約束の日が近付くにつれ、私の気持ちはどんどん重くなってゆく。つくづく嫌になる。わたしだってふつうに男の子と付き合ってみたい。でも、ダメだ。交際経験がまったくないわけじゃないけれど、いつも、一歩踏み込んだ関係になる前に音を上げてしまう。
 どうしてこんなに怖いんだろう。わたしの前に座って、真面目にノートをとっている縁下くんの背中をじっと見つめる。今は平気だ。「みょうじさん、電子辞書持ってる?」振り向いて小声で尋ねられる。これも平気。オレンジのケースに入ったそれを差し出す。ゆびさきが触れた。なんでもないような顔をして、どうぞ、と言う。「ありがと」はにかんで細められた目が、わたしをやわらかく見つめる。これは、ダメだ。お腹のところが気持ち悪くなる。好きなのに。好きなはずなのに。

「みょうじさん、今日お昼空いてる?」
「あ、ごめんね、学科で集まりがあって」

 そんなのはうそだ。そっか、じゃあまた今度、と手を振る縁下くんに、胸がちくりと痛む。騙してごめんなさい。
 時間割を確かめて、次の講義は出席を取らないものであると気付いて、それならもう帰ってしまおうと、リュックに教科書を詰め込む。スマホの電源ボタンを押して画面を付けると、縁下くんからラインがきている。嬉しい。でも、吐き気もする。既読はつけないでおこうと思って、見なかったふりをしてまた画面を暗くした。

***

『水族館、いつ行く? みょうじさんの都合のいい日教えて』

 夕飯を終えて自室に戻って、わたしは途方に暮れていた。まだ既読をつけていないこのメッセージに、どう返せばよいのか、まるで分からない。いや、分かる。訊かれたことを答えればいいだけだ。今週だと急すぎるだろうから、来週の、たとえば水曜日なら、お互いに全休だっただろうから、その日がいい、とか。分かっているのだ。それでも、これに返事をしてしまえば、水族館デートが実現してしまう。自分でもどうしたいのか分からない。彼と友達のままでいたいのだろうか。じゃあもし、わたしがこうしてもたもたしている間に、もっと素敵な、例えば髪は染めないままきれいな黒色をしていて、化粧なんてしないままでもきれいな肌を、さらにきれいに飾って、服を選ぶセンスもずば抜けたような女の人なんかが現れて、彼の心を攫っていってしまったら。ちょっと妄想が過ぎるような気がするけど、杞憂でないと言い切れるだろうか。
 彼の好意がわたしに向けられていることは分かる。こんな、ふたりきりで出かけるなんて、よほど仲が良くなければ、ないことだろう。呼吸もままならないほどに気持ちを乱されている。他でもない、縁下くんというひとりの男の子に、だ。
 今までどうやって切り抜けてきたんだっけ。思い返して愕然とする。わたしはこの類のことに、積極的な対処をしたことがないのだ。一度として逃げなかったことがない。逆に言えば、逃げてしまえばそれで済むようなことばかりだったのだ。
 逃げたくない。
 彼のやさしい瞳が、わたしを見なくなってしまうのは、悲しい。
 それがたとえ、わたしの気持ちをひどく圧迫するものであったとしても、だ。
 とるべき行動はただひとつ。『返事遅くなってごめんね。来週の水曜とかかな?』と文字を打ち込んで、送信、の文字に触れればいい。たったそれだけのこと、普段なら二十秒とかからないはずの動作なのに、ひどい気力と体力を要した。結局わたしがその文章を送れたのは、思い立ってから三十分もしたころだった。


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -