09
かれこれ五年ぶりに、私は江戸へと戻ってきた。
行き交う人たちの口に上るのは京言葉ではなく、聞き慣れた江戸弁。
だけど今は、こうして第二の故郷に戻ってきたことを懐かしむ余裕などなかった。
なぜなら……。
総司を起こしてしまわないように、私はそっと戸を開け、中の様子を窺う。
ここは、松本先生が手配してくださった小さな隠れ家。
この家が、今の私と総司の居場所だった。
総司は今も、ほとんど寝たきりの状態だ。
傷はまだ痛むらしく、身体を動かすのも辛いようだった。
『…………』
あの時ーー鉄砲で撃たれたそうになった私を庇い、総司はこの身に銃弾を受けた。
もし彼が羅刹となっていなければ、間違いなく絶命させられていたはず。
こうして一命を取り留めたのは、まさに奇跡だ。
そのこと自体は喜ばしいけど……、気にかかることが一つあった。
「う……」
彼の表情がふと、苦しげなものに変わる。
「ぐっ……、うぅ……!」
『総司……!!』
彼の額に浮かんだ汗を、私は、濡らした布で拭う。
眠る前に渡した痛み止めが、少しでも苦痛を和らげてくれていることを祈るばかりだ。
『…………』
でも、どうしてだろう?
いくら、鉄砲で撃たれたとはいってもーー。
羅刹となった総司ならば、これくらいの傷なんてすぐに癒えてしまうはずなのに。
山南さんや平助も、不思議がっていたけれど……。
震えている彼の指先を、私はそっと包むように握りしめた。
やがて……。
彼のまぶたが、うっすらと開いた。
『あ……』
まだ眠りの中にある茫洋とした眼差しが、私を捕らえる。
やがてその瞳に、意思の光が宿った。
目が合うと何だか面映くなって、私はつい視線をそらしてしまう。
『その……身体の具合はどう?総司。』
何でもない風を装って、そう尋ねた。
「……まあ、昨日よりは楽になったかな。」
『本当?無理してない?』
「信用ないなあ。千華だって、一応医学の勉強してたんだから、僕が嘘を言ってるかどうかぐらい、見抜けるんじゃないの?」
『……ごめんね。総司のことを信じてないわけじゃないんだけど。』
確かに昨晩に比べると、総司の声にも少し生気が戻っているように思えた。
そのことが、とてもうれしい。
「もう、日は暮れちゃった?」
『ええ。……起きる?』
「そうしようかな。寝たきりだと、身体もなまっちゃうしね。」
傷に障らぬよう気を付けながら、私は起き上がろうとする彼を支える。
少しの沈黙の後、総司は不意に視線をこちらへと向けてきた。
「……そういえば千華、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
『何?』
「僕が目を覚ました時、君が必ず傍にいるのはどうして?」
『っ……』
てっきり、近藤さんや新選組の皆のことを聞かれるのだと思っていたのにーー。
こんな問いを向けられるとは思わず、私は答えに詰まってしまう。
だけど総司は、どこか楽しげにこちらを見つめながら……。
「黙ってないで、答えてよ。どうして?」
『それは、えっと………………もしかして、迷惑だった?』
「別に、そんなことは言ってないけど。そんなに僕のことが心配なんだ?」
『……当たり前でしょ。だって総司が怪我をしたのは、私を庇ったせいなんだから……』
すると総司はなぜか、つまらなさそうに視線を外してしまう。
「千華を庇ったから、ね。僕を看病してくれる理由は、それだけなんだ?」
『えっ……?』
何だか、残念そうな口振りに聞こえたのは、気のせいだろうか?
だけど総司は、そんな疑問を口にする暇さえ与えてくれずーー。
「まあ、それならそれでいいけどさ。……千華、僕の看病にかまけて、ほとんど寝てないんじゃない?」
『それは…………そんなこと、ないわ。きちんと身体を休ませてるし。』
「……本当に?」
『本当。だってーー』
そう言いかけた時だった。
「今の言葉は、嘘です。」
『!!!』
「汐見さんは連日、寝る間を惜しんで沖田さんの看病をしています。少しは休息を取るよう、沖田さんからも言ってください。」
「だってさ。休みなよ、千華。」
『…………』
普段、仲良しとは言えない二人なのに……。
『こんな時に限って、仲良く結託しなくても……』
「何言ってるのさ、君が悪いんじゃない。いくら僕のことが気になるからって、昼も夜もなく付きっきりなんてさ。」
『気になるって、私はそんな……!』
「ほら、文句言わないで部屋に戻って。子供はさっさと寝なよ。」
「沖田さんのことは、俺が見張っています。あなたも少しは休んでください。」
『…………』
総司の怪我の具合は、もちろん気にかかるけど……。
これ以上、二人に心配かけるのも心苦しい。
せっかく山崎君も、こう言ってくれてるんだし。
『……それじゃ私、少し休んでくる。何かあったら、声をかけてよね。』
そう言い残し、部屋を出ようとしたその時だった。
「っ……!」
総司の身体が、畳の上へと崩れ落ちる。
『ーー総司!?』
私は慌てて駆け寄って、彼を助け起こそうとしたがーー。
彼は顔を苦痛に歪め、荒い呼吸を繰り返すばかりだ。
『山崎君!総司が……!』
「汐見さん、ここを頼みます。俺は松本先生を呼んできますから。」
『……わかったわ。』
私が答えるのを聞き届け、山崎君は部屋を後にした。
『総司、しっかりして。すぐに松本先生が来てくれるから……』
そう声をかけながら、私は、苦しげに息を継ぐ彼の身体を布団へと横たえたのだった。
***
「先生、どうだったのですか?沖田さんの容態は……」
「傷が開いたわけじゃないから、心配は要らんよ。大方、体力も戻っていないのに、無理して起き上がったりしたんだろう。倒れたのは、そのせいだ。」
『本当ですか?良かった……』
先生の言葉に、私は胸を撫で下ろす。
と同時に、総司に無理をさせてしまったことを深く悔いた。
私があの時、もう少し気を付けていれば……。
そんなことを思っていた時、山崎君が難しい顔で尋ねる。
「……松本先生。なぜ沖田さんの傷は、今に至るまで癒えないのでしょう?羅刹となった身であれば、たとえ銃で傷を負わされても、すぐに塞がってしまうはずですが。」
「……こうじゃないかと見当を付けてはいるが、あくまで私の想像に過ぎんぞ?」
「構いません。お聞かせください。」
山崎君の言葉に頷いた後、松本先生はおもむろに話を切り出した。
「……おまえさんたちも知っての通り、並みの武器で、羅刹の身体に傷を負わせることはできん。」
『……はい。』
銃で負わされる傷は、小さなものだ。
心臓を撃ち抜かれない限り絶命させられることはないし、すぐに傷は塞がるはず。
「しかし沖田君の傷は、治っておらん。ということは……沖田君を撃った鉄砲の弾に、何か仕掛けがあるとしか考えられんな。」
『鉄砲の弾、ですか?』
「そういえば沖田さんを撃った弾は、銀でできていたと聞いています。」
『銀?どうしてそんな高価な物を……』
「もしかすると、それが原因かもしれんな。羅刹にも弱点があったってことか。」
『じゃあ、これから総司はどうなってしまうんですか?』
すると松本先生は、総司がいる部屋の方向を振り返りながら答える。
「……幸いにして、命に別状はない。沖田君の体力を信じるしかないな。」
『そんな……!』
「何とかしてやりたいが……私の医術はあくまで人間用なんでな。綱道さんなら、もしかしたら羅刹の傷を癒やす方法を知ってるかもしれんが。」
『ーーあ!』
一つのひらめきが、脳裏に浮かんだ。
「どうしました?汐見さん」
『もしかしたら、だけど……千鶴の家に、羅刹に関する資料があるかもしれない。綱道さんは元々、幕府の密命で羅刹の研究をしていたから。』
「そういえばあの子の家は、江戸の外れにあるんだったな。」
『……もしかしたら、何かわかるかもしれません。私、明日にでも千鶴の家へ行って、確かめてみます。』
私はそう言って、山崎君の方を振り返る。
山崎君は少し考えるそぶりを見せたが、やがてーー。
「……わかりました。ならば、俺も同行します。」
『えっ?だけど……』
「あなたや沖田さんの警護も、俺の役目だ。副長から、そう命じられている。」
『でも、それじゃあ総司が……』
「用心するに越したことはあるまい。山崎君に同行してもらいなさい。君らが戻ってくるまでの間、私が沖田君を見ていよう。」
『……わかりました。総司のこと、よろしくお願いします。なるべく早く資料を見つけ出して、ここに戻ってきますから。』
「よし、それでは今日はもう休むとしましょう。明日、早朝に出ることにしますから。」
『ええ、わかったわ。』
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