※社会人 同棲


 ぽたり、としずくが頬におちた。訝って顔を上げると、わたしの向かいで本を読んでいた力くんも、同じようにへんな顔をしていた。彼の右手の親指の付け根のところに、水滴がひとつ。室内にいて水が落ちてくるなんて、と思ってきょろきょろあたりを見回していると、力くんが、「ああ、エアコンだ」とつぶやいた。つられて、テレビの真上に鎮座しているエアコンを見上げる。確かに、つめたい風とともに、ぽたり、ぽたりと、水を吐いている。

「困ったな」

 力くんはソファから立ち上がって、おそらく保証書を探しに行った。わたしはというと、力くんがテーブルに伏せて置いた文庫本が濡れてしまわないように、あわてて取り上げて、胸に抱いた。保証書はすぐに見つかったようで、買ったところかどこか、このエアコンを直してくれるところに、電話をしている声がする。 はい。はい。水が垂れるんです。ええ。では、今度の日曜の、そうですね、午後なら確実に居ます。 わたしは力くんが、テーブルに置いてあるメモパッドに手早くいろいろ書き込んでいるのを、ぼうっと眺めている。

「すぐ直せるってさ」

 ソファに身体を沈めながら、わたしに向かって微笑む。本を差し出しながら、わたしは、「扇風機、出してくるね」と押入れに急いだ。力くんが、ああ、という顔をして、エアコンの電源を切る。部屋の中にいるのに、雨に降られるなんて、ロマンチックかもしれないけど、とても困る。来週の日曜日まで、クーラーのない生活をしなければならない。



 日曜日、午後二時。お昼ご飯を食べて、少しまどろんでいたころ。作業着を着たお兄さんがやってきた。台にのぼって、エアコンの中身をのぞいているお兄さんの、ズボンの裾がほつれているのが、なんとなく気になった。力くんが、突っ立って眺めているわたしの腕を軽くたたいて、「ちょっとトイレ行ってくる」と、その場を外す。隣に力くんがいないだけで、地に足のつかない感じを覚えてしまうから、わたしはまったく、これでは彼女というよりも、娘か何かのようである。もともと人見知りをするほうなので、余計に。

「あれ」

 そうこうしているうちに、お兄さんは台からおりて、わたしの前まで来ている。眉をさげて、首をかしげて、「もう終わったんですけど……」と、それから、わたしの顔を見た。

「お電話くださったの、旦那さんの方ですよね」
「!」

 わたしはその言葉に、肩がこわばるのを感じた。お兄さんはさして気にした様子も見せず、「奥さん、機械の話とか、得意ですか?」と質問を重ねる。戸惑って、「ごめんなさい、わたし、よくわからなくて」と返して、唾を呑んだ。力くんはすぐに戻ってきた。

「すみません、俺が聞きます」

 わたしには分からない、機械の話をするふたりの、背丈を見て、力くんの方がちょっとだけ大きいことに気付く。わたしはもう、エアコンのことなんかはちっとも考えておらず、力くんの、首のところを流れる汗ばかり、見ている。

「そんじゃ、失礼しましたー」

 玄関で、お兄さんを見送って、鍵とチェーンを閉める。最近、近所で空き巣が出たというから、チェーンを絶対にしろと、力くんに強く言われている。

「旦那さん、だって」

 もう水を吐かなくなったエアコンを動かして、涼しい空間で、力くんがおかしそうに言った。わたしには、そんなふうに、笑う余裕なんてない。あのお兄さんには夫婦のように見えていたんだ、ということが、死ぬほどうれしくて、そわそわしてしまう。

「ね、奥さん。こっちおいで」

 力くんがぽんぽんと、隣の座布団をたたく。誘われるがままにそこに腰をおろして、力くんにもたれかかった。しばらくそうして、何もしゃべらずに、つまらない情報番組をふたりで見ていた。

「なまえはすぐに身体が冷えるね」

 言いながら、彼のおおきなてのひらが、わたしの二の腕を軽くつかんだ。エアコンの風ですっかり冷たくなっているわたしを、温めようと、その大きいてのひらが、やさしくなでてゆく。

「力くん、旦那さんになってよ」
「……そういうのは俺から言いたいんだけどなあ」

 眉を下げた力くんの腕が、肩にまわされた。そのまま流れるようにキスをして、ふたりでこっそり、笑う。

「今やってる仕事が落ち着くまで、待ってて」
「そしたらわたし、奥さんになれるの?」
「がまんできる?」

 そんなの、できるに決まってる。もう一度、彼にもたれて、手を握った。わたしの手は、もう冷たくなかった。









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