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強情な恐鬼妃に、疲弊した神経がちりちりと刺激される。
逸らされる気配のない深紅の双眸が、苛立ちを煽る。
頬を包む手は、まだ外れない。
ブラックは気を落ち着けるように嘆息した。
少し、余裕を欠いている。
「期限を破れば狐が黙っていませんよ。あなた一人でこなせる量じゃない」
「でも……」
「さぁ、貸して下さい。オレ以外にあなたの仕事を手伝う者はいないんですから」
恐鬼妃の手を押しのけ、ブラックはやや強引に書類を奪おうとした。
その動きが停止するのは、次の瞬間。
「あぁ、そうだ。手伝ってもらえばいいんだ」
「は?」
「だから、手伝ってもらえばいいんだよ。いるじゃない、適任者」
恐鬼妃は嬉々とした様子で言った。
先ほどまでが嘘のように、あっさりとブラックの傍らを離れると、扉に向かって歩き出す。
「ほら、クァールがいたでしょう? あの子なら頭脳労働も出来る」
艶やかな唇から吐き出されたセリフに、ブラックの意識は凍りついた。
クァールは魔界に棲息する魔獣だ。人型を取れるほど魔力が高く、応じて人間以上の知能を有している。
魔獣の中では間違いなくトップクラスの頭脳派だ。
本質は獣らしく残忍で好戦的だが、恐鬼妃には意外なほど懐いていて、彼女の頼みとあらば喜んで手伝いをしてくれるだろう。
ブラックは凍えた思考の中心で、熱が脈打つのを感じた。
クァールなどよりよほど残虐で、仄昏い激情。
蓄積した疲労と憤りに後押しされて、今にも溢れ出しそうだ。
極寒の冷気を放つ理性が暴走間近の本音を抱き込んで、表出を抑えようと試みるものの、灼熱の嫉妬が凍結するわけもない。
「呼べばすぐに来てくれるもの。ほら、これでブラックも休めるでしょう」
恐鬼妃が明るい表情で言った瞬間、耳の奥で声が聞こえた。
焼き殺された理性の断末魔が。
「主人様」
ブラックはにっこりと笑顔を作ると、静かに恐鬼妃へ近づいた。
ドアノブに掛かっていた彼女の手を握り込み、間近からその美貌を見下ろせば、女は不思議そうにブラックを見返した。
とても無防備に。
「あなたが悪い」
「え……きゃっ!」
色のない一言と同時に、取り繕った笑顔は消えた。
細い肩を容赦のない力で掴み、彼女が出て行こうとした扉に勢いよく押し付ける。
扉が重い悲鳴を上げ、女の白い貌が苦痛に歪む。
頭を打ち付けのかもしれない。
整った眉をきつく寄せ、艶めかしい唇から苦悶の吐息を漏らす姿に、ブラックの嗜虐心は煽られた。
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