自室のガラス窓から見下ろした光景に、心臓が止まりかけたのは、随分と前のことだった。

ここ数日、ろくな睡眠も食事も取っていない男の姿は、常の独特な気迫に満ちた彼とはかけ離れた、無残なものだった。

眼鏡の下には、くっきりと描かれたくま。整えられていない髪はぼさぼさで、身につけた衣服もよれ切っている。

精神的な圧迫感から、やつれていると言っても過言ではない有様だ。

そんな男――逸見に留めを刺すが如く、目撃してしまった映像。

彼の胸中とは対極に位置する、爽やかに晴れた入道雲を飛ばす空の下、自分の求めてやまない少年が、褐色の肌を持つ新しい側近と連れ立って、何処かへ出かけて行ったのである。

三階のここからでも確認できた、歌音の笑顔の先にいるのは、エリスと言う名の略奪者だ。

これまで、あの笑顔が注がれるのは自分であったのに。

虚ろな眼にそれが入り込んだ瞬間、身内が燃えるように熱く苦しくなった。

ジリジリと焦がす灼熱が、器官すべてに手を伸ばし、目の前を紅蓮で覆う。

爪を立てて窓に縋った手に、巻かれた包帯。

じわりと赤が滲むことにも気付かず、叩き割る勢いで何度も透明な隔たりを叩いた。

防弾仕様のガラスは、びりびりと身を揺らすも割れることはない。

まるで、もう二度と歌音に触れることは出来ないと暗示するようで、さらに苛立ちが募る。

違う。

自分は一度も、歌音に触れたことはなかった。

「側近」としての自分ではなく、ただの「逸見 要」として、歌音に触れたことはなかった。

だってそうだろう。

どうして彼の体温を感じられる?

真実の己が、剥き出しの己が、あの憎悪さえ覚えるほど綺麗な存在に、触れて終われるわけがない。

どれだけ求めていようとも、生身の自分で肌を重ねてしまえば、文字通り以上にまで、踏み込まずにはいられない。

歳月を経て蓄積された欲求が、真実に従い暴れだすだろう。

神聖な彼の人を穢すことを恐れ、逸見はちょうど今のように、「側近」という透明な壁を介してでしか、歌音に触れることはなかったのだ。

「無様だな」

固まったように窓際から食いついて離れない逸見の耳に、聞き覚えのある声が滑り込んだ。

嘲りと侮蔑をたっぷりと含んだ、毒。

相手が誰であるかなど今更で、驚く必要もない。

大方、警備の目を掻い潜って来たのだろう。

逸見はひどく緩慢な動きで、背後の扉を振り返った。




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