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今やその端正な面に、平時の強固な理性など欠片も見当たらない。
疲弊し追い詰められた精神が、恐鬼妃の些細な一言で弾け飛んだのである。
彼女の隣に在るのは、己だけでいい。
己だけが彼女の手となり足となり目となり脳となればいい。
他の誰かが恐鬼妃の傍らに立とうものなら、ブラックは躊躇うことなく狂気に堕ちるだろう。
真紅の瞬きを浴びるのは、己以外であってはならない。
「――て」
眼前の肢体を貪ることに夢中だった男は、ふと耳朶を掠めた音色で我に返った。
胸元に埋めていた顔を退き、導かれるが如く主を見上げる。
「やめて。あたしはあなたを怖いと思いたくない」
「あ……」
恐鬼妃の声は凛と響いた。
掠れても震えてもいない、芯の通った声だった。
けれど、長い睫毛に縁どられた眦には、金剛石が一粒。
彼女の心内を物語って余りある、透明な雫に飾られていた。
瞬間、粉々に砕け散ったブラックの理性は急速に復元した。
僅かに身を離し、恐鬼妃のあられもない姿を認識して、息を呑む。
胸まで引き下げられた着物、無数に散った口づけの痕と赤い三日月。
すらりと伸びた両脚が露わになり、その合間には己の足が差し込まれている。
後ろ手に縛られた両手に、ブラックは堪らなくなった。
「怖いなんて思わせないで。あなたに怯えるあたしは、あたしじゃない」
「っ!」
「あたしじゃ、ないの……」
強襲したのは罪悪感、自己への嫌悪感、燻り続ける欲望、恐鬼妃へ捧げた恋情。
すべて。
ブラックは微かに震える恐鬼妃の身体を力いっぱい抱きしめた。
骨が軋み弓なりに仰け反ろうとも、決して腕を緩めはしなかった。
「申し訳、ありませんでした」
恐鬼妃は魔界を統べる絶対の王。己を従えるただ一人の主。
有する魔力は絶大で、彼女の前では皆等しく首を垂れるしかない。
そんな誰よりも強く尊い存在が、「怖い」と言った。
言わせてしまったのだ。
傲慢で残虐で愚劣な己の業が、彼女が言うはずのない一言を引き出してしまった。
「申し訳ありません、申し訳ありません、主人様」
「ブラック……」
「申し訳ありません、本当に、申し訳ありません」
ブラックはひたすら繰り返した。
真からの想いで、幾度となく謝罪を紡いだ。
慰めるかのように恐鬼妃が頬を摺り寄せ、優しく囁く。
「いいよ。もう、いい。あたしがあたしで、あなたがいつものあなたであれば」
「申し訳ありません、申し訳ありませんっ」
恐鬼妃に恐怖を抱かせる者など、三界のどこを探してもいないだろう。
己以外には、いないだろう。
恐鬼妃に恐れを与えるのは、己だけだ。
罪悪感も嫌悪感も凌駕する、圧倒的な歓喜。
唇が弧を描くのを、どうして止められる。
「申し訳ありません、主人様。今日のことをどうぞお忘れなきよう」
すべては己を狂わせたあなたがいけない。
恐鬼妃の息を呑む音を、ブラックは至福の想いで聞いた。
fin.
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