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1
あまりにも残酷な出会いだった。大学の、友人と呼ぶには遠すぎる知り合いと、カフェで勉強会をした。ノートと本と電子辞書を開いて、隙間に狭苦しく置かれたカップに、時おり手を伸ばしながら。
「あ、悪い、俺そろそろ時間かも」
「おう、お疲れ」
「いや、でも、まだ居るよ」
一体何がしたいんだこいつは、と視線だけ上げて顔を見た。腕時計を確認し、それから店の入り口の方を見て、にやりと笑う。微かににじむ優越感、そうして、そこに現れたのが、みょうじなまえさんだったのだ。淡い色のフレアスカートに包まれた脚が、白くて綺麗だと思った。
「これ、俺の」
「どうもこんにちは」
これ、という紹介の仕方に、俺の方が不快になってしまう。彼女は気に留めた様子もなく、にこりと微笑んで俺に会釈をした。胸騒ぎのような、それでいてどこか心地いい感覚。ふたりが仲良く手をつないで去っていくのを眺めながら、カップに口を付けた。
2
「あ、この前の」
ご飯の時間が昼から大幅にずれてしまった。がら空きの食堂でうどんを啜っていると、みょうじさんが向かいに腰かけた。今日はゆるいシルエットのブラウスに、明るいグリーンのスキニーだった。やっぱり綺麗な脚だ。細すぎず太すぎず、思わず触りたくなるようなうつくしい曲線。
「あいつはどうしたの」
「なんか、用事があるみたいで」
いつもは一緒に食べるんですけどね、と、コロッケにかぶりつく。咀嚼を繰り返して、飲み込んでから、俺を見て、「お名前聞いてもいいですか」と言った。
「縁下力です、あの、話は聞いてます。みょうじなまえさんですよね」
「やだ、恥ずかしい。何話してるんですか、あの人」
それでも本気で嫌がっているわけではなさそうだった。頬に浮かぶえくぼが愛くるしい。うどんを食べ終わっても、次の講義が始まる五分前になっても、席を立とうと思えなかったのは、俺が彼女に焦がれているからだ。
3
キャンパスのすぐそばの、ハンバーガーショップで昼を済ませ、道に出て、おや、と思った。車道を挟んだ向かい側を歩く、あの男は、みょうじさんの彼氏だったんじゃないのか、と。それが、他の女を横にはべらせて歩いている。みょうじさんよりも派手な恰好で、派手な顔をした女だ。声はきんきんと甲高く、耳に突き刺さる。それでも愉快そうに歩いているあの男は、きっと、女をアクセサリーか何かだと思っているのだろう、とも。
みょうじさんは穏やかなひだまりのような、やわらかな春風のようなひとだ。俺なら、みょうじさんに、隣にいてほしい。目に映るこの状況を、悲劇ではなく好機と取ってしまう自分が、少しだけ嫌いになった。
4
「あの人、浮気をしてるみたいなの」
ぼんやりとした目で、そう言った。初めて顔を合わせたカフェで、今日はノートも本の電子辞書もない、平和な机に、ふたりぶんのカップとケーキが並べられている。
「そっか」
「最近、そっけないなあとは思ってたんだけど。まさか」
そこで一度、彼女は口を閉じた。あいつの行動を何と形容するのか迷い、そして、「まさかあんなことされるなんて」と、ぼやけた表現で飾った。
「ひどいな」
俺の言葉に、彼女は伏せていた目を上げる。涙でやわらかそうに輝いた瞳が、慰めを求めている。
「裏切りじゃないか、こんなの」
慎重に選んだ、彼女の為の飴を、ゆっくりと差し出す。まつ毛がふるえて、赤いくちびるがゆがんだ。
「泣いてもいいよ。泣いていいんだ。泣いて、当然だ」
ひとつ、ふたつと、涙が頬をすべり落ちる。この涙はいったい誰のものなのだろう。あいつのものか、彼女自身のものか、それとも、俺へのパフォーマンスなのか。
5
俺のとなりで寝る彼女は、なんと、服を着ていない。酔った勢いでもなければ無理やり連れ込んだわけでもない、合意の上だ。
あいつは遂に例の女と寝たらしい。なぜ分かったのか、なんて、とうてい聞けやしないけれど、彼女のやつれた姿を見て放っておけるはずがなかった。好きな人に、帰りたくないと言われて、手を出さない男がどこにいる?
「う、うん」
「起きた?」
瞼を持ち上げ、俺を見て、彼女のくちびるが弧をえがく。俺の腕を枕にしていたことに気付き、目を閉じて、すり寄ってくる。これで彼女が俺のものじゃないんだから、世の中どうかしている。
「わたし、別れようと思うの」
掠れた声がそう紡いで、内心ガッツポーズをしながら、「そっか」とだけ返した。あいつと過ごした時間よりも、俺を選んでくれるなら、それ以上のことはない。白くやわらかい脚がもぞもぞと動いて、あれほど焦がれたそれに夕べ死ぬほど触ったのだと思うと、身体にむらむらと熱がよみがえりそうになる。
「好きだ」
彼女がはっとして俺を見た。薄く開かれた口に、今すぐ噛みついてしまいたくなる。
「こんなタイミングで、ずるいかもしれないけど。俺、会ったときからずっと、みょうじさんのこと」
「どうしよう、うれしい」
両手で顔を覆ってしまって、表情が見られない。かおみせて、と言うと、いやいやと首を横に振った。たまらない、と思った。たまらなく、加虐心をあおられる。
「見せて」
「いや、恥ずかしい」
「どうして。こんなにかわいいのに」
そのちいさなてのひらを優しくはがして、真っ赤になった顔を見つめた。きつく閉じられた瞼に、キスを落とす。
「わたしね、ずっと」
彼女の声に、口付けるのをやめて、首に顔をうずめた。甘く漏れる声に気をよくしながら、言葉の続きを待つ。
「あなたのことを、好きになれたらって、思っていたの」
これ以上ない麻薬だ。彼女が俺のためにしゃべっているのだと思うと、たまらなく、しあわせだった。