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「だれ?」
ふと、声が聞こえた。
透明度のある、高い声だった。
幻聴か、それともあの世の使者の声か。
随分とファンタジックな考えに笑いたかったけれど、顔の筋肉が動いた気配はない。
「きみ、どうかしたの?……けが、してる?」
声はもう一度聞こえた。
思いの外大きく聞こえたことに驚きかけた少年は、ふわりと頬に感じた柔らかな感触に、その声が現実のものであると理解した。
どこに力が残っていたのか、カッと目を見開く。
「いま、人を呼ぶからね。大丈夫だよ、ぼくが助ける」
呼吸が、止まった。
ただでさえ浅かった呼吸が、完璧に停止するところだった。
少年の目には、天使が映っていたのだ。
決して比喩ではない。
日暮れの街に灯る明かりに似た、暖かな橙色の髪。
ふんわりと白い肌。
大きな瞳には、慈悲深ささえ感じられる。
何よりも、背中に広がる眩い輝きを放つ羽に、信じられない思いになった。
自分はまだ、死んでいないはずだ。
それとも、本当にあの世の使者なのだろうか。
天窓から差し込む朝の日差しが、暗い独房の中でまるで翼のように、天使の背後の壁を照らしていたと気付くのはずっと後の話。
そのときの少年には、労わるように自分の頬に手を添える存在が、疑いようもなく天使に見えていた。
衝撃から何事かを口にしようとするも、喉の奥が引き攣れたような、奇妙な音が鳴るに終わる。
「無理をしないで。大丈夫、大丈夫だよ」
痛ましそうな顔で少年を覗き込む、天使の透き通った碧眼の中には、痩せた小汚いものがいる。
真っ直ぐに注がれる奇跡のような輝きに、自分などをおさめてくれているのだと分かると、胸の奥でぱちりっと火花が散った。
触れ合った部分から、じんわりと熱が蘇り、内側の小さな火種に結びつく。
死ぬのだと思った。
十年と少しの人生が、終わるのだと思った。
抵抗する理由もなく、未練もなく、至極穏やかな心で従おうと思っていたのに。
少年は、暖かなオレンジ色の髪を持つ天使を目にした瞬間、すべてを放棄する意志を失った。
「ぼくは歌音……。もうつらいことは、ないからね」
かなめ。
逸見 要。
名乗り返す前に、少年はついに意識を手放した。
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