視線。SIDE:神楽




テレビの上に掛かった時計を見れば、長針が丁度12で止まった。

ちなみに短針は3を指している。

集中力のままにパソコンに向っていたが、これほど時間が経過しているとは思わなかった。

そろそろ寝た方がいいだろう、と思いはするけれど、いつも以上に頭が冴えているのだ。

機会を逃すのは忍びない。

終わりも見えているし、もう少し。

眼鏡のブリッジを押し上げてから、神楽は再び手を動かした。

「なんだ、まだ起きてたのか」

静かに開いた扉は、碧の部屋のもの。

短髪に手を入れながら、男がやや驚いた顔する。

「……あぁ、すいません。起こしてしまいましたか?」

しまった。

何とはなしにリビングで作業をしていたのだが、五月蝿かったのだろうか。

タイピングの手を止め謝ると、しかし相手は「いや」と言いいながらキッチンに入って行く。

どうやら水を飲みに来ただけのようだ。

冷蔵庫の開閉音に一人納得。

よかった、同居人に迷惑をかけたわけではなさそうで。

ほっと胸を撫で下ろしつつ指を動かし始めると、背後から声がかかった。

「期限忘れてたのか?」
「まさか。そんなわけないでしょう。締め切りはずっと先です」

自分がそんな愚かな事態に陥るわけがないだろう。

失礼な物言いに若干眉が寄ったが、次の台詞により一層眉間の線が深くなった。

「なら寝ろ。あんま起きてっと朝キツイだろーが」

来た、これだ。

エンターキーを叩く力が、僅かに強くなる。

「……今、調子がいいんですよ」
「っても、限度があるだろ」
「今出来ることを後に回す必要はありませんから。それに、睡眠は時間ではなく質ですよ」

本当に嫌だ。

大嫌いだ。

いつものように我がもの顔で、好き勝手やっていればいいのに。

粗暴な外見、意外な気遣い。

時折、顔を見せる一面は性質が悪い。

無防備なときに与えられるそれは、神楽の心を騒がせる。

酷く動揺する自分が、大嫌い。

返した言葉が揺れていないか、不安に思う。

こちらの願いが通じたのか否か。

碧からの言葉はそこで途絶えた。

よかった。

これ以上、彼の発言に煩わされたくはない。

せっかくの集中を、奪われなくてよかった。

内心だけで安堵している事実は、神楽を更なる自己嫌悪に陥れようとしたけれど、タイピングを再開することで無理やり押し殺した。

カタカタと鳴る規則的な音。

だが、画面に数行が追加されたところで、奇妙な違和感に襲われた。

なんだろう。

首の後ろ辺りがチリチリする。
焦げ付くような奇妙な感覚は、内側にある何かを突き刺すように刺激した。

キーボードの上で踊る手はそのままに、神楽の脳はその不可思議な現象を追うように意識を研ぎ澄ませた。

瞬間。

気付く。

どうして今の今まで気付かなかった。

どうしてこれほど愚鈍でいられた。

貫くほどではないか。

射抜くほどではないか。

腰の中央から背骨に沿って、ゾワリと突き抜けた衝動。

見られている。

誰に?

答えはたったの一つだ。

神楽の背後にいる人間は、だって一人だから。

どうして?

次いで生じた疑問に対する解を、しかし今度は得ることが出来なかった。

あの男が、今、自分を見ている。

纏ったシャツが情けない防御壁。

簡単に崩されてしまいそうな布地越しに感じる、熱量。視線。

何を考えて、何を思って、何を意図して。

碧はこちらを見ているのか。

分からない。

まるで見えない。

優秀な頭脳はまるで役立たず。

手にすることの出来ないアンサーを、求めるのならば振り返ればいいのに。

向き合って、あの鋭い双眸に宿っているであろう感情を、直視すればいいだけ。

なのに、神楽の体は動かない。

縫いとめられたかのように、パソコンと見詰め合ったまま、背後を確認することは出来ないのだ。

レポートを綴る両手さえ止めることが叶わなくて、何かが自分を突き動かす。

痛い。

背中が痛い。

灼熱の見えざる手が、這い回るようだ。

駄目。

駄目。

これ以上、この視線に耐えることなど出来ない。

奥底に眠るそれを、呼び覚まそうとする誘いの視線。

駄目。

駄目。

目覚めてはいけない。

目覚めてしまえば、きっと。

引き返すことは出来ないのだから。

「……っ」

それは唐突だった。

消え去った圧力に、知らず詰めていた呼吸が元に戻る。

あれほど強力だった呪縛が、跡形もなく消え去ったのだ。

部屋に充満していた重苦しい空気が霧散して行くのが分かった。

どっと額に吹き上がる汗。

がちがちに強張っていた体から力が抜けて、今にもテーブルにへばりつきたかった。

押し寄せる疲労感。

急速にやって来たのは、あれほど冴えていた脳内を忘れさせる、明確な睡魔だった。

キッチンで人の動く気配を感じ顔を上げれば、例の男が自室の扉に手をかけている。

あぁ、そうだ。

もう部屋に戻ってしまえ。

貴方が何を考えて、何を思って、何を意図して。

こちらを縫いとめたのか。

考える体力は残っていないから。

早くその扉の向こうに姿を消すがいい。

「あんま無理すんじゃねぇぞ、かぐ……っ」
「ふぁっ……っと、失礼。えぇ、分かってます」

零れ落ちた欠伸は、碧のせい。

すっかり気力が削がれてしまっては、これ以上レポートを続けることも出来まい。

パソコンの電源を落とす神楽の前で、真意の読めぬ同居人は闇の待つ空間へと帰っていった。

気付きたくない。

考えたくない。

襲い来る緩やかな眠りに身を任せるため、神楽もまた自室へと続く扉に手を伸ばした。

見つけかけた答えなど、闇に溶かしてしまえ。


fin.



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