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彼女と、やっと、付き合うことになった。が、いまどき珍しい、清く正しい交際しかしていない。
がっついていると思われないようにするのは、結構な労力を使う。なぜなら事実俺ががっついているからだ。ゆっくりでいい、と言ってしまった手前、下手に手を出してしまって彼女に警戒させてしまっては元も子もない。
だが、それを不満に思ったことは、一度たりともない。あそこまでぴたりと合う、相性のいいひとに、これから先の人生で出会える気がしないのだ。おそらくもう二度とないであろう出会いを、こんなことで捨てるほど、俺はバカじゃない。……つもりだ。
「次はホラーが見たいなあ」
「えっ」
俺の部屋で、借りてきた映画を二本続けて見たあとでそうぼやくと、みょうじさんは過剰なほどに肩を跳ねさせた。
「……もしかしてホラー苦手?」
「ほんとに無理お願いします勘弁してください」
土下座すらしそうな勢いで頭をさげられて、笑いながら、その頭に手を伸ばす。
軽いスキンシップなら平気になってきたようだ。手をつないだり、頭をなでたり、肩に触れたり。こう、なんというか、たまに、たまらなくなることはあるけれども、それを堪えられるのも一種の愛だと思えば、どうってことはない。いや、どうってことはあるが、堪えるのも不可能ではない。
「みょうじさん」
呼んで、そっと肩を抱く。そうすれば自然に頭を俺の肩に乗せてくれる。大きな進歩だ。隣に立って目を合わせるだけでガチガチになっていたあの頃から比べれば、彼女は壮絶な成長をしている。
「ごめんね、縁下くん」
「何が?」
「いろいろ、その、我慢させてるのかなって」
思って。 最後の言葉はほとんど消えて、聞こえなかった。唾を呑みこむ音が、果たして聞こえてしまっただろうか。そればかりが気がかりだった。
我慢はそりゃあ、している。でも、彼女が平気になるまで待つ覚悟はできていた。それがたとえ何年先になろうと、俺は彼女と、そういうことをする為に付き合っているわけじゃない。平気だ。平気なつもりだった。
それならこの、身体の熱は、何だ。
「そんなことないよ」
かろうじて、それだけ返す。触れたい。キスをしたい。あわよくば、その先まで。胸の内の欲望を塗りつぶすように、アホみたいに明るい声で答えた。
「あの、縁下くん」
やけに改まった言い方に、一体何事かと思って隣を見れば、俺を見上げて、真っ赤な顔で、「キス、して、ください」とふるえる声で言った。死ぬかと思った。
「いきなり、何」
「……いきなりじゃ、ない。ずっと考えてた」
なんだそれ。なんだそれ。俺を殺す気か。
心音がうるさい。鼓動にあわせて身体ごと動いているように感じるほどだ。
「俺はいろんなこと、みょうじさんが平気になってから、と思ってたんだけど」
「大丈夫」
「うそ。超緊張してるじゃん」
顔は赤いくせに握ったゆびさきはすっかり冷えてしまっている。どれほどの覚悟をしてこんな言葉を口にしたのか、そのことを思うだけでくらくらするほどいとおしい。けれど、これがもし、無理をしてのことなら、こんなことしてほしくないし、こんなことをさせた俺自身が憎くてしょうがなくなる。
「そ、そりゃ、緊張も、しますよ」
「みょうじさん、俺はね、無理してほしくないんだ」
「無理してない!」
噛みつくように叫んで、それから小声で、「キスなんて、したことないから、どうやって誘えばいいのか、わかんなくて」と呟いた。ああ、この子は、きっと俺のことを殺そうとしているに違いない。ここまで耐えた俺をだれか、褒めてほしい。今の今までつながっていた理性の意図は、たった今、ぷつりと切れた。
すべらかで白い頬を両手ではさんで、くちびる同士をひっつける。合わせるだけのキスを何度かして、耐えられなくて、下くちびるを食んだ。
「んんっ」
漏れた声が、艶っぽく濡れていて、もっと聞きたくて、何度もくちびるを重ねる。ふと気付いた時には彼女はだいぶのけぞっていて、あわてて顔を離した。
「ごめん」
血の気が引いた。きっと怖がらせた。手と身体を離して目を逸らす。こんなに耐えてきたのがここで駄目になってしまったら。ぐるぐると頭の中をいやな想像が駆け巡って、一巡したあたりで、みょうじさんが俺の袖を引っ張った。
「き、……きもち、よかった」
目を潤ませて、唾液で濡れたくちびるでそんなことを言われて、もう一度口づけない男がどこにいるだろうか。大丈夫だったのなら、俺が我慢する理由はどこにもない。彼女も欲しているなら、なおさらだ。
これは俺の予想だが、彼女の恐怖の原因は、「無知」にあるのだ。恋愛やその類の行為に関する経験が乏しすぎるあまりに、そこに踏み込むことに恐怖を感じてしまう。それならば、だ。一緒にゆっくり、少しずつ経験していって、彼女の心のこわばりをほぐしてゆけばいい。そうしていろんなことを、俺の隣で、覚えていくのだ。なんてしあわせな束縛だろうか。とろんとした目をする彼女を間近に見つめながら、舌を絡めて、このままひとつに溶け合ってしまいたいと、わりと本気でそう思った。