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逸見 秀は悠然とした様子で腕を組み、扉に凭れかかっていた。
ゆるりと持ち上がった口端は、息子が浮かべる策略家の微笑と酷似しているが、切れ長の双眸の色は似ても似つかない。
底冷えがするような淀んだ黒に、身内の熱が吹き飛ぶ気がした。
「どうして、貴方がここにいるのですか。入室を許可した覚えはありませんし、そもそもボスから自室謹慎を言い渡されているはずです」
「胸騒ぎを覚えまして、急ぎ参った次第です」
「頼んだ覚えはありません。なにも問題は起こっていませんから、貴方はすぐに――」
「いいえ、問題は起こっております。とても甚大な問題がね」
「逸見様?」
嘲りの口調を不審に思ったエリスの呼び掛けに、秀は扉から身を起こすと、音もなく歩を踏み出した。
少しずつ距離を詰めて来る男に、警戒心を抱かずにはいられない。
無意識の内に全身の筋肉が緊張する。
「歌音様、今、私は何を耳にしたと思いますか。驚きました、まさか貴方ともあろうお方が、エリスではなく失敗作を選ぶとは、夢にも思いませんでしたからね」
「失敗作、ですか」
「えぇ、要(かなめ)は失敗作です。あのようなものを選ぶなど、恐れながら正気の沙汰とは思えません。お考えを改めては頂けませんか?」
丁寧な言葉遣いでありながら、秀の声音には隠そうともしない侮蔑が含まれている。
瞳に浮かべる感情と、口元に刻まれた弧の落差は、ひどく奇怪で明らかに異質だ。
しかし歌音は、後退しかける身体をどうにか留まらせ、澄んだ水面を思わせる碧眼で、秀を射抜く。
「正気でないのは、貴方の方です。秀」
躊躇いなく告げた瞬間、対面の男の顔が凍りついた。
纏う空気がみるみる冷却され、足元に忍び寄るほの暗い殺気。
今の彼に対して、言うべきでないと理解している。
エリスではなく逸見を選んだ歌音に、秀の内側では凄まじい怒りが渦巻いているであろうことは、容易に知れる。
笑顔を取り繕っては見せても、滲む感情は明らかなのだ。
それでも、看過できる発言ではなかった。
愛した男を侮辱されて、黙っていられる訳がない。
歌音は危険を承知で、言を紡ぎ続けた。
「貴方は二度も間違えた。今なお、間違え続けている」
「私が、間違っている?」
「そうです。貴方は何も分かっていません。だから、意志を持たない人形を生み出そうとする。命令に忠実なだけの側近を造り出そうとする。誰も求めていないと言うのに、自らの信じる理想像に囚われています」
小馬鹿にしたように笑われても、怯まない。
ここで怯んでは、歌音はすべてを否定することになる。
無表情の男の笑顔を欲して奮闘した過去、虚像を見る逸見に感じた痛み、彼の抱える真意を知らずにいた無知な自分、触れ合った互いの熱の幸福、そのすべてを否定することになるのだ。
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