13年10月1日(醤油の日)限定「キューピッドの名は。」
「あ……」
「なんだよ」
思わず零した一音に、対面に座す友人が目線を寄越した。
彼の前には秋の味覚の代表格、秋刀魚がこんがりとした焼け目をつけて横たわっている。背骨が取られほぐれた身の横には、付け合せの酢橘と大根おろし。さぁ食すぞ、というところで食卓の中央に伸びた仁志の手は、醤油瓶を掴んでいた。
「いや、なんでもない」
「なんでもないわけねぇだろ。言えって」
「ほんと、どうでもいいことなんだって」
「じゃあ言えるだろ。気になって食えねぇよ」
「ちょっと懐かしいことを思い出しただけで。本当にくだらないんだけど」
「それでいいって。引っ張るだけハードル上がるぞ」
さっさとしろとばかりに促され、光は観念した。
「転校してきたばかりのとき、俺、会長に醤油瓶を投げつけたな……って」
「あー……あったな、んなこと」
光の言葉に記憶が呼び起こされたのか、仁志は感慨深げに頷いた。自分の手にするものをまじまじと見つめ、再び光に焦点を合わせる。口元に浮かんだ嫌な笑みに身構えた。
「あのバ会長に目をつけられて、よくもここまで生き残れたよな。今じゃ完全に手懐けちまってるなんて、あの頃からは想像もできねぇ」
「手懐けてなんかいないだろ。今だって振り回されてばかりだ」
「振り回してる、の間違いだろ。どう見たって、会長の方がお前のペースにはまってる。惚れた弱みってやつか」
穂積との関係を揶揄られて、光はにっこりと笑顔を作った。
「それは自分のことだろ? 綾瀬先輩が好き過ぎて、完全に振り回されてる恋の奴隷だもんな」
「なっ……!」
ぼぼっと火が付いたように赤く染まった仁志の顔面に、僅かながら溜飲が下がる。くだらないからかいを受けて、黙っていると思ったら大間違いだ。光の沸点が低いことを失念していた報いである。
恨みがましい目で睨んで来る仁志を無視して、光は自身の海鮮丼を口に運ぶ。その涼しい態度に諦めたのか、相手は場を取りなすように言った。
「……けど、お前もよく醤油なんて投げたよな」
「先に水をかけて来たのは会長」
「ってもよ、フツーは選ばねぇだろ」
「まぁ……あのときは頭に血が上っていて、コップ水より威力のあるものを探したから」
どうにかしてあの作り笑いを崩してやりたい。余裕の態度を、見下した眼差しを、慌てふためかせてやりたかったのだ。
「あのときの会長は、本当に最低最悪の傲慢魔王にしか見えなかったんだよな」
「アレ見てそう思わないヤツはいねぇから安心しろ」
「だな。タイミングが悪かったっていうのもあるけど」
「タイミング?」
不思議そうに首を傾げる男に、光は穂積本人から聞いた言葉を思い出す。あのときの穂積は、「本家」からかかって来た連絡を受けた直後で、すこぶる機嫌が悪かったらしい。言い訳だ、と前置きした際の苦い笑いが脳裏に蘇った。
「本当は真面目で責任感の強い、優しい人だったのにな」
柔らかに綻ぶ光の表情を、仁志はじっと見ていた。
「じゃあ、今なら何を投げつけるよ」
「は?」
「今のお前は会長の性格を知ってるだろ、俺は最悪だと思うけど。しかも、醤油瓶を投げつけたら、生徒たちから嫌がらせを受けることも知ってる。なら、今のお前は何を投げつけるんだ?」
意外な「もしも話」に目を瞬く。生徒たちの報復を避けるため反撃をしないのか、はたまた八つ当たりをするなと更に過激にナイフやフォークを飛ばすのか。穂積の内面や事情を知り、学院の特性も心得た現在の光は、何を選び取るのか。
仁志は興味深げに返事を待っている。
光はしばし黙した後、こともなげに言った。
「醤油かな」
「同じかよ!」
「うん、やっぱり醤油を投げつけるよ。俺は」
あのとき投げた醤油瓶は、綺麗なストレートラインを描いて穂積にヒットした。まっすぐ、まっすぐ穂積に向かって行った。
もし何も投げずあの仕打ちに耐えていたら、穂積はきっと光に興味を示さなかっただろう。彼を真似てコップ水を浴びせていても、未来は今と違ったはず。誰も想像し得なかった「醤油」だったからこそ、穂積は光を強く気にかけた。
まるで彼の制服に滲んだ醤油のように、光の存在は彼の心に沁み込んだのだ。
「俺は今に続いて欲しいから。だから、選ぶのは醤油しかないよ」
満足げな笑みと共に告げると、光は仁志から醤油瓶を受取って、海鮮丼の上へと傾けた。
fin.
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