二話 油小路の変は、新選組にとってとても大きな事件だった。 事情を知らない隊士たちにとっては、かつての仲間だった御陵衛士との戦い。 多少事情を知っている者たちにとっては、その背後にある薩長の動きや坂本龍馬暗殺、その他諸々の状況の変化。 全てを知る私たち幹部の面々にとっては、鬼たちの行動、そして、羅刹となった平助。 そして総司の病状の悪化。 そんな大事件の後だからか、ここ最近、屯所の中は騒がしい。 たとえ一瞬の静寂が訪れても……屯所の空気はざわついていて、気が休まることは無かった。 また溜めてしまっていた里からの文の返事を書かなければ、と部屋に閉じこもる。 あぁ、やっぱり溜めるのやめよう。 辛いわ、これ。 心中で涙を流す。 そんな時……。 「……部屋に居てくれましたか。」 山南さんが、声もかけずに部屋へと入ってきた。 「助かりますよ。昼間外に出られると、捜しに行けませんからね。」 『山南さん……起きてて大丈夫なの?』 「ええ。とてもいい考えが浮かんだもので、一刻も早く君に知らせたくて。」 眼鏡の向こうにある瞳は、鋭い光を帯びていて……。 獰猛さや不吉さが端々ににじんでいる気がして、思わず背筋がぞくりとする。 『あの……、どうして私に?そういう話だったら、近藤さんや土方さんに言った方が……』 「……君でなければ、駄目なのです。私の考えを、聞いていただけますね?」 質問の形を取ってはいたけれど、その言葉には、有無を言わせぬ響きが込められていた。 いや、でも文が……。 やがて山南さんは、私の答えを聞かないまま話し始める。 「……汐見君。あなたは鬼の一族だと、あの千姫という女性が言っていましたね。そして、鬼という生き物は、筋力も胆力も人間より遥かにすぐれている。それは、先日屯所を襲撃した鬼たちの力を思い起こすまでもないことです。」 『それは……、いや、わかるけど……』 山南さんは、一体何を言おうとしているんだろう? 鼓動が、にわかに不穏な響きを孕み始める。 「人を遥かに凌駕する力を持つ、鬼……その鬼の身体に流れる血は、やはり、人の血よりも強い力を持っているのでは無いでしょうか?あるいは、羅刹の狂気を完全に抑える力があるかもしれません。」 『…………』 変若水について、詳しいことはわからない。 それでも……山南さんの話は理にかなっているようで、発想が飛躍しているように思えた。 『なぜ……、そんなことが言えるの?』 「自らが羅刹となる前から、そして、羅刹となってからも……この新選組で、薬についてずっと研究をしてきたのは私です。変若水の正体が一体何なのかは、私にも未だにわかりませんが……生き血ではないかと推測しています。……恐らく、人ではない何者かの。もしかすると異国にも、あなた方鬼のような生き物がいるのかもしれませんね。」 『それって……』 山南さんが、音もなく間合いを詰めてきた。 「少なくとも……試してみる価値はあるはずです。あなたの存在で、我々羅刹隊ーーいや、新選組隊士全員を救うことができるのかもしれないのですよ?」 『なっ……』 山南さんの鋭い目つきと強い言葉に押されるように、私は後ずさる。 「さあ……」 何が、さあ……だ! 流れるような整然とした所作で、山南さんは刀を抜いた。 それは明らかに、正気を失った人間の動きではなかったけどーー。 そこに込められた美しさと不吉さに、私は戦慄する。 「怖がる必要はありませんよ。あなたを殺すつもりはありません。ただ、ほんの少し……その血を分けてもらえるだけで良いのです。」 一歩、また一歩と山南さんの刀が近づいてくる。 やがて彼は、不吉な輝きを帯びたその刀を大きく振り上げた。 『ちょ、待っ……!』 その時。 「おい山南さん、何してやがる!」 部屋の外から、土方さんが駆け込んできた。 「……!」 そしてーー。 「こりゃ一体、どういうことだ?あんたともあろう人が、屯所の中で刀を抜くなんざ……気でも触れたか?」 『土方さん……』 「ああ、土方君、ちょうど良かった。君も、手伝ってくれませんか?我々に協力してもらえるよう、何としても彼女を説得しなくては。」 だが土方さんは、私を庇うように山南さんの前へと立ちはだかる。 「……刀を納めてくれ。【私の闘争を許さず】。たとえ幹部だろうと、局中法度は絶対だろ?」 山南さんは少しの間、土方さんを睨みつけていたけど、やがて……。 あからさまに不本意そうな仕草で、刀を鞘へと収める。 「……で、一体何があったんだ?千華が何かやらかしたのか。」 ひどくね、土方さん。 どう考えても私、悪いことしたように見えなかったじゃん。 「隊の為、羅刹の狂気を抑える方法を探っていたのです。」 「その為に、こいつを斬ろうとしてたってことか。」 「殺すつもりはありませんよ。血を分けてもらおうと思っただけです……先日の戦いで、我々は多くの羅刹を失いました。羅刹ではない一般の隊士も、同じく。今いる羅刹や、これから羅刹となる者をより有効に活用するにはーー何としても、狂気を抑える術を見出しておかなくてはなりません。聡明な君ならば、理解できると思いますが?」 「……さっきも言ったじゃねえか。新選組において、私闘は厳禁だ。どんな理由があろうと隊士同士の流血沙汰なんだ、許すわけにゃいかねえ。」 二人の視線が、しばしの間ぶつかり合った。 だがやがて、山南さんが小さく息をつき……。 「……相変わらず君は優し過ぎますね。いいでしょう、ここは引いてあげます。ですが、覚えておいてください。もしこのまま、変若水の副作用を抑える術が見つからなければーー新たに羅刹となった藤堂君も、血に狂って苦しむことになるのですよ。」 山南さんが部屋を出て行って、ようやく息苦しさから解放される。 「……大丈夫だったか?」 『ええ……ありがとう。』 「礼には及ばねえ。俺は、山南さんに隊規を守らせただけだ……前は、俺にあんなことを言わせる人じゃなかったんだがな。」 『…………』 土方さんの言葉に、私は無言でうなだれる。 確かに近頃の山南さんは、少しおかしい。 以前なら、きっとあんな風に、無闇に刀を抜いたりなんてしなかったと思う……。 『あのさ……ごめん。』 「……どうした?いきなり。おまえが詫びることじゃねえだろうが。」 『だって山南さんが私にあんなことを言ったのは、元はといえば……風間たちが、羅刹隊を全滅させたせいだから。』 土方さんは無言のまま私の言葉に耳を傾けていたけど、やがて……。 「……おまえ、何か勘違いしてねえか。」 『えっ……?』 「あいつらは薩長の一味。つまり、俺たちの敵ってことだ。敵が来たら、死力を尽くして戦うのは当たり前だろうが。」 その言葉は、心強くもあったけど、でも……。 『だけど、皆の役目は私を守ることじゃない筈なのに……』 「じゃあ、何だ?あいつらの方が俺たちより強いから、おまえを奴らに差し出して命乞いするべきだってのか?そんなのは、武士のやり方じゃねえ。少なくとも俺たちは、一度決めたことをてめえの都合でころころ覆すようなーーそんな腰抜け連中を目指してるつもりはねえんだ。」 『…………』 それは、そうだけど……。 揺るぎない土方さんの言葉に、私は何も言えなくなる。 私を新選組から放り出してしまった方が楽になることは、土方さんだってきっとわかってるんだと思う。 でもそうしたら、彼らが目指しているものから、かけ離れてしまうからーー。 だから、前と同じように私を一緒にいさせてくれてるんだ。 『……ごめん、変なこと言っちゃって。』 「詫びる必要はねえって言ってんだろうが。何度も同じことを言わせるな。」 土方さんは少しだけ照れたように顎を反らせて言った後、再び私を見下ろして……。 「……もしまた今日みてえなことがあったら、遠慮せずに俺に言え。山崎や島田を通して伝えてくれてもいい。」 『……ええ、わかったわ。』 土方さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でた後背を向けて、部屋を出ていってしまおうとするけどーー。 『あ、あのさ……!!』 「何だ?まだ何かあるのか。」 『えっと……』 先日の屯所襲撃で、負傷した隊士が多数いる。 一君は屯所を離れてしまっているし、近藤さんも連日、幕臣の方々との会合に出かけているし。 多分、土方さんは相当忙しいんじゃないだろうか。 私に、何か手伝えることがあればいいけど、でも……。 「おい、どうした?黙ってても、わからねえぞ。」 私は……。 『……何でもない。呼び止めて、ごめん。』 「何だ、度忘れしちまったのか?まあいい。そんじゃ俺は、部屋に戻らせてもらうからな。」 『うん、後でお茶持って行くね。』 「ああ、頼む。」 土方さんが出て行って、部屋には再び私一人になる。 『……ふう。』 皆の役に立ちたい気持ちはあるけど……。 不用意に屯所の中を出歩いて、さっきみたいなことになったら大変だし。 何もせず、ここにいた方がいいだろうか。 さて、文を頑張ろう。 |