばいくらでも」
「それもそうだね」
わりと勇気を出して言ってみた言葉も、及川くんはなんてことないように受け止めて、優しく返してくれた。もう今日の授業が終わりだということが、たいへんもったいなく感じられた、夏のある日。