蝉の声を、うっとうしいと感じるようになったのはいつからだろうか。汗のじわっとしみでる感覚が気持ち悪い。音楽室の向かいにある、視聴覚室で、補講は行われる。湿度があるのが不快で、早く冬が来ればいいのに、と思う。首筋をたれてきた汗をぬぐって、視聴覚室のドアを開けた。時間にならなければクーラーはつかない。それまでは窓も何もかも開け放して、自然の風に頼るしかないのだ。
 不意に、男の声で、豪快な笑い声が聞こえて、ああこれは音楽の先生だ、そのあとで小さく、女の声。おそらくみょうじだ。それまでもごもごとしていたやりとりが突然クリアになり、なるほど準備室で会話をしていて、ちょうど今、ドアを開けたのだろうと思い至った。


「いやあ、みょうじ、音がよくなったなあ。恋でもしたか」


 なぜだか俺のほうがどきりとして、持っていたペンを落としてしまう。みょうじが首を横に振って、顔を真っ赤にさせていた。かわいい否定だ、否定と言うにはあまりにも素直だが。俺はそれを見て、また、不思議な気持ちになる。なんだこれは。


「そ、そんなこと」
「はっは、いいじゃねえか高校生なんだから。若いっていいねえ」


 言う人によってはセクハラになりそうなことも、この人にかかれば好意的に受け取れるのは、ひとえに人徳のなせる業なのだろう。みょうじの表情にも、不快そうな色はかけらも感じられない。「がんばりますっ、もっと、うまくできるようになりますっ」「おう、がんばれがんばれ。ソロなんだからもっと堂々としろ。お前が指揮をとるんだぞ」「はいっ!」短く鋭く、けれども熱い返事と、ぺた、ぺた、とスリッパを引きずる独特の足音。先生が廊下を歩いていくのだろう、その姿に深くお辞儀をしながら「ありがとうございます!」と叫ぶみょうじが、Tシャツにハーフパンツの恰好であるのに気付いて、新鮮さに目がくらんだ。暑かったのか、はだしになっていて、その爪もやはり、手のそれと同じく、自然の桜色をしていた。


「縁下先生!」


 呼ばれて、ドアのところから顔を出したみょうじに、手を振り返す。


「先生、講座あるんですか?」
「そうそう、あと十分しないとクーラーつかなくてさ」
「うわ、たいへん」


 片手にある楽器が銀色に輝いて、みょうじはそれをかかげて、「わたしもがんばるので、先生も、がんばってください!」とまぶしい笑顔を見せた。

 その頬が上気しているのは、果たして暑さのせいだけなのか。俺の胸にある、妙な感覚は、いったい何なのか。分かってしまいそうになる、パンドラの箱の中身が恐ろしくて、必死に蓋をする俺を、誰が糾弾できるだろう。だって俺は教師で、みょうじは生徒なのだ。


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