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惑い揺らぐ心が、はっきり伝わって来る。
けれどもう、我慢をするつもりはなかった。
彼は「側近」ではない、ただの「逸見 要」として。
「主人」ではない、ただの「歌音・マルティーニ」を求めて来たのだ。
明確な情欲に従って、剥き出しの本能のままに、手を伸ばして来たのだ。
ならばもう、耐え忍ぶ意味もない。
積もり積もった想いを、音にした。
「ずっと、苦しかった。君に「そう」呼ばれるたびに。僕じゃない誰かを呼んでいるようで、見ているようで、嫌だった」
忠実な僕(しもべ)の顔で、崇拝する神のように仰がれて、厳粛な響きで名を紡がれる。
何の変哲もない一つの生命であるはずが、至宝の輝きさながらの扱いを受ける。
苦しくて、たまらなかった。
そんなものになりたいと思ったことは、一度としてなかった。
「君にとっての僕は、いつだって僕自身ではなくて、まったくの別人だった」
「そんなことはっ……」
「本当に?逸見、君の目に映る「歌音」は、清らかで穢れのない、触れてはならない聖なる存在ではなかった?」
反射で返された否定を、切り捨てる。
言葉を失くす彼の表情に、諦めと同時に切なさを覚えた。
分かってはいても、直面するのは痛い。
歌音は内心の激痛を押し殺し、諭す音色で続ける。
「……すべて、間違いだよ。そんな「歌音」なんて、どこにもいないんだ」
「違うっ、お前は俺の救いだ、闇から引き上げる光りだ。お前を穢そうとした俺が、俺がすべて悪い!」
「なぜ?君に穢されるほど、僕に綺麗な部分なんてないのに?」
歌音らしくない自嘲を帯びた口調に、暫時、逸見は怯んだ。
どうにか反論をしたものの、そこには迷いが滲んでいる。
「俺は……お前を護ることが存在理由だ、お前の傍に在るだけで、生きる意味を持てたっ」
「うん、ありがとう。僕を護ってくれて、傍にいてくれて、嬉しかった。けど、辛かった」
「辛かった……?」
呆然と復唱する逸見から、音が聞こえるようだ。
彼の信じる世界が、崩れる音が。
もっと、もっと崩れてしまえばいい、壊れてしまえばいい。
叩き潰して、粉々に割って、欠片だって残らなければいいのだ。
これまで逸見が作り上げて来た、紛いもののすべてを破壊するために、歌音は心内を明かす。
「ずっと僕を見て欲しかった。僕を呼んで欲しかった。君の目にありのままの姿で映る、すべての人が羨ましかった」
穂積や綾瀬や仁志。
学院の面々だけでなく、両親さえも。
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