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「そんなに気を回さなくていい。俺は平気だ」
「でも……」
本当に、平気だと言えるのだろうか。
心からの言葉と信じていいのだろうか。
自分ならばと、置き換えて考えたところで意味はないから、歌音には逸見の本心を推測することさえ出来ない。
本人が言っているのだから、納得すればいいものを、彼の性質を考慮すれば躊躇いが残る。
疑う自分を恥じながらも、踏ん切りがつかずにいたとき、一際強い声が耳朶に触れた。
「嘘じゃない。お前には、もう、隠さない」
真剣な面持ちで正面から見据えられ、打ち鳴らされた心音が全身に波紋を広げる。
指に通った細い血管すらも、びりびりと震えている錯覚。
嘘偽りのない清廉な眼差しが、歌音一人を彼の世界に取り込んでいるのが分かって、鎮まったはずの熱がぶり返しそうだ。
「もう二度と、隠さない。お前を傷つけるだけなら、俺はすべてを明かす」
きっぱりとした宣言が、少年の深奥に何の障害もなく、届く。
二人は隠した。
己の本音を。
綺麗などではない。醜くくも卑怯で凡庸な命。
忠誠だけではない。浅ましく求める凶暴な業。
伝えぬまま、明かさぬまま、時が流れて二人の距離は遠ざかるばかり。
自分の理想を押しつけて、虚像ばかりに囚われて、まがい物の世界で嘆き惑い苦しんだ。
でも、今は違う。
同じ過ちを繰り返すつもりは、少しだってない。
「だから、俺にお前をくれないか」
熱い。
真っ直ぐで、怜悧で、真剣な意志。
己の真実を訴えながら、歌音の真実に突き刺さる、歪みのない輝きが、熱くして仕方がない。
「真実の俺は、すべて歌音のものだから。俺だけに、本当のお前を与えてくれ」
遠慮がちに伸ばされた大きな掌が、真っ白な頬を包み込む。
宝物にでも触れるように、丁寧で繊細な手つきだけれど、容易に逃げることが叶わぬ力加減。
真摯な表情で、懇願のような文言を口にしておきながら、この手はいつでも刃に変貌できる。
歌音が拒絶を示せば、即座に爪を立てて血を呼ぶのだろう。
情けもなく、衝動に突き動かされるがまま。
それが、嬉しい。
大切に護られるだけではない、逸見が本気で歌音を欲しているという、何よりの証明だから、嬉しい。
ありのままの自分を理解しても尚、変わらぬ逸見の熱情に、歌音の頬がふわり。
綻ぶ。
歌音は一度だけ目蓋を伏せると、再び姿を見せた碧眼に、しっかりと愛する者を閉じ込めて、静かに答えを渡した。
「僕は全部、君のものだ。だから、君も全部、僕のものなんだね」
顔に添えられた逸見の手に、己のそれを重ね合わせる。
僅かな触れ合いに耐えられなくなったのは、どちらが先なのだろう。
どちらからともなく腕を伸ばして、二つのシルエットは全身で互いの体温を感じた。
夜を刷いた空気に漂ったのは、幸福の微笑。
玲瓏と煌めくか細い月は、窓硝子の向こうで夏の夜風に吹かれている。
「学院に戻る前にでも、エリスの見舞いに行くか」
「うん」
甘やかな口付けを受け止めながら、歌音は昨夜とはまるで異なる感情に包まれていた。
秋の訪れは、まだしばらく先のこと。
fin.
next:あとがき。
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