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無事に進級してもう三か月が経つ。わたしとちからくんの抱える問題は、同じものだった。
進学先をどうするか。
将来像なんて今の段階からはっきりするはずもなく、自分が何をしたいのかすらよくわかっていないわたしにとっては、目の前にある進路調査票は今までに出されたどの課題よりも難しいものだった。
「大学、かあ」
ちからくんがぼやいて、シャーペンをくるっと一回まわす。
「学部は、わりとはっきりしてるんだけど。でもどこに行けばいいのかとか、よくわかんない」
「ね。わたしも」
彼のプリントを覗き込むと、きれいな字で、学部のみが書かれていた。大学名の欄は、白紙。わたしのプリントも似たようなものだ。当然、大学には行くつもりで、だからこそわたしたちは進学クラスにいる。けれども、具体的にどの大学を目指してここに来ましただとか、そんな立派な志は持ち合わせていない。
それに、わたしたちにとって、このプリントのもつ意味はそれだけではない。高校生活はあと一年だけ。それが終われば、わたしたちはこの烏野高校を出て、違う世界に行く。そのとき選ぶ道が、もしも違っていたら。いや、重なることなんてきっとほとんどないけれど、それでも、もし、飛行機を使わなければいけない距離に、行かなきゃならないとしたら。飛行機でなくても、とにかく、今のように、歩いてはとうてい行けないような距離が、できてしまうとしたら。考えるだけで、おなかのところが重くなる。その悩みのせいで、ここのところ寝つきが悪い。
ふたりで一致しているのは、どちらも、お互いの枷にはなりたくない、というところだけ。あとはぜんぜん、まったくの、真っ白。
***
「ねえ、俺決まったよ」
唐突な報告に、一瞬何のことかわからず、ぽかんとする。掃除の時間、箒を片手に真顔で突っ立ってしまう。ちりとりを取ってきたちからくんがその場にしゃがみこんで、わたしを見上げた。
「進路。なまえは決まった?」
「あ、ああ、そのこと」
何回もうなずきながら、箒を動かす。ホコリが舞って、光をうけてきらきら輝くのを見ながら、わたしはつい一昨日埋めたばかりのあのプリントのことを考えていた。先生や親や、塾のアドバイザー、友達とか先輩とか、その他いろんなひとたちに相談して、考えて考えて考えて、最後に、プリントに大学の名前を書いた。唾を呑みこんで、ちからくんの言葉を待つ。
「ゴミ捨ててくるから待ってて。プリント見せ合おう」
急に、ぶわあ、と冷や汗がふきだした。首を縦に振るのも満足にできない。そんなわたしを見て、「はは、別に、そんな、死ぬわけじゃないんだから」と笑ったけれど、わたしにとっては生死の境目だ。大学、四年間か、下手をしたらもっと、ちからくんと離れなければならないなんて。そんなのあんまりだ。ちからくんはいやじゃないのだろうか。わたしと離れても、寂しいと思わないのだろうか。教室のはしっこの、ゴミ箱のところから帰ってくるちからくんの表情が、いつもと全然変わらないものだから、不安になる。
「出した?」
「出したよ、ちからくんも」
「俺はもう出してる」
ふたりで、後ろに回した手にプリントをもって、わたしの机を間に挟んで立つ。せーの、で机の上に出すのだ。手汗がひどいことになって、きっと顔色もとんでもないであろうわたしをよそに、ちからくんは涼し気な顔をしている。
「じゃあ、いくよ」
「せーの」
かさ、という色気も何もない音とともに、プリントを広げた。ちからくんのプリントに、書かれている、大学は。
「うそ」
驚きのあまり、呼吸を忘れた。数秒、息を止めて、そっと吐き出して、ちからくんの顔を見上げる。いつもは眠たげな目をぱっちりと大きく見開いて、わたしのプリントを穴が開きそうなほど見つめている。
「うそだ」
言うなり、彼はわたしの両手をとった。
そう、志望する大学こそ違えど、東京の、しかも同じ区に、わたしたちは進もうとしていた。学部の系統も、大学の雰囲気もまったく違うのに、こんな、幸せなことってあるだろうか。彼のくちびるがふるえて、かすれた声をもらした。
「よかった」
いくら教室の掃除が早く終わったとはいえ、彼はそろそろ部活に行かなければならない。それは誰よりもちからくん自身が分かっているはずなのに、一向にわたしの手を離そうとしない、そればかりか、もういちど、「よかった」と呟いて、その手をきつく握りしめている。
「なまえと一緒なら、俺、なんだって頑張れる」
「ずるいっ、そんなのわたしだって」
教室から出てこないちからくんを心配したのか、木下くんが廊下に来ていた。それを伝えると、名残惜しそうにわたしから離れて、リュックを取りに席に帰っていく。「いちゃついてんじゃねーよ」「いちゃついてない。ヒガミ?」「うるせー!」木下くんと楽しそうに話して、ちらとわたしの方を見て、やわらかく微笑む。わたしは、てのひらの温度を思い出して、握って開いて、喜びに浸る。
ちからくんも、同じ気持ちだったんだ。
それだけでもう、さっきまでの不安は、嘘のように消え去った。