◇
「なに?」
「昨日の、図書室の帰りです」
「……」
「突然、走りだされたのは、なぜですか」
ボタンを閉めて行く指が、しばし止まる。
質問されるであろうことは、分かっていた。
そうして自分が彼に渡す言葉が、どれほど罪深いのかも、理解しているからこそ、歌音はエリスと顔を合わせたくなかった。
けれど、揺らがぬ事実に気付いてしまった今、逃げてはならない。
ずっと視界の外に追いやって、見ないふりをしていたけれど、認識してしまったのならば、覚悟を決めるべきである。
一つ息を吸い込んで、口を開いた。
「逸見が僕の側近になったばかりのころ、彼はまるで人形のような顔をしていたんだ」
「……」
唐突な昔話。
質問の答えには程遠いにも関わらず、エリスはじっと黙して先を待ってくれる。
「少しも笑わないし、怒りもしない。感情の変化がまったく感じられなくて、僕はとても驚いた」
慇懃な態度、堅苦しい話し方、十分な療養で取り戻した本来の端正な面には、いつだって無表情しかなかった。
「それだけじゃなくて、彼は自分の意見をほとんど僕に言わなかった。たまに言っても、僕を気遣ってのことで、結局はすべて僕の命じるまま、僕の意志を最優先にして、行動をしてくれた」
慕ってくれているのは分かった。
自分には勿体ないほど、強い忠誠を注がれているのも、理解していた。
贅沢な話だ。
それだけでは物足りないなんて。
「すごく、寂しかった」
「寂しい?」
怪訝そうに繰り返され、歌音は過去に想いを馳せながら、静かに微笑んだ。
「前に話したよね。忠誠心しか持たれないと、人はとても寂しくなるって」
「はい」
「あのときの僕は、今よりずっと寂しくて堪らなかった。せっかく同じ年頃の子が傍にいるのに、相手は僕に欠片ほどの本音も見せてくれないんだもの。傍にいるのに、尽くしてくれるのに、一人きりの気分だった」
やがて見下ろす眼鏡の奥の眼に、聖なる何かを仰ぐ輝きを認め、ますます心は凍えた。
彼は自分を見ていない。
彼は自分を見せはしない。
寂しくて、悲しくて、腹立たしくなる。
「だから僕は、彼に笑って欲しいと思うようになった。本当はどんな表情でもよかったんだけどね、無表情以外なら。でも、やっぱり笑顔は特別」
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