大人。SIDE:神楽
「お、青瀬先生!おはようございます」
「おはようございます」
「篠凪(ササナギ)くん、もう来てますよ」
アルバイト先の塾に到着したのは、授業開始ぎりぎりだった。
受付でタイムカードを通し、神楽は講師控え室に入る。
ビルのワンフロアをパーテンションで仕切ったこの個別指導では、所々からすでに授業を開始したのか、話し声が聞こえてきた。
講師と生徒を見分けるための白衣を羽織ると、神楽は担当している生徒のブースへと、カルテを持って向かった。
「こんにちは、遅くなりました」
「先生、遅刻じゃない?」
席で待っていた生徒は、三学期で学校もないのか私服姿。
かっこいいと女性講師からも人気のある、篠凪 那継。高校三年生だ。
年に見合わぬ余裕の笑みで、笑いかけてきた。
「チャイムはまだですよ。ほら、今鳴りました」
「室長、絶対に先生のこと贔屓してるよ。時計だと、時間過ぎてる」
チャイムのボタンを押すのは、室長の仕事だが、彼の言う通り始業の時間から少し経過している。
曖昧に微笑んで流すと、神楽は言わねばならないことを口にした。
「篠凪くんに、謝らなければいけないことが……」
「那継って呼んでって言ってんのに、先生つれなくない?」
「実は……」
「あ、スルーですか」
やや不満げな顔を作った篠凪は、平時と異なり年相応で、神楽は自然と頬を緩めた。
「私は貴方の『先生』ですから。他の『生徒』も苗字で呼んでいるので、君だけ名前では呼べませんよ」
「だから、俺だけ」
「君だけ?」
「そ。特別って感じするし」
「なら、尚更名前では呼べません。君の特別な相手に呼んでもらって下さいね」
眉を寄せる生徒に構わず、この話はここまで、と締めくくってやる。
子供の独占欲は、元来あまり好きではない。
篠凪のはそれとは少し違う気もするが、恐らく大差はないだろう。
「話を戻しますね。実は君の合格祝いにと思ってケーキを買ったんですが」
「え、いいのに。気を使わなくても」
「いえ。それが購入まではしたものの、食べられてしまって」
ぱっと嬉しそうに笑った相手は、けれど続いた神楽の台詞に怪訝そうな色を瞳に宿す。
どこか探るような二つの光を注がれて、少し居た堪れない。
これも全部、あの同居人のせいだ。
しれっと勝手に食べたことを告白してかと思ったら、家を出るときには何故か満足そうに笑いまでした、あの男。
彼に品性や常識を求めるだけ無駄なのだろうけれど、いい大人があれでは社会でやって行けないだろう。
今はバイトをしているようだが、大学に通っている様子もないし、フリーターという奴なのだろうか。
兄から仕事をしているような話しを聞いた覚えがあったのだが。
「先生ってさ、実家だっけ?」
「え?いいえ、一人暮らしですよ」
意識を飛ばしていた神楽は、投げられた質問に現実を取り戻した。
しかし、僅かに遅かった。
対面の教え子の目に存在する疑念の意思を、見落とした。
「じゃあ、誰に食べられたの?」
「……っ」
頬が強張った。
碧と暮らしている事実を知っているのは、兄だけで。
神楽としては、他に誰に言う気もないし、知られたくない。
何故かと問われれば、明確な返事は出来ないけれど、たぶん神経質な自分が粗野な年上の男と生活していると思われたくないのだ。
己の資質まで疑われるのは、御免である。
どう言い逃れようかと、頭を素早く回転させる男は、すぐに言葉を見つけた。
「犬が食べてしまったんです」
「……犬?」
「えぇ。駄犬のくせに器用で、冷蔵庫を勝手に漁って、時々食い荒らすから困ります」
眉尻を下げて微笑む神楽を、篠凪はどう思っているのか。
暫時、白衣の相手を見つめたあと、にこっと笑顔を作った。
「そっか。先生、犬飼ってたんだ。可愛い?」
「まさか。兄から押し付けられただけですし、大型なので場所ばかり取って、いい迷惑です」
190に届こうかという男は、確かに大型だ。
迷惑なのも、兄から押し付けられたのも、あながち嘘ではない。
実感の篭った最後の一言に、少年は「大変だね」と同情してくれた。
「ですから、次の授業まで待ってもらえませんか?」
「いいけど……俺、今月で辞めるし時間そんなにないよ」
「次回までには、必ず用意しますから。受験前からの約束でしょう?」
「……確かに食わせてって言ったけどさ、ちょっと内容変わってるよね」
小さく呟かれた台詞は、こちらの鼓膜を揺らすことなく、隣のブースから聞こえる問題解説の声に紛れて消えた。
「え?今なにか……」
「んー別に。先生、約束守ってくれるんだと思ったら、嬉しくて」
「当然でしょう?子供みたいな嘘はつきませんよ」
つくならもっと、狡猾で利益のある嘘だ。
にぱっと笑う相手に応じるように、神楽も穏やかに微笑む。
篠凪は背もたれにぐっと寄りかかると、何気ない調子で言葉を紡ぐ。
「先生は、大人ってこと?」
「年齢から言うと、君よりは大人ですね」
「そんな変わんないじゃん。今20でしょ?」
「けど、その二年はどうやっても縮まりませんから」
碧は確か23だったか。
何処かに勤めてもいい年だが、一体なにをやっているのだか。
マンションの家賃は兄が払っているので問題ないが、光熱費や食費は折半している。
バイトも気紛れなシフトのようだし、資金源は一体……。
一緒に暮らす『駄犬』のことを考えていた自分に気付き、神楽は慌てて思考を中断させた。
別に自分が心配するようなことでもあるまい。
支払いさえきちんとしてくれれば。
そうだ。
ただ同じ部屋を共有しているだけの間柄。
踏み込むのはお互いにとっても良くない。
まるで言い訳のような言葉を、自身に向かって並べ立ててしまって、男は白衣の下。
胸の中心。
左よりが、速くなるのを感じずにはいられなかった。
「なら先生、子供の他愛無いお願い、聞いてくれる?」
「え、なんですか?」
走ったばかりのように、どくどくと脈打つ鼓動に目を向けていたせいで、篠凪の言う台詞を理解したのは、随分あとになってからだ。
「俺ね、ここだけの話。食わせてって言ったのは、ケーキじゃないんだよ?」
「はい?」
常と比べて格段に鈍くなった頭に、それがぶつかった。
「先生、食わせてくれない?」
子供の唇が緩い弧を描くのを、神楽の瞳は確かに映していた。
fin.
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