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「お兄ちゃん、お風呂空いたよー」


直葉は、二階の和人の部屋の前で呼びかけた。


だが、応じる声はない。


病院からは夕方に帰ってきたようだったが、その後は部屋に閉じこもり、夕食の時も降りてこなかった。


直葉はドアノブに手をかけ、しばし逡巡した。

が、うたた寝していると風邪引いちゃうし、と心の中で呟いて、そっと手に力を込める。


かちゃ、とノブが回り、ドアがわずかに開いた。


中は真っ暗だ。


やっぱり寝てるのかなと思った時、部屋の中から凍えるような空気が流れだしてきて、直葉は体をすくませた。
窓が開けっ放しとしか思えない。


しょうがないなあ、と頭を振りながら、忍び足で部屋の中に踏み込む。


ドアを閉め、南側のサッシに数歩近づいてから、てっきり寝ていると思った和人がベッドの端に腰掛けてうなだれているのに気づいて、ぎょっと立ち止まった。


「あ、お兄ちゃん……ごめん、寝てると思って……」


慌てて声をかける。

しばしの沈黙のあと、和人がやけに頼りなく掠れた声で言った。


「……悪い、ちょっと、1人にしておいてくれ」
「で、でも……こんな寒い部屋で……」


直葉はおずおずと手を伸ばし、和人の二の腕に触れる。

氷のように冷たい。


「やだ、冷え切ってるじゃない、風邪引いちゃうよ。お風呂、入らなきゃだめだよ」


そこまで言ってから、直葉は、窓から差し込む街明かりに照らされた和人の頬に、うっすらと光るものがあることに気づいた。


「ど……どうしたの……?」
「なんでもない」


その低い声も、どこか濡れている。


「……でも……」


立ち尽くしていると、和人は、直葉の視線を遮るように、組み合わせた両手を額にあてた。

自嘲するようにな呟き声。


「駄目だな、俺は……。スグの前では……何があっても弱音を吐かないって決めたのに……」


それを聞いた途端、直葉は直感的に悟った。
小さな声で、恐る恐る訊ねる。


「沙稀さんに……何か、あったの……?」


和人の体がぎゅっと強張った。
絞り出すような声が低く漏れた。


「沙稀が……遠くに……行っちゃうんだ。俺の手の……届かないところに……」


それだけでは事情は解らなかった。

しかし、背中を丸め、幼い子供のように涙を零す和人の姿に、直葉の心はどうしようもなく震えた。


窓を閉め、カーテンを引き、エアコンのスイッチを入れてから、直葉は和人の隣にそっと腰掛けた。


しばらくためらった後、両腕で冷え切った和人の体を包み込む。

縮こまった和人の体から、ふっと力が抜けた。
耳元で囁きかける。


「ね、がんばろうよ……。好きになった人のこと、そんな簡単に諦めちゃだめだよ……」


一生懸命に探した言葉だが、自分の口から出たそれが再び心に戻ってきた瞬間、直葉は張り裂けそうな痛みを感じた。


胸の奥にある、確かな気持ちが生み出す痛みだった。

自分は和人のことが好きなのだと、この時直葉は強く意識した。







───あたしも、これ以上、自分に嘘はつけない。






直葉、抱きかかえた和人の体を、静かにベッドの上に横たえた。


毛布を引き上げ、その下でもういちど和人の背に手を回す。


何度も背中を撫でているうち、いつしか和人の嗚咽は小さな寝息へと変わったようだった。

眼を閉じながら、直葉は心のなかで呟いた。






───でも、あたしは諦めなきゃいけない。この気持ちは深い、深いところに埋めてしまわなきゃならない。






なぜなら、和人の心は、沙稀だけのものだから。


「沙稀さん……」


直葉が小さい頃、よく遊びに来てくれていた姉のような存在。

その彼女の隣にいた瞬斗は和人と同じもう一人の兄のような存在だ。






───『直葉、何して遊ぶ?』


───『4人で遊べるやつと言えばゲームだろ!』






直葉は三人より年下で置いていかれることもあったが、二人は直葉を本当の妹のように思ってくれた。


直葉もそんな二人の事を尊敬し、そして大好きだった。


今の和人に対する想いはきっと、沙稀に対する想いとも一緒なのかもしれない。






───あたしが好きになったのは、沙稀さんと笑い合うお兄ちゃんだから。あたしは2人が大好きだから。






また瞬斗、沙稀、和人の三人が笑い合っているところを見たい。


そして今度は直葉もそこに入って四人で笑い合いたい。








昔みたいに、また三人が一緒に笑い合えますように。


直葉はそう願いながら瞼を閉じた。
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