◇
「いいえ」
「……わかった」
主に気遣われてしまうとは、何をやっているのか。
余計なことで煩わせるわけにはいかない。
仕える者として当然の思考から出された否に、歌音は数拍の間を置いてから頷いた。
その音色に落胆が混じっていたと、このときの逸見が気付くことはなかった。
くるりと背中を向けて、窓際のソファに積まれた本の元へと戻る歌音の後に、ついて行くだけだ。
数冊の洋書は経営学の専門書や思想書と、様々。それらを未熟な両腕で抱え持とうとした主に、素早く手を差し出した。
「私が」
「ありがとう。でも大丈夫、必要ないよ」
「しかし――」
「持てないほどじゃない」
珍しく強い口調での拒絶に、逸見は内心だけでドキリとした。
幼い外見に惑わされがちだが、歌音の内面は非常に大人びていて聡明だ。
早熟と言っても過言ではない。
そんな彼が、明らかに自分の許容範囲を越えた真似をするとは思いもよらず、動きが止まる。
歌音は器用に腕の中に本を積み上げると、逸見を待たずに開いたままの扉から廊下へと出てしまった。
「か、歌音様っ」
呆けている場合ではない。
慌てて追いかけると、小さな背中は廊下の真ん中を、よろめきながら進んでいるではないか。
「やはり私にお任せ下さい」
「……」
「手に怪我をしてしまいます。書物なら私が確実にお部屋へと運びますから」
「……」
横から言い募るも、歌音は無言を貫く。
目を合わせもせず、指に食い込む本の重さに耐えながら、歩き続けている。
歌音が逸見を無視するなど、初めての経験だ。
一体どうしたと言うのだ。
訳が分からず戸惑いながら、逸見は階下へと下る階段に差しかかったとき、こっそりと塔を築く本に隠れた歌音の顔を窺った。
一見すれば、いつも通り。
特別な変化などない。
けれど、その桜色をした唇の端が下がっていると。
滑らかな曲線を描く眉が中央に寄っていると。
観察力に優れた逸見は気付いてしまった。
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