10年11月22日(いい夫婦の日)限定「奥様は少将様。」




神楽の一日は、暖かい寝床からの脱出で始まる。

「……」

ぱちりっと目覚まし時計が鳴る前に目蓋を開いた神楽は、ぼやけた視界を正すため、幾度か瞬きを繰り返す。

明瞭になった視界には、見慣れた寝室の風景が映り込み、窓のカーテンの隙間から透き通った朝の陽ざしが差しこんでいて、今日の天気も良さそうだと知る。

それから全身に纏わりつく奇妙な重量感に、眉根を寄せた。

「……離してもらえますか」

寝起きの少し掠れた声で、背後に囁きかけるも返事はない。

腰に回った逞しい腕も、足先に触れる体温も、項に感じる髪の尖った感触も、身動ぎ一つないままピクリとも動かない。

微かな寝息が鼓膜に触れる。

あぁ、まだ寝ているのか。

何てどうしてこの男相手に思えようか。

「起きているのでしょう。いい加減に離してくれますか」
「……」
「鳩尾の激痛で目を覚ますのと、今大人しく私を解放するのと、どちらがいいですか?」
「くっ……」

潜めた声はそのままに、独り言よろしく呟くと、くつくつと喉の奥から響く笑い声が至近距離で聞こえてうんざりする。
背中から抱き締められているせいで、笑うリズムに合わせて振動が伝わって来た。

「……ようやくお目覚めですか」
「朝っぱらから殴られたくはないからな」

ささやかな嫌味に、男は神楽の耳裏へ唇を押し当てながら言い返す。

柔らかな温もりに血流がじんわりと促され、鼓膜のさらに奥でドクンッと派手な脈が打つ。

「っ、起きたなら離れ……!」

神楽が文句を最後まで口にするより早く、碧は牙にも似た犬歯でするりとその細い首筋を撫でた。

頸動脈にあてがわれた固く鋭い熱に、ゾクッと爽やかな朝にはそぐわぬ衝動が背筋を駆け抜ける。

不味い。

全身から力が抜けてしまっては手遅れと、神楽は慌てて起き上がろうとするが、腹に回った腕がそれを許さない。

ただ置かれていただけのはずが、今では堅固な拘束力を有している。

「何の、つもりですかっ……」
「まだ時間あるだろ。急ぐことない」
「今日は朝の定例会議の日です」
「それでも、十分な余裕がある」
「私はいつも早めに――」
「んなことは知ってる」

知っている。

そうだ、知っているのだ。

この男は。

思わず口を噤んで硬直すれば、碧はくすりと笑みを零して、神楽の左手を毛布の中から取り出した。

枕元まで届く朝日に照らされた、二人の手。

その薬指には、揃いの指輪が輝いている。

「いい加減に慣れろ」
「……何に慣れろと?」

自分の瞳に映る現実に、体温が上昇して行く。

触れ合った肌は、彼に神楽の心内を教えてしまっているだろうが、それでも口調だけは冷淡でいた。

落ちつけ、早く普段通りの自分に戻れ。

必死で言い聞かせる神楽の努力を、碧は楽しそうに、そうして簡単に撃ち破る。

「俺との結婚生活」
「っ!」

具体的な二文字を出されて、息が詰まった。

こんな思春期の少女のような反応、したくなどないのに。

自分で自分が許せないのに。

碧は残酷だ。

神楽のジレンマまで分かった上で、こんなことを言うのだから。

「俺はもう慣れた。朝、お前に起こされるのも、風呂の順番待ちも、時間ずらして部屋を出るのもな」
「……早くも飽きましたか」
「……」

せめてもの抵抗で、意地の悪い嫌味を投げつける。

だが、一瞬の沈黙に心臓が冷えた。

まさか、本当に?

全身を廻る血液が一気に冷却する。

強張る身体を無理やり動かして、神楽はぎこちなく背後を振り返り。

「……お前、可愛いよな」
「はっ!?」

真顔で言ってのけた碧に、目を見開いた。

何を言っている、何がどうしてそうなった、意味が分からない。

まったく意味が分からない。

意味は分からないけれど、滅多に言われない形容詞に、羞恥や怒りや屈辱を感じもせず、胸を高鳴らせた自分を信じたくなくて、神楽は渾身の力で碧の腕から抜け出した。

「馬鹿なことを言っていないで、さっさと用意をして下さいっ」

神楽の一日は、甘い腕からの脱出で始まる。


fin.



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